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山城高後輩の浜村淳、吉田義男さん死去に「ショック」 「野球部のスターだった」


プロ野球の阪神タイガース初の日本一を監督として成し遂げた吉田義男氏が、脳梗塞のため兵庫県西宮市で91歳で亡くなった。彼は京都出身で、その同郷の1年後輩であるパーソナリティーの浜村淳氏が彼を追悼し、「非常に寂しい」とコメントした。吉田氏は立命館大学を経て阪神タイガースに入団し、その動きの速さから「今牛若丸」と称賛されていたという。彼と浜村氏は高校時代からの知り合いで、吉田氏は気さくな性格で人気があった。2003年の阪神の優勝時には、日本一公約が果たせず浜村氏が行った「散髪式」に彼が駆けつけるなど、厚い絆で結ばれていた。浜村氏は、「こんな早い訃報が信じられない」とさびしさを語り、吉田氏の功績とその人格を偲んだ。

03年10月、阪神優勝を記念した「日本一の散髪式」で浜村淳(右)の髪の毛にハサミを入れる吉田義男さん

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。吉田さんと同じ京都・山城高出身で、1年後輩だった関西の名物パーソナリティー浜村淳(90)が4日、取材に応じ「ひじょうに寂しいです」「ショック」と先輩を思い、しのんだ。

  ◇  ◇  ◇

最後に会ったのは、17年に亡くなった中村鋭一さんの葬儀だった。

「お葬式でお会いして、めずらしく長い立ち話をしましてね。内容は『お子さん、いくつになった?』とか、そんなたわいない話だったんですが。その時『お互い、長生きしよな』言うて別れまして。ほんと、こんなお別れになるなんて、想像もしてなかったです。元気で居続けてくれると思ってました」

浜村にとって、吉田さんは高校時代から「スター」だったという。

「私が早生まれなんで、学年は1年違い。私が入学した時は、もう、山城高野球部のスターでした。ものすごい動きが敏しょうで。(後に)『今牛若丸』言われましたからね」

高校時代は「心安く話せる相手ではなかったんです。向こうは名選手ですからね」と言いつつも、「甲子園にも出てるんですよ」と声を弾ませ、学生時代を思い起こした。

立命大を経て、阪神へ入団した吉田さん。浜村は、吉田さんが「阪神入ったで」と仲間内で盛り上がったことを覚えている。

「プロ野球に入ってから、割合、気さくにしゃべるようになったんですね。私なんかにも、同じ高校やし(親近感を持って)ね。ようラジオで『吉田、吉田、よっさん、よっさん』言うもんやから、『あまり言うてくれるな』言われたこともありますね」

浜村は、阪神が優勝した03年、日本一公約がならずに「散髪式」を行っているが、その髪の毛にハサミを入れてくれたのが、吉田さんだった。

「日本一になれんだら丸刈りします、言うてね。したんです。真っ先に駆けつけてくれたのが、吉田さんでした」

山城高OBとして、年月が過ぎるごとに、双方の思いはつながっていった。

「こんなに早く訃報に接するとは、ひじょうに寂しい。山城高校の象徴がまたひとつ消えました。ショックです」

言葉を選ぶように、敬愛する先輩へ思いをはせた。

「岡田(彰布)さんが日本一になりましたけど、『よっさん、もういっぺん、監督やって、3回目の日本一やってほしい』と言いたいぐらい、ずっと元気でいれくれると思ってたんです」とし、言葉を強めた。

母校の山城高は、今年のセンバツ「21世紀枠」で候補校に入っていたものの、選ばれず補欠校となった。

浜村は、吉田さんの心中を思い「どんな気持ちやったか、私は知りたい。『残念』『悔しい』思いだったでしょうね」としのんでいた。

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