
福田康夫元首相が10月22日に90歳で逝去されたことが、同26日に発表された。約5年5カ月続いた小泉純一郎政権の時代が終わり、戦後最年少の52歳で首相に就任した安倍晋三氏が、閣僚の事務所費問題や体調を崩したことで、1年あまりで第1次政権退陣に追い込まれた後を継いだのが、福田氏。就任時は71歳。昨今の首相の就任年齢では遅い方だが、当時の「ポスト小泉」として名前が挙がっていた「麻垣康三」(麻生太郎氏、谷垣禎一氏、福田氏、安倍晋三氏)の一角だった。ご本人が自虐的に語った「影」であっても、何より小泉政権の官房長官としての存在感は多くの人の記憶に刻まれているのではないかと、今でも感じている。
福田氏は、小泉氏の後継レースとなった06年総裁選に出馬しなかったため、「麻垣康三」メンバーらによる戦いは安倍氏が圧勝。その安倍氏が1年で退陣することになったことを受けた「ポスト安倍」レースでは、「プチ混乱」も起きつつ、一気呵成(かせい)に福田氏の流れができたように記憶している。
安倍氏の退陣は、その後自民党の首相が1年ごとに交代する始まりで、2009年の民主党政権につながるきっかけにもなった。「プチ混乱」と書いたのは、「ポスト安倍」をめぐり、2005年郵政選挙で初当選した「小泉チルドレン」の新人議員の一部が「小泉前総裁の再登板を実現する有志の会」を結成し、すでに退任した小泉氏に総裁選の再出馬を要請する異例の事態になったからだ。
ただ、福田氏の父、福田赳夫元首相の書生も務め、福田派(清和政策研究会)の流れをくむ派閥に所属してきた小泉氏は、福田氏親子への恩義から、出馬要請に応じることはなかった。この時、小泉氏の腹心で、小泉政権時代に外交などで福田官房長官との「路線対立」も取り沙汰された側近秘書の飯島勲氏が、小泉氏の事務所を去る出来事も。飯島氏が小泉氏の事務所を去ったのは、小泉氏が総裁選での福田氏支持を打ち出した日でもあった。
「小泉前総裁の再登板を実現する有志の会」の一員として積極的に活動した中には、今では実業家としても活躍する新人議員時代の杉村太蔵氏もいた。旧派閥が福田氏支持の流れとなり、それまで小泉氏に再登板を要請していたチルドレンたちも福田氏支持に回る中、「先祖もビックリの先祖返り」と永田町の「数の論理」に怒ったのが、杉村氏だった。当時取材していて、「勝ち馬」に乗ろうとする政治家の本音に触れるような流れを、目の当たりにしたことを覚えている。
この総裁選は福田氏と麻生氏の一騎打ちになったが、旧派閥の支援協力を取り付けた福田氏が圧勝し、憲政史上初の親子二代での総理大臣に上り詰めた。ただ、そんな福田氏も、首相就任後は国会の場で、自身が「数の論理」「数の力」に悩まされることになる。
首相就任2カ月前の2007年参院選で安倍自民は民主党に敗北し、安倍氏の退陣はその直後。衆院は与党が多数でも、参院では野党が過半数を握る「ねじれ国会」だった。福田氏は首相就任から約1カ月後、当時の民主党代表、小沢一郎氏との間で、「大連立」を模索することになる。最初の党首会談後には、「与党と野党の代表が話し合うわけだから、政治を動かす方法を考えないと」と語り、「何を話し合ったのか」と疑心暗鬼の声が渦巻いた。
福田氏は当時、インド洋での海上自衛隊による給油活動再開へ向け、新テロ対策特別措置法案の成立に迫られていた。時の首相と野党第1党トップの「腹の探り合い」(関係者)から始まった「大連立」模索の動きが分かると、永田町は大騒ぎに。2度目の首脳会談は休憩を挟んで深夜近くまで2時間以上に及んだが、民主党執行部は大連立に「NO」の判断を下し、あっという間に「幻」に。政権の手の内をさらけ出す形になった福田氏だけでなく、一時代表辞任表明に至った小沢氏の双方が一定の痛手を負う結果にもなった。
小沢氏は今回福田氏の逝去を受けて取材に、追悼の言葉を述べた上で、「後になって、『あの時に連立していればよかった』とみんなが言っているが、ことが過ぎてから言っても意味がない。あの時に連立を組んでいたら、その後の日本政治のあり方は変わっていたのではないかと、今でも思っている」と、痛恨の思いを口にした。当時の民主党関係者に話を聞くと、「今となっては、小沢先生の言葉にうなずく人は多いだろうね」と語っていた。
参議院で与党が過半数を持たず、政権肝いりの法案の成立に苦心する状況は、今の高市政権も変わりはない。ただ、衆議院で与党がこれほどの議席数を持つ高市政権と福田政権の時代は、まったく事情が違う。1年で政権を去らざるを得なかった福田氏が直面したのが、「数の力」。与野党の緊張関係が、今では考えられないほど強かった時代の総理大臣だったと感じる。【中山知子】
