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ジャイアント馬場没20年オールスター戦開催! 偉大なる御大の都市伝説を少しさらってみた


2019年2月19日、両国国技館で「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が開催される。

これは、1999年1月31日に61歳で亡くなった偉大なプロレスラー、ジャイアント馬場さんが没後20年の節目を迎えることから実施されるもの。馬場さんが設立した全日本プロレスはもちろん、新日本プロレス、プロレスリングノア、大日本プロレス、WRESTLE―1など様々な団体が集結。更に海外からは、未だ現役であるミル・マスカラス(76)&ドス・カラス(67)のブラザーラッグの参戦も決定した。平成最後のプロレスオールスター戦が行われるわけだ。

またこの日、馬場さんと数々の死闘を繰り広げた、“呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャー氏(77)の引退セレモニーも行われる。

ちなみに、開催日である2月19日は、1954年に蔵前国技館で日本初の本格的プロレス国際試合として、力道山・木村政彦対シャープ兄弟の試合が行われた日、ということから「プロレスの日」として制定された記念日となっている。

【ジャイアント馬場没20年追善興行 ~王者の魂~】

大会概要

■日時:2019年2月19日(火)  開場17時00分/試合開始18時30分
■場所:東京・両国国技館
■主催:ジャイアント馬場没20年追善興行実行委員会
■後援:東京スポーツ新聞社、ベースボール・マガジン社
■実行委員会:
坂口征二(新日本プロレスリング株式会社 相談役)、秋山準(オールジャパン・プロレスリング株式会社 代表取締役)、株式会社 H.J.T.Production(敬称略。設立順)
■参加団体:
新日本プロレス、全日本プロレス、大日本プロレス、プロレスリング・ノア、W-1他(敬称略。設立順)
■特別ゲスト:スタン・ハンセン

オールスター戦は3回目

まず、伝えたいのはプロレス団体が一同に集結し興行を繰り広げるオールスター戦はこれが3回目ということ。過去2回を振り返ってみる。

第1回は1979年8月26日、日本武道館で開催された。タイトルは「プロレス夢のオールスター戦」。これは、東京スポーツ新聞社が創立20周年を迎える記念興行として企画し実現したもの。

当時は、ジャイアント馬場の「全日本プロレス」、アントニオ猪木の「新日本プロレス」、ラッシャー木村の「国際プロレス」の3大団体が存在していて、決して交わることのない人気レスラーが組んで戦うという、まさしく夢の大イベントだった。

ファンにとって一番の目玉は、団体分裂後約8年ぶりとなる馬場・猪木の“BI砲”の復活だった。試合は、馬場、猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンで、猪木がシンを逆さ押さえ込みで勝利している。

出来事を少し紹介すると・・・

◯3団体参加バトルロイヤルに19人が参戦。最後に残ったのは山本小鉄(新日)と大仁田厚(全日)で、山本がカナディアンバックブリーカーという大技で優勝

◯のちに新日維新軍としてパートナーになる、長州力(新日)とアニマル浜口(国際)が初めてタッグを組んで試合をしている。相手はグレート小鹿・大熊元司(両全日)で結果は長州力の反則勝ち

◯団体のナンバー2がタッグを組んでいた。ジャンボ鶴田(全日)、藤波辰巳(新日)、ミル・マスカラスVSマサ斎藤(フリー)、タイガー戸口(全日)、高千穂明久(全日 ※のちのザ・グレート・カブキ)。結果は、マスカラス(14分56秒・体固め)斎藤。

◯当時は、全日が日本テレビ、新日がテレビ朝日、国際がテレビ東京と、専属契約をしていたのでテレビ中継はされなかった。ただし、取り決めで、報道ニュースという扱いで各局3分間の放送が認められた。ちなみに、テレビ朝日では馬場・猪木のメインイベントを、まだ若かった古舘伊知郎アナウンサーが実況している。

◯馬場・猪木の試合終了後、マイクを握った猪木が「私は、馬場選手と戦えるように今後も努力していくつもりです。今度二人が同じリングに上がる時は戦う時です!」と馬場に対戦をアピールした。馬場もそれを受け、「よし!やろう!」と快諾し握手を交わしている。が、それは実現することはなかった。

2度目は復興のため団結

第2回は、2011年3月11日に発生した大震災の復興を目的とした、「オール・トゥギャザー東日本大震災復興チャリティープロレス」。4月18日、日本武道館で開催された。これも東京スポーツ主催での興行で、翌2012年2月19日には被災地の仙台市でも行われている。

ただ、この当時は、新日、全日、ノアを始めインディーズ系も他団体の興行に参戦する交流が盛んになっていたため、文字通り復興を願ってプロレスが被災者の方々に元気と勇気を与えるべく一つになった感じがあった。

そして、平成という時代の終わりに、第3回プロレスオールスター戦はジャイアント馬場さんの追善する形で開催される。きっかけはともあれ、団体が乱立しているプロレス界がひとつになる機会が作られることは微笑ましいといえるはず。

ジャイアント馬場の都市伝説

月刊WiLL(マンスリーウイル) 2014-12-26 発売号
Fujisan.co.jpより

ジャイアント馬場の名前を今の40代以上の日本国民で知らない人はいないだろう、そう言い切れるくらい知名度が高い国民的ヒーローだった。そんな馬場さんのことを今更くどくど紹介するのも忍びないので、馬場さんについてのちょっとした都市伝説を集めてみた。都市伝説とは言うけれど、おそらくすべて本当のことだと思う。(※プライベート面のエピソードは省く)

【馬場はアメリカの団体に1億円で引き抜かれそうだった!?】

馬場の師匠で、戦後日本のヒーロー力道山が1963年に刺殺される。25歳だった馬場はすでにアメリカでは人気レスラーで、LAではショーヘイ・ビッグ・ババ、NYではババ・ザ・ジャイアントというリングネームで活躍していた。

アメリカのプロモーターが馬場に、「力道山のいない日本のプロレスは先行きが危ない、アメリカに移住して戦え」と声をかけた、年俸は日本円で約1億円(現在なら3億程)提示されたという。ファイトマネーとしては破格だ。しかし、普段は温厚な馬場が怒りをあらわにしてこう言った。

「ふざけるな! 俺は力道山の後継者だぞ。力道山の意志を継いで王道のプロレスを守る」

馬場がスタイルを変えない王道プロレスを貫いた真念はそこにあったのかもしれない。

【プロレスにルールなんてない!?】

1987年11月、新日マットで、前田日明が長州力へ顔面キックを放ち眼窩底骨折させたため解雇される事件が起きた。この一件について記者からコメントを求められた馬場はこんな事を言った。

「プロレスはね、アレやっちゃいけない、コレやっちゃいけない、なんてものはないんですよ」

意外な言葉が返ってきた。遠回しに、“そんなことで選手を解雇させるのか?”と嘆くかのようだった。(※この件に関しては、前田が新日マットを荒らしていた為、切られた説など様々ある)同時に、“プロレスのルール”を考えさせられた。

全日のルール的に反則は5秒までOKだ。いや、それ以前にブッチャーやシンなど、隠し持った凶器を使った反則プレイなんて当たり前に行われていて、しかもレフリーが凶器を取り上げるだけで反則試合で終わるなんてことは少なかった。プロレスは反則も含めてショー的要素を多分に含むエンターテイメントだということを改めて思い知らされた。そういった面で馬場の器はデカかった。

【馬場はなぜ身体が細かったのか?】

身長209センチ、体重135キロ(全盛時)だった馬場。テレビでの見た目は腕も足も細く胸板も薄かった。実際間近で見たらその大きさに驚くはずだが、巷では「馬場ならケンカしても勝てる」という人も多かった(笑)。確かにもっと筋肉をつけてマッチョになれば強そうにも見えるしカッコよく映ったかもしれないのに、とも思う。しかし馬場は、あえて筋肉を付けなかったという。

どうしてか? 元々骨太ではなかったのもあるが、209センチという身長に筋肉の鎧をまとわせたら、その筋肉の重さに骨や関節が耐えられないと考えたからだ。全盛期で135キロ、これがプロレスで動き回るためのMAXであったと考える。余計な筋肉を付けないために地味な体幹トレーニングを欠かさなかったとか。

【なぜ赤いトランクスにこだわったのか?】

馬場が全日本プロレスを設立してからトランクスはほぼ赤を履くようになった。それまでは黄色、緑色、デビュー時は青をよく着用していたらしい。おそらく1980年代に入ってからは赤色意外のトランクスは履いていないと思われる。ただし、アメリカやヨーロッパ遠征では紫など違う色を履くこともあった。

赤のトランクスに関して本人は「赤色は大きく見えるから」と話したことがあるという。実は、弟子の田上明も馬場の言葉を聞いて赤色のトランクスを履くようにしたといわれる。

他に、戦隊モノのリーダーは赤色だから説、単純に赤色は目立つ説、いろいろあるが、本人が赤色を好んだというのが妥当。

都市伝説はキリがないので以上でやめておく。最後に、オールドファンもあまり知らない事実をひとつ。

【ジャイアント馬場対アントニオ猪木の戦績は、馬場の16戦全勝】

シングルマッチの全結果は以下の通り

1961年(昭和36年)※馬場23歳、猪木18歳
1: 5月25日 富山市立体育館

◯馬場正平 [10分30秒羽交い締め(フルネルソン)] 猪木寛至●

2: 5月27日 岐阜市民センター 
◯馬場正平 [5分30秒逆エビ固め] 猪木寛至●

3: 6月10日 徳島市民会館
◯馬場正平 [9分50秒エビ固め] 猪木寛至●

4: 6月16日 八幡市黒崎安用体育館
◯馬場正平 [8分5秒エビ固め] 猪木寛至●

5: 6月20日 別府市市民温泉プール
◯馬場正平 [9分19秒エビ固め] 猪木寛至●

6: 6月28日 大阪府立体育館
◯馬場正平 [11分17秒エビ固め] 猪木寛至●

1963年(昭和38年)
7: 4月25日 豊岡市総合グラウンド
◯ジャイアント馬場 [12分3秒体固め] アントニオ猪木●

8: 7月19日 リキ・スポーツパレス
◯ジャイアント馬場 [17分21秒体固め] アントニオ猪木●

9: 7月28日 静岡・三島大社境内
◯ジャイアント馬場 [三本勝負2-1] アントニオ猪木●

(1)馬場 [12分6秒体固め]
(2)猪木 [2分18秒体固め]
(3)馬場 [2分48秒体固め]

10: 8月3日 大阪府岸和田市港市場
◯ジャイアント馬場 [三本勝負2-1] アントニオ猪木●
(1)馬場 [10分27秒体固め]
(2)猪木 [5分15秒体固め]
(3)馬場 [1分22秒体固め]

11: 8月9日 東京・足立区体育館
◯ジャイアント馬場 [10分26秒体固め] アントニオ猪木●

12: 8月16日 リキ・スポーツパレス
◯ジャイアント馬場 [三本勝負2-0] アントニオ猪木●
(1)馬場 [11分45秒体固め]
(2)馬場 [4分8秒体固め]

13: 9月4日 愛知・刈谷市営球場
◯ジャイアント馬場 [三本勝負2-1] アントニオ猪木●
(1)馬場 [12分6秒体固め]
(2)猪木 [2分18秒体固め]
(3)馬場 [2分48秒体固め]

14: 9月23日 秋田・大曲市営競技場
◯ジャイアント馬場 [14分5秒体固め] アントニオ猪木●

15: 9月28日 福島市県営体育館
◯ジャイアント馬場 [11分55秒体固め] アントニオ猪木●

16: 10月2日 栃木・足利市月見ヶ岡体育館
◯ジャイアント馬場 [12分00秒体固め] アントニオ猪木●

計16戦 ジャイアント馬場16戦16勝0

BI砲としてタッグを組んでから二人は戦うことなく離れ離れになってしまった。実力がピークの時代に戦っていたら、と想像を膨らませるのは未だに面白い。

そして、今回の「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」で猪木さんが何かアクションを起こしてくれないかと、ちょっとだけ密かに期待している。

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