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【評伝】高石ともやさん 伸びた背筋、こだわった生音、ちょっとそこまで?ラン30キロ 


高石ともやさん(2006年11月21日撮影)

「関西フォークの旗手」として、1960年代後半から日本のフォークソング界をけん引してきた歌手高石ともや(本名・尻石友也=しりいし・ともや)さんが、17日午後3時半に、京都市内の病院で亡くなった。82歳。19日早朝、所属事務所が公式ホームページで発表した。

   ◇   ◇   ◇

好きな言葉は「トラディショナル」。フォークソングを自分の生き方で体現した人だった。

26歳で「受験生ブルース」がヒット。昭和40年代の音楽界は、フォークが一気にブレークした。吉田拓郎、井上陽水、南こうせつら多数のスターが生まれ、一大ブームとなった。

時代背景には学生運動、反戦運動などがあったが、高石さんは1969年(昭44)米国、カナダへわたり、自分自身を見つめ直す。カリフォルニア大学の街、バークレーで「自由な生き方」に目覚め、帰国後は福井県名田庄村(現おおい町)での暮らしを始めた。廃校になった小学校に一家で住み、米国生まれのブルーグラス音楽に自作の日本語詞を吹き込み、演奏活動を再開。71年、ザ・ナターシャー・セブンとして再出発した。

その後も、世間の流行とは距離を置いた。東京から離れ、73年、京都・円山音楽堂で宵々山コンサートを立ち上げる。中断を経て30回まで続くライフワークとなった。桂米朝、永六輔、北山修、杉田二郎らが参加し、京都の風物詩となった。

「高座では、手ぬぐいと扇子だけですべてを演じなければならない」

だから落語が好きだった。手作り感あふれるアコースティック音楽と通じるものを感じていたのだろう。自分のステージでは、華美なセットや照明を使わず、とことん生の音にこだわった。

高石さんはマラソンの魅力にも取りつかれた。きっかけは名田庄村でのマラソン大会。77年、36歳でホノルルマラソン初挑戦。78年、京都マラソンでは2時間45分7秒でフィニッシュ。その後もトライアスロンやサロマ湖100キロマラソンを経験し、48歳でウエストフィールドラン(オーストラリア)1018キロ完走。52歳でトランス・アメリカ・フットレース(ロサンゼルス~ニューヨーク)4700キロ完走。

かつて京都の自宅まで取材にお邪魔した際のこと。奥さまが「今ちょっとランニングに行ってて、もう帰ってきますから」と恐縮されたことがあった。戻ってきた高石さんに「どれほど走ってこられたんですか?」と尋ねると「えーと、30キロぐらいですかね」と笑顔を浮かべた。

ちょっとそこまで、みたいな感覚で30キロ…。

「100メートルのような短距離は持って生まれた才能で決まるが、長距離レースは練習すれば誰でも走れるのがいい」と、走ることの楽しさを語っていた。

マラソンの同志でもある道上洋三ABCアナウンサーは敬意を表して「シンガー・ソング・ランナー」と名付けた。

年末恒例だった大阪・サンケイホールでのコンサートは2022年にピリオドを打った。舞台では背筋を伸ばし立ったまま、ギターやバイオリンを持って歌うスタイルは最後まで変わらなかった。

最後までフォーク人生を全うした高石さんだが、周囲では不幸が続いた。がんに襲われた妻てるえさんに先立たれ、宵々山コンサートをプロデュースしたマネジャーはホテルニュージャパン火災(82年)で亡くなった。ナターシャー・セブンのメンバーも若くして旅立った。

悲しみを心に秘め、ホノルルマラソンは連続43回出場。年末のサンケイホールは47回。長い道のりを完走した。

いつもコンサートの最後で歌った「さよならが言えない」という曲がある。「遠い旅の空で 幸せを祈るよ」。今、高石さんは天国で歌っているのだと思う。【日刊スポーツ 元音楽担当・三宅敏】

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