
<悼む>
日本人で初めて宇宙に飛び立った、元TBS国際ニュースセンター長の秋山豊寛(あきやま・とよひろ)さんが8月26日、84歳で死去した。秋山さんは1990年(平2)12月2日、TBSの特派員として、ソ連のソユーズロケットに搭乗。地球周回軌道に乗って、中継で「これ本番ですか?」とテレビ記者らしい第一声を放った後に、「地球はやっぱり青かった」とリポートした。
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「これ本番ですか?」。秋山さんのテレビマンならではの歴史に残る第一声は、東京・赤坂のTBSのモニター室で二日酔いで痛む頭を抱えながら聞いた。
当日の90年12月2日は日曜日。バブル景気のなごりがある頃、わが日刊スポーツ文化社会部は、前日から泊まりがけで熱海で忘年会を開いていた。秋山さんの中継はTBS担当記者と、入社1年目の若手がコンビを組んで担当することになっていた。
当日は富士山を眺めながら忘年ゴルフ。サッサと酔って眠りにつこうと杯を重ねていると、心配性の放送キャップが「○○で大丈夫かな」と新人君の名前を口にした。嫌な予感がしたが「担当の手伝いだから大丈夫ですよ」と明るく言い放って、更に杯を重ねた。
が、しかし、心配性のキャップは「やっぱり○○じゃ無理だ。お前が行け。夕方からだから、ゆっくり眠って酔いをさましてから帰っていいぞ」と午後11時過ぎに非情の決断。翌日は自分のゴルフクラブを“栄光のTBSサブ担当”を外された新人君に託して帰京した。
実は、その2カ月ちょっと前にモスクワで秋山さんを取材していた。モスクワ特派員などというものではない。日ソ文化交流のためにモスクワでコンサートを行った、歌手北島三郎(89)に付いて行ったのだ。秋山さんは世界初のジャーナリスト宇宙飛行士を目指して、同僚の後輩菊池涼子さんと1年前から訓練中だった。
モスクワ郊外の「星の街」にあるガガーリン記念宇宙飛行士訓練センターに、祖国の国民的歌手“サブちゃん”を迎えて秋山さんはテンションマックス。<歌詞>は~るばる~ 来たぜ~ ほ~しの~街~ と、北島の「函館の人」の替え歌を歌いだした。北島御大も大喜びの笑顔で、秋山さんと菊池さんを激励した。
宇宙ステーション「ミール」に乗って宇宙から中継するリポーターに、1カ月前に秋山さんに決定。菊池さんはサブに回って、地上からサポートすることになった。既定路線だったとはいえ、当時48歳の秋山さんは「サラリーマンとしての正念場」と口にした。
当日は宇宙との回線をつなぐテストが繰り返され、開始を待つばかり。日本時間の夕方で締め切りが迫っていたこともあり、新聞各社ともエース記者は、テレビで秋山さんのリポートを見てメイン原稿を執筆する。サブ記者はモニターのある狭いスタジオに閉じこもって、その時を待った。
記者たちをモニターのあるスタジオに率いていったのが、秋山さんと同期入社の元アナウンサーの宣伝部員。秋山さんと互いに「大変だなぁ、そんなところで」とユニバーサルな笑いを繰り広げていた。
そして本番、リラックスしたままの秋山さんの「これ本番ですか?」という確認が歴史的な第一声となった。それでも、お約束とも言える「地球は青かった」というリポートを卒なくこなした。日本初の民間衛星放送会社WOWOWが放送を開始するのは、翌91年の4月。宇宙を経由して放送をすることが、まだ一般の人にとっては夢だった時代。東京・赤坂のTBS本社は歓喜に包まれた。
年末に帰国した秋山さんは、超VIP待遇を受けた。成田空港からはヘリコプターで飛んで、赤坂で凱旋(がいせん)パレード。そして「日本レコード大賞」のゲスト。都民文化賞を受け、部長から局次長に昇進して、海部俊樹首相とも面談した。
時の人となった秋山さんをTBSは、ここぞとプッシュした。展覧会、講演会、ドキュメンタリーのリポーター、「クイズダービー」の回答者、熱気球でベーリング海峡横断と、多忙を極めていた。
世界初のジャーナリスト宇宙飛行士は、気がつけばジャーナリストとは遠い存在になっていた。取材するはずが、取材される対象になっていた。時代も悪かった、バブル経済崩壊、そしてTBSは損失補填(ほてん)に揺れていた。嫉妬もあっただろう。
秋山さんは95年いっぱいでTBSを退職。福島に移住して、農業を始めた。シイタケや米、大豆を作って自然な第二の人生を謳歌(おうか)した。まだ、SDGsなど、誰も知らない時代だったが、環境問題にも提言した。
11年の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて、福島から群馬へ。そして京都、最後は三重で人生を全うした。
テレビが、そして世界が豊かで平和な時代の象徴だったジャーナリスト宇宙飛行士の秋山さん。その第二の人生の生き方にこそ、人間の本質があることを教えてくれた。ご冥福をお祈りします。【小谷野俊哉】
