ゲームをプレイしていると、「おもしろい」だけでなく「すごい!」と驚嘆してしまうことがある。たとえば『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』、『マインクラフト』のように画期的なゲームシステムで時代を切り拓くような作品と出くわした時だ。
今回紹介する『ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット』も筆者にとってはそんな一作。だからこそ、このレビューで紹介したいと強く感じている。
テーブルトークRPGライクなシステムでミステリー的ストーリーを語る異色作
『ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット』は、2019年に海外向けに発売された『ディスコ エリジウム』に対し様々な追加要素を収録したタイトルだ。元となった『ディスコ エリジウム』はプレイヤーたちから非常に高い評価を受けており、さらに多数のゲーム賞にも輝いている。
傑作といっていいだろう。
そんな作品なので、日本でもプレイを渇望するユーザーは存在していたものの、プレイするのは難しいという状況だった。というのも本作は、文章主体のゲームな上、そのボリュームが圧倒的なのだ。さらに、文章の言い回しが非常に難解。
このため英語力のあるプレイヤーならまだしも、日本の一般的なプレイヤーには敷居の高い状況が続いていた。筆者も、アクションゲームやFPSのように文章が主体じゃないゲームであれば英語でプレイ可能なものの、大人向けの小説を英文で読み進めるほどの英語力はない。なので、今回のリリースは待ちに待ったリリースなのだ。
文章主体と書いた通り、本作はノベルゲームのような文章量を誇っている。選択肢をチョイスしながら文章を読み進めていく……というゲーム性も、ノベルゲームに近い。ただ、ゲームジャンルは紛れもないRPGだ。
ゲームは、見下ろし型マップを移動して街を探索することで進んでいく。探索ポイントに近づくと、オーブと呼ばれるアイコンが出現。オーブを選んでボタンを押し、その場所の調査を行う……というスタイルだ。
このシステムそのものは、ごくごく一般的な見下ろし型RPGと同じ。ただ、まず驚いたのがそのビジュアル。
油絵風に描かれたビジュアルは一枚の絵……いわゆるノベルゲームの「スチル画像」のように見えるが、これは3DCGで描かれている! キャラクターを操作できることに気づいた瞬間、思わず「これ3Dなの!?」と叫んでしまった。ビジュアルでここまで驚かされたのは、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』以来だ。
オーブに対して調査を行うと文章主体で状況が説明され、場合によっては選択を行うことになる。このスタイルは一見ノベルゲーム風だが、「スキルロール」があるという点が大きな違いだ。
「スキルロール」とは、テーブルトークRPGで成功・失敗を判定するためのシステム。最近はニコニコ動画やYouTubeなどでテーブルトークRPGの配信が盛んに行われているので、プレイしたことはないまでも見たことはあるという人もいるだろう。
とはいえ知らない人も少なくないだろうから一応説明しておくと、テーブルトークRPGとはコンピュータ向けRPGの原型で、そもそもRPGといえばテーブルトークRPGのことを指していた。テーブルトークという名が示す通り、参加者はオフラインでリアルにテーブルを囲み、トーク主体で物語を進めていく。「君の目の前にゴブリンが現れた。さあ、どうする?」「うーん、それじゃあ……距離をとって様子を見ようかな」といった具合だ。
ただ完全にトークだけでは、ゲーム内の成功・失敗を判定することが難しい。「ゴブリンは君にナイフを投げつけたよ」「もちろん、避けるよ」「避けられないね、ナイフが刺さったよ」「いや、俺の運動神経なら避けられるよ!」……なんて風なあいまいな展開が考えられ、最悪ケンカになってしまうだろう。
そこでテーブルトークRPGでは「ロール」といって、サイコロを使って成功・失敗を判定する。たとえば、ゴブリンの投げたナイフのスピードが速くて回避するのが難しいのであれば、(回避する)確率が低いと考え「サイコロで2以下の出目が出れば回避成功(=約33%で回避成功)」という風に。……ただ、完全にサイコロの出目任せだと運になってしまう。
そこで、キャラクターの能力値によって出目に補正を行うのが一般的だ。たとえば「基本値2に、キャラクターのスピードを加えた数値を難易度とし、サイコロで難易度以下の出目が出れば回避成功」といったかたち。これなら、スピードの能力が高いキャラクターであればあるほど回避しやすい……という納得感の高い結果が得られるわけだ。
本作ではどれだけ知識があるかを示す「百科事典」や精神力の強さを示す「意志力」など、24のスキルが用意されている。そしてイベントの都度、必要なスキルによってロールが行われ、イベントの結果が変わっていくわけだ。
……と、ここまで読むと「そのどこが画期的なゲームシステムなのか?」と思う人もいるだろう。スキルロールを持つRPGなら、これまでにも前例がある。たとえば核戦争後の世界を舞台にしたオープンワールドRPG「Fallout」シリーズはまさにスキルロールを持っているし、「オウガバトル」シリーズで有名な松野泰己氏が手掛けた3DS向けのRPG『CRIMSON SHROUD(クリムゾンシュラウド)』はスキルロールを持っている上、文章主体。
ただ、これらのゲームと本作が圧倒的に異なっている点は、ミステリーものという点だ。
本作の物語は、主人公がホテルの一室で目を覚ますところから始まる。部屋はメチャクチャに荒らされており、自分は素っ裸。おまけに記憶はない。
一体何が起きたのかと状況を確認していくと、主人公は刑事であり、ホテルの裏庭で発見された死体の捜査中であることが見えてくる。そう、殺人事件モノのミステリーなのだ。
すごい!
何がすごいかって、テーブルトークRPG的なシステムと、殺人事件モノ(ミステリー)の相性は最悪。しかし本作は、その相性最悪な2つの要素を巧みにまとめあげているのだ。
テーブルトークRPG的なシステムは、結末に向けて広がっていく物語に向いている。これは、「スキルロール」という「失敗を前提としたシステム」を中心にしているためだ。
先ほど紹介した通り、「スキルロール」はサイコロの出目……すなわち運によって成功と失敗が決まる。運悪く「スキルロール」に失敗すればゴブリンの投げたナイフに当たって命を落とすかもしれないし、目的達成に必要なアイテムは手に入らないかもしれない。
しかし、テーブルトークRPGは「トーク」によって運をカバーすることが可能だ。「トーク」……会話が主体なので、ある程度までなら想定されたシナリオを逸脱することができる。命を落とした仲間を救うため本来の目的とは違う場所を目指すこともできるし、目的達成に必要なアイテムがなくとも代わりの手段を探すことができるわけだ。
「スキルロール」という運によって発生したアクシデントを「トーク」によってカバーしていくことで、そこにはプレイヤーの数だけストーリーが生まれる。同じシナリオをプレイしていても、AさんとBさんでは展開や結末が異なることなんてザラだ。これこそがテーブルトークRPG的なシステムのおもしろさだろう。
一方、殺人事件モノ(ミステリー)というのは基本的に一個の結末へ向けて進んでいく。「フーダニット(Who done it?)」なら「犯人は誰か」、「ホワイダニット(Why done it?)」なら「犯人の動機は何か」、「ハウダニット(How done it?)」なら「犯行手段は何か」……ジャンルによる違いはあるが、「ひとつの真相を目指して進んでいく」のが殺人事件モノ(ミステリー)の特徴だ。
このためゲーム的な失敗によって真相究明に必要なアイテムが手に入らないとなると、その瞬間シナリオはバッドルート確定となる。もしロール失敗によって必須アイテムが手に入らなかったという結果が表示されるのなら、プレイヤーは即座にセーブデータをロードしてイベントをやり直すだろう。失敗したら成功するまでやり直す……そんなプレイ体験にゲーム的なおもしろさがあるのかというと、そうとは言い難い。
この点は、ノベルゲームの古典『弟切草』と『かまいたちの夜』を比較してみるとわかりやすい。『弟切草』はホラーでありミステリーではないため、ひとつの「真相」へと収束させる必要がない。このため、どんな展開だったとしてもひとつの物語として完結した体験が味わえる。
一方、ミステリーである『かまいたちの夜』は、「犯人当てに失敗する」というバッドルートが存在。当然ながら犯人当てに失敗した場合、ひとつの完結した物語を読んだという感覚を得られるかというと難しい。だからこそ『かまいたちの夜』はメインのミステリー編以外にホラー編やスパイ編などのルートを用意し、「展開」ではなく「ルート」が変化することで、「選択肢」によって「物語が変化する」ことを表現したのだろう。
ではそんなに相性の悪いテーブルトークRPG的システムと殺人事件モノミステリーを、どうやって本作はまとめあげたのか? 回答は二つある。
ひとつは「世界を知る」という本作のストーリー構造。そしてふたつめは、「スキルロール」というシステムが使用されるシチュエーションだ。
解釈の変化を楽しむ! 記憶喪失の主人公とともに世界を知る物語
リルガミンにアレフガルド、エオルゼアに狭間の地……と、ファンタジーRPGにとってつきものなのが架空の世界だ。一方、殺人事件モノミステリーが架空世界を舞台にすることは少ないように思う。「龍が如く」の「神室町」や「GTA」の「リバティーシティ」のように、架空の都市が舞台になることはあるかもしれないが、たいていの場合、国そのものは日本やアメリカといった実在の国がベース。
もちろん、そうでなければ現代劇とする意味がないからだろう。格差の拡大や貧困、人種差別といった現代的な問題は、場所と密接に結びついている。経済発展を遂げるような場所だからこそ格差の拡大が起こり得るし、人種のるつぼだからこそ人種差別が表面化しやすいというわけだ。
しかしながら、本作はその舞台を架空の世界としている。本作の舞台は、架空世界エリジウム。架空の国でも都市でもなく、架空の世界なのだからスケールが大きい。
架空世界が舞台の殺人事件モノ……という言葉から、精神世界を舞台とするサイコミステリー的なイメージを持つ人もいるかもしれない。しかし本作のストーリーで扱っているのはサイコミステリーが扱うような精神的、哲学的、形而上的方向性とは真逆。労働問題や格差問題、人種差別といった非常に泥臭く、現実的なテーマが盛り込まれている。
というのも本作の世界は、架空でありながら歴史も政治体制も極めて細かく、精密に設計されているのだ。舞台となるのは、仮想世界エリジウムにある大陸の一つ、インスリンデに存在する街・レヴァショール。
レヴァショールはもともと移民労働者たちの街だったが、革命により一時的に偏った共産主義に支配される。しかしその後、他国の連合から攻撃を受け敗北。現在は連合によって暫定統治されている。
もうこの時点で、ヤバい雰囲気しかない。もともと存在する移民労働者、(支配的な)共産主義者、そして、別の国からやってきた暫定統治者……。ひとつの街に、明らかに利害の対立する人間たちが存在するのだから。
実際、ゲーム開始時の時点でレヴァショールでは労働者による大規模ストライキが発生している。矛先は、ワイルド・パインズという企業。
ストライキというのは要求を通すために仕事をしないという行為なので、当然その間の給料は支払われない。となると当然、労働者の中にもストライキ反対派が出てくる。一触即発、いつ暴動が起きてもおかしくない状況。
そんな中で冒頭の殺人事件が発生する。
レヴァショールの設定は、この上なくリアルだ。「この世界のどこかにレヴァショールという国があって、その国で取材したことを書いています」と言われても信じてしまうほどに。本作が架空世界を舞台に選んだ理由のひとつは、このリアルさゆえだろう。
実のところレヴァショールで起きている問題、そこに住む人たちの考え方、生き様、生活水準などは、現実世界のどこかの国で同様に発生していることだ。ということは現実に悩んでいる人がいるということであり、慎重に扱わなければならない。となると、本作ほど問題の深部に切り込んでいくことは難しいだろう。
この点で本作は、架空世界を舞台にすることで、現実世界の問題を取り扱うことを可能にしているのだと思う。と同時に、このリアルさがゲーム体験にも繋がっている。
本作の主人公は記憶喪失だ。自分の名前だけでなく、レヴァショールのことも、なんならエリジウムのことも覚えていない。
これはつまり世界に対する知識の面で、ゲームをしているプレイヤー自身と同じ状況といえる。主人公がレヴァショールの情報を仕入れるのと、プレイヤーがレヴァショールの情報を仕入れるのとはシンクロしているわけだ。そして情報を仕入れたときに起こるのが、印象の変化。
起きた事件の内容そのものは変わらずとも、周辺人物の裏の事情を知れば、事件に対する印象は変わっていく。現実世界なみのリアルさで社会問題を描いている本作だからこそ、情報を知った時の印象変化は大きい。「そういう社会的な事情があるなら、そういう行動をとるのもしょうがないよね」といった具合だ。
これが「世界を知る」という本作のストーリー構造。殺人事件の捜査をするということは確かに本作において重要な要素なのだが、ストーリー的には情報を知ることでこの世界への印象を変えていく……という点に比重が置かれている。プレイヤーは主人公とともに、この世界への印象を変え続けていくわけだ。
そしてこの、情報の仕入れに関わってくるシステムこそが、「スキルロール」。
テーブルトークRPG的で「スキルロール」が関わってくるのは、「成功と失敗が分かれるような局面」に限られている。ものを考えるだけで「スキルロール」しなきゃいけない……といった展開にはならない(ゲームを取り仕切るゲームマスター役の塩梅にもよるが)。
一方、本作ではちょっとしたことでバンバン「スキルロール」が発生する。たとえばスイッチを見ただけでも「百科事典」による「スキルロール」が発生し、そのスイッチについての詳細な情報が語られるのだ。
このバンバン発生する「スキルロール」は、すべてがゲームクリアと密接にかかわっているわけではない。なので、たとえ失敗したところでゲームそのものは進められるということが多い。しかし先ほど書いたように、成功した時と失敗した時で、確実にこの世界への印象は変化する。
なお「スキルロール」は白と赤の2種類があり、白は能力値を伸ばすなどの条件を満たすことで、再チャレンジが許されている。この感覚は、テーブルトークRPGで「トーク」によって運をカバーする感覚に近い。
一方、赤の「スキルロール」は再チャレンジ不可能。ただし「失敗したらバッドルート行き」……というかたちにはなっていないので、失敗してもストーリー展開について不満を抱えることがない。
こうした作りによって本作は、テーブルトークRPG的な満足感を味わいつつ、殺人事件モノミステリーとしての手ごたえもバッチリ味わえる。これが本作は「すごい!」。
24の人格との対話! 主人公に対する謎がゲーム進行の原動力となる
筆者は本作について「サイコミステリーが扱うような精神的、哲学的、形而上的方向性とは真逆」と書いた。これは労働問題や格差問題、人種差別といった現実的で地に足のついたテーマを扱っているからだが、実は本作、サイコミステリー的な要素も備えている。その代表が24のスキルだ。
「百科事典」「意志力」「耐久力」「手と眼の協調」……などといったスキルたちは、いずれも主人公内の「人格」として描写されている。……といっても、サイコミステリーに登場する多重人格者のように、主人公の人格がスキルの人格に切り替わってしまうわけではない。
イベントが発生した際、スキルたちがそれぞれの人格として主人公に語り掛けてくるわけだ。たとえば「意志力」が「さすがにこの依頼を達成するのは無理なんじゃないか……?」と語りかけてくるといった具合。
「スキル」が人格としてふるまいながらも、多重人格ではないというこの表現は、本作に独特の不安定さをもたらしている。
というのも、他ならぬ我々も、自分の心の声と対話することがないだろうか? たとえば深夜におなかが空いて、カップラーメンを食べようかな……と悩んだ際、もう一人の自分が「食べたら太るよ! やめときなよ」と言ってくるみたいな。自分の心の声と対話したことがある人であれば、「スキル」の人格化もその延長線上として理解できるだろう。
一方、24の能力すべてに個別の人格がおり、かつ寝ている時にすら各人格が騒ぐ……という本作の描写から、主人公の精神は正常ではないようにも見える。いや、もしかすると主人公は我々と同じ……この日本やアメリカのある現実世界におり、スキル人格どころかエリジウムという世界まるごと、主人公の精神の中のものではないのか?
……そんなイメージすら湧いてしまうほど、本作は不安定さを抱えている。この不安定さはサイコミステリー的だ。
そして、ここでも架空世界という設定が活きているのがニクい。
ストーリー的な観点からみると、本作の持つサイコミステリー的な不安定さは、殺人事件よりも深い謎として機能している。もちろん殺人事件もミステリー的な謎として機能しており、プレイヤーにとって当面の目的だ。ただ、殺人事件の捜査については、進めていくことでエリジウムという世界の持つ社会的な「問題」の方に近づいていく。
この点で実質的な「謎」として機能しているのは失われた主人公の記憶とともに、主人公の精神。そして、社会問題の外側にある「この世界はなんなのか」という部分だ。
ミステリーモノというのは裏側のテーマも魅力的だが、やはり「この謎の答えが知りたい!」という欲求こそが醍醐味。そういう意味では、主人公を取り巻く謎こそ、本作を進める原動力といっていいだろう。
最後にまとめると、数々の受賞が証明している通り、本作は傑作だった。ただ「おもしろい」というレベルの傑作ではない。画期的なゲームシステムで時代を切り拓くような……稀有なレベルでの傑作だ。
なので、本作を見逃すのはもったいない。TRPGが好きな人、ミステリーが好きな人には特におすすめできる。
本作は紛れもないTRPGだが、プレイしている時の感覚は海外のミステリー小説を読んでいるかのようだ。なので、普段ゲームを遊ばないけどミステリーは好きという人もこれを機会に是非プレイしてほしい。
文/田中一広
(執筆者: ガジェット通信ゲーム班)