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ニワカが語る、戦国時代の知識で誤解されていること


自分は歴史を研究したことなど無く、それの知識は、大河ドラマ、横山光輝作品、信長の野望の三本柱で得ています。創作ものからの知識は、脚色もあるでしょうから知らず知らずに史実と誤解しているケースがあります。このため、ちょっと調べてみると常識と思っていた知識がどうやら間違いであった可能性が。そこで今回はそんな誤解や勘違いがありそうな歴史知識を紹介します。

梟雄・斎藤道三の国盗り物語、実は親子二代でのストーリー

一介の油売りから身を興し、裏切り、暗殺によって下剋上、一代で一国の主にまで成りあがったといわれる斎藤道三。最近では親子二代で成し遂げた説が有力になっています。

まず油売りだったのは道三の父だったようで、美濃の守護・土岐家の家臣に見いだされ武士に。その後、戦功などで認められると重臣でもある長井氏を名乗ります。そしてクーデターなどがあり実権を握りますがこのあたりで父は死亡。まだ国主というわけではありません。

子に代替わりすると守護代の斎藤氏を名乗り始めます。風当りは強くピンチもありましたが、隣国尾張の有力者・織田家の信長と娘に婚姻関係を結ばせ地盤を固め、守護の土岐氏を追い出し、ついに美濃国主まで上り詰めました。

関ケ原の戦いは豊臣VS豊臣

歴史街道 11月号 (2018年10月06日発売)
Fujisan.co.jpより

見た目はどう見ても西軍の豊臣方と東軍の徳川方の戦いであるものの、東軍総大将徳川家康はあくまで豊臣方として戦っています。かいつまんで説明すると、秀吉亡き後、遺志に背き五大老筆頭・家康は禁止事項を次々破っており、野心の気配は十分ありました。そんなおり、五大老の上杉景勝がこれまた禁止事項を破ったため豊臣家への背信として家康が討伐に動きます。

この隙に家康の専横を快く思っていなかった秀吉の忠臣・石田三成は毛利輝元を総大将として挙兵。これが関ケ原の戦いのきっかけなので、両者とも豊臣方なわけです。戦後の東軍の報酬は西軍に付いた大名の領地、そして豊臣方として戦ったため豊臣の領地を削って分配されたため、家康にとって最大の敵の弱体化に成功したわけです。

伊達政宗は料理の鉄人

前方に味方がいるのに鉄砲射撃して壊滅させたり、高価な茶器を持っていたところ足を滑らせてしまい焦ったことに腹を立て「茶器の分際で!」と叩き割ったり、ちょっとアレなエキセントリック武将・伊達政宗。非情なエピソードも多く残っていますが、一方で、国の事を考える研究熱心な一面も。

兵糧の開発をするため自身で包丁をふるい調理研究。これが講じてグルメになり料理男子に。腕前は相当なものだったようでずんだや仙台味噌は政宗が開発したものに端を発したそう。また、将軍らに料理を振舞い、その味を称えられました。そんなシェフ政宗は「少しも料理を知らない者は心が貧しい」といった主旨の言葉を残しています。

最強武田騎馬軍団はそれほど最強ではなかったらしい

ゲームや漫画、映画などで武田家は騎馬戦闘に優れていたと位置づけられています。実際、長篠の戦いでは織田信長は武田騎馬隊を警戒していた様子もうかがえます。

しかし、当時甲冑を着ると100kg近くなる人間を乗せ疾走するような馬はなく、さらに華麗に躍動できるほど平坦な戦地はなかったそうです。また騎馬での戦闘は、騎馬のみで軍団を作り特攻するような戦い方ではなく、騎馬1に対し数名の足軽が周りに付き、戦闘の際は騎馬から下りていたそうです。これは武田家でも同様と思われます。

上杉が武田に塩を送った人情話……実際は真っ当な商取引

争っている敵の窮地に援助をするたとえを「敵に塩を送る」などと言いますが、これは武田家が同盟を組んでいた今川家と関係が悪化し、塩の供給が止められ困窮するとライバルであるはずの上杉家から塩が送られてきたという粋な逸話が由来とされています。しかし、これはシンプルな商取引だったそうで、なんだったら上杉家は武田家に相場より高く塩を売っていたと言われています。

近代の歴史作家がドラマチックに描いたため、ちょっとした誤解や勘違いが生まれてしまった歴史知識。今後も信用のおける当時の資料が発見され、いろいろ覆る可能性がありますが、それもロマンのひとつ。あと、ガチ勢が、上記の説も古い! とか言ってきそうですが、タイトルでニワカを自称しています。所詮ニワカはこんなレベルですよ。

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