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Onepieceの組織論(内田樹の研究室)



今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。


Onepieceの組織論(内田樹の研究室)


集英社に頼まれて、『Onepiece』についての解説を三編書いた。2011年に二つ、2013年に1つ。これから養老孟司先生とマンガ論のつづきを京都ですることになっているので、「予習」のつもりで自分が7年前に書いた解説を読み返してみた。なかなか面白かったので、再録。


『Onepiece』の解説を書く仕事もこれで3回目となりました。今回は61巻から70巻までの物語から撰した「名言」集に解説をつける仕事を承りました。マンガの吹き出しの台詞だけを集めたアンソロジーに解説を付すというのも、考えてみると不思議な仕事ですね。でも、そういう例外的な要請が生じるのは、『Onepiece』の登場人物たちが意を決してきっぱりと口にする言葉がマンガとしては例外的に「強い言葉」だからでしょう。

 まず、「強い言葉」とはどういう言葉なのか。それについて少し考えてみたいと思います。

僕は武道と能楽を稽古していますが、その分野には強い型というものがあります。その型がまわりにいる人たちの身体に刻み込まれ、他人の身体にまで「感染する」、そういう力を持つ型のことです。

 僕が覚えている最もカラフルな実例はブルース・リーです。1973年に『燃えよドラゴン』が日本公開されたとき、僕は封切りと同時に渋谷の映画館に見に行きました。期待通りの大傑作で、見終わったあと、僕は興奮と感動に震えながら渋谷駅にたどりつきました。東横線の同じホームには何人も『燃えよドラゴン』を見た帰りの人たちがいました。なんでわかったかというと、ホームのそこらじゅうで衆人環視をものともせず、「あちょ~」と叫びながら少年たちが飛び回っていたからです。どうにも身体が動いて止らないというその感じが僕にはよくわかりました。ブルース・リーのこの映画は世界五大陸で大ヒットしました。世界中の子供たちが「あちょ~」と怪鳥音を上げて飛び回ったのです。人種も言語も宗教も超えて、世界中の人々がブルース・リーの「動き」に感染した。こういうものを「強い型」と呼ぶのだと思います。

 いかに力感があふれていても、破壊力があっても、スピードが速くても「感染しない型」があります。どこか生物として不自然な動きは感染しません。それはカロリー消費量は多いかもしれないけれど「強い型」ではなかったということです。池に投げた石が波紋を生み出すように、同心円的に感染してゆくためには、それが生物として「正しい」動きでなければなりません。感染して、自分もまたその型を模倣することで生命力が高まるような型、それが感染力のある「強い型」です。それに同化すると、こちらの身体が整ってくる。筋肉や骨格や関節の筋目が気分よく通る。心地よい波動が全身を満たす。無用な緊張がなくなる。身体の隅から隅まで感度のよいセンサーが機能していて、わずかな感覚入力が一瞬のうちに全身に伝わる。それが「身体が整った」感じです。

 これはなかなか自分ひとりで手作りすることがむずかしい。むしろ外部から一瞬で感染することで会得されるものです。他者の「強い動き」に「同化される」というしかたで身体が整う。これが本筋のようです。

 日本の古伝の武道には「夢想」とか「神伝」という名を冠したものがたくさんあります。流祖が深山や神社仏閣に籠っているとき、一夜夢の中で天狗や武神に出会い、その型を学んで奥義を極めたという流儀の起源についての物語があるからです。でも、これは別に流儀に箔をつけるための作り話ではないと僕は思います。流祖自身の身体実感だったと思うのです。この動きは自分の中から出て来たものではない。外部から到来した動きなのだが、それを「まねる」「まなぶ」ことで自分の身体が整い、かつてなく生命力が高まった、そのパーソナルな経験を語ろうとするとどうしても「夢の中で天狗に教わった」というような物語に近づいてしまうのだと思います。

 静止した芸術作品からも「強さ」を感じることがあります。

 パリのピカソ美術館の中庭にはピカソの造形した「山羊」の塑像があります。これは強いです。機会があったらぜひ一度ご覧になって欲しいと思います。小さな山羊が四本の脚でぐいっとパリの地面を踏みしめて、大地のエネルギーをぐんぐん吸い上げて、突き立てた二本の角から空めがけてばりばりと放電している。そんな感じがします。

パリのオルセー美術館の上層階には印象派の傑作を集めた部屋があります。以前、ひとりでぼんやり展示を見ながら、室の中程まで進んだところで、背中に異様な波動を感じたことがありました。振り返ってみたら、ゴッホの「ひまわり」でした。画布に塗られた絵の具の凹凸が皮膚にじかに触れてくるような手触りのはっきりした波動でした。

「美しい」というよりは「強い」という印象を与える芸術作品がときどきあります。そういう作品は近づくと「身体が整う」「身体が浮く」「身体が泡立つ」など、いろいろな感触を僕に残します。誰でも同じように感じるかどうかは分かりませんが、とりあえず僕は芸術作品を身体で受け止め、自分の身体の反応に基づいて、作品のクオリティを計ることにしています。


『Onepiece』には「強い言葉」が含まれています。僕自身の身体が反応するのでわかります。それを読むことで、読者の側の身体が整う感じがする、そういう強さです。   

 政治的に「正しい」からとか、論理的に「整合的」だからとかで、修辞的に「美しい」からとかで、言葉の「強さ」が決まるわけではありません。「強さ」というのは、そういうのとは違うレベルのものです。その言葉が周りの人々に「感染」して、それによって人々の身体や思考や感情が「整った」という結果によって「強さ」は判定するしかない。

 声高に絶叫された言葉でも、呪文のように執拗に繰り返された言葉でも、論理的にみごとにな言葉でも、ただそれだけでは周囲の人を「整える」ことはできません。たしかに「影響を与える」ことはできます。破壊したり、調子を狂わせることはできます。呪いの言葉はどれほど低い声でつぶやかれても、じわじわと感染して、周りの人の生きる力を損なってゆきます。そういうネガティブな力は呪詛にも怒号にも恨み言にもあります。でも、それは秩序を壊す力、積み上げてきたものを崩す力であって、整える力ではありません。僕が言っている「強い言葉」とは整える力をもつもののことです。破壊したり、崩落させたりする言葉のことではありません。

 他者の口から出た言葉なのだけれど、聞いているうちに、それが自分の中の深いところからにじみ出してきた言葉のように懐かしく感じられる言葉。ずっと思っていたのだけれど、なかなか言葉に出来なかったことを今かたちにしてもらった言葉。「強い言葉」はそういう納得感を伴います。

 むろん、そんなのは錯覚なのかも知れません。武道の流祖たちが「天狗に出会った」と思い込んだのもたぶん錯覚だったでしょう。でも、錯覚でいいんです。人間はそういう生きものなのですから。外部から到来したものを自分がずっと探し求めていたものだと感じて、それに一気に同化できる「被感染力」の高さこそ、他のどんな種にもまさって人類の成長と変身を可能にしたものだからです。


「強い言葉」は周囲の人を整えます。それまでばらばらだった人々の視線を同じ方向を向かせ、同じ目標に向けて歩み出させ、自分たちひとりひとりがまるで巨大な多細胞生物の一部であるような宏大な共生感をもたらします。

 この本に収められた「強い言葉」はその条件に基づいて選択されたものだと思います。編者がどういう基準で選んだのか、僕はうかがっていませんけれど、たぶん「気分で」選んだのだと思います。「この言葉って、なんか気合いが入るよね」というようなくらいの基準だったんじゃないかと思います。でも、それで正しいのだと思います。

「気合いが入る」って、どういう感じでしょう。祇園の舞妓さんは着物を着るときに帯を肩越しに「ぴしっ」と放り投げるという話を聞いたことがあります。そうすると「帯に気が通る」んだそうです。「気合いが入る」って、たぶんその「帯になった気分」に近いんじゃないでしょうか。誰かにぴしっと筋目を通してもらったせいで、自分の中がきれいに整った感じ。そういう身体的な印象を手がかりにして編者は「強い言葉」を選んでいった、そうじゃないかと思います。


「強い言葉」が生み出すのは共生感です。メンバーひとりひとりがひとつの多細胞生物の一細胞であるかのような共生感を共有できていることが絶好調で機能している組織の特徴であることにはどなたにも異論はないと思います。中枢から細々と指令を下なくても、現場の自由裁量で一糸乱れずに動く組織。それが理想的なしかたで作動している組織です。『Onepiece』を僕は前二回の解説でも組織論として読んできたわけですけれど、今回もその話をもう少し別の観点からしてみたいと思います。

 どうすれば、一人一人ばらばらな個人が集団的に組織されうるのか。どうすれば個性のばらつきそのものが、多様性が集団を賦活するようになるのか。これが『Onepiece』を組織論として読むときの僕の関心事です。

 物語の中では、ルフィーの言葉と行動が麦わらの海賊たちを統合し、彼らの周囲に拡がる世界とそこに生きる人々にひとつの秩序をゆっくりと、しかし確実に作り出してゆきます。いささかおおげさに言うならば、この構成員9人に過ぎない小さな集団の組織統合モデルに準拠して、世界そのものがしだいに同心円的に整序されてゆく、神話的なスケールで展開するそのプロセスを『Onepiece』は描いているということになります。

 イノセントで、(食欲以外については)無欲で、冒険への好尚と友人に対する無限責任以外に生きる上での特段の方針を持たないこの少年は、その「空虚」さゆえに、世界を支える天蓋になりつつあります。なぜルフィーがその任にふさわしいのか。それは、世界のコスモロジカルな中心は「空虚」でなくてはならないからです。「クッションの結び目」と同じです。クッションの結び目は実在物ではありません。布のドレープが全部そこに集約される「空虚」です。でも、それがないと筋目の通った、座り心地のよいクッションはできない。それと同じです。よくできた組織の中心にあるのは「空虚」です。際限なく受け容れる機能、あらゆるものを結びつける機能。ルフィーを特徴づけるのは、間違いなくこの「空虚」です。

 物欲を欠いた人間である彼がもっともはげしい固着を示すのは「食べ物」ですが、これはまさに「底抜けに空虚な胃袋」の効果に他なりません。彼が切望する「海賊王」の称号も(前の解説に書きましたが)ただの記号に過ぎません。領土もないし、王座もないし、王冠もないし、国民もいない「王」。「海賊王」の条件は彼自身の定義によれば「この海で一番自由な奴」ということになります。王土も王冠も宮殿も「自由」であるためにはもとより不要のものです。外形的な何ものにもとらわれない人間、すべての行動が自発的であるような人間。本質的に無一物な人間。おそらくそれがルフィーの理想として描く海賊王なのでしょう。

 ですから、彼がそのパフォーマンスを爆発的に開花させるのは例外なく「友のために戦う」ときであるということも理解できます。彼は別に友だちとの間に「相互防衛条約」のようなのを取り結んでおり、その約款に従っているわけではありません。彼に救出され、支援される友だちがルフィーが自分のことを友だちだと思っていることさえ知らないというケースだってあります。この「友のための戦い」は義務でもないし、報償が約束されているわけでもない、ルフィーの側からの無償の贈与なのです。それは別にルフィーが例外的に博愛的な人間だということを意味するのではありません。彼は「その人のために戦うことのできる友」をつねに自分自身のために求めているのです。友のために戦うことが、彼にとってはこの世で一番楽しいことだからです。「友のために戦う」というこの願いは当然のことながらすべて満たされて「はい、おしまい」ということがありません。なにしろルフィーの友だちは物語の進行に合わせて増え続けているからです。この本質的に空虚な少年(「空虚」というのは「無尽蔵の包容力」ということです。ぜんぜん悪い意味じゃありません)が組織の中核にどんといるからこそ、麦わらの海賊たちは天下無敵の存在となっているのです。


 今の日本の若い人たちが『Onepiece』に熱中する理由の一つは、そこに彼らが現実の家庭や学校や職場ではまず見ることのできない「絶好調で機能している集団」を見るからでしょう。どうしてこの集団ではこんなにものごとがうまくゆくのか。それがただの「絵空事」であれば「ふん、気楽な話だね」で済ませられるでしょう。でも、読者はそこの「絵空事」ではないものを感じています。たしかに『Onepiece』に描かれているのは空想の世界です。でも、枠組みは空想だけれど、そこで起きているさまざまな事件は現実の世界の出来事をある意味ではそのままに映し出している。そこに登場する人々は現実に存在している人々のいささか誇張された写像である。だから、この不思議な物語世界に若い読者たちは独特のリアリティを感じている。そういうことだと思います。

 一番読者が惹きつけられているのは麦わらの海賊団の組織原理でしょう。どうして、この組織はこんなにうまく機能しているのか。それが知りたい。

 そこではたしかに私的なものと公的なもの、個人と集団の歯車が理想的に噛み合っている。でも、それは現実の世界でも局所的部分的には実現可能なもののように思われる。だとすれば、それはどういう組織原理であるのか、どういうふうにこのような集団は形成されうるのか。それを知りたいと願う気持ちが、とりわけ雇用環境がはげしく劣化している日本の若い読者たちの間には、存在するのではないかと僕は思います。そのような組織が「できあい」のものとして提供されるはずはないにしても、もし可能であれば自分たちで「手作り」できなものだろうか。そういう希望が『Onepiece』の読者たちの中にはきっと存在しているのだと思います。

 組織の中で、一人一人のメンバーはどのようなふるまいを通じて集団の一員として認知され、かつそのパフォーマンスは最大化するか。それについて見てみましょう。

メンバーたちはルフィーに誘われて海賊の一味になりますが、リクルートされる最優先の条件は「ルフィーができないことができる人間」であることです。その事情については前の解説にも書いた通り、ルフィー自身がきっぱりこう断言しておりました。


「おれは剣術を使えねェんだコノヤロー!!! 航海術も持ってねぇし!!! 料理も作れねェし!! ウソもつけねェ!! おれは助けてもらわねェと、生きていけねェ自信がある!!!」(第10巻、90話)

 

文字に起こすとちょっと感嘆符が多すぎる気もしますけれど、いいたいことはよくわかりますね。「おれは助けてもらわねェと、生きていけねェ自信がある」というのは、ルフィーという人の「強さ」のありようを語ってあまりある名言です。

 哲学者の鷲田清一先生はこういう人間のありようのことを「独立(independence)」でも「依存(dependence)」でもない、「相互依存(inter-dependence)」という言葉で言い表したことがありました。互いに「その人なしでは生きていけない」「あなたの助けが必要だ」という言葉を言い交わす関係のことです。そういうネットワークの中に身を置くものがもっとも強い。これは経験的に確かなことです。

 ふつうは逆に考えます。誰にも依存しない、誰にも頼られない、自立した人間がいちばん強い。そう思っている人がたくさんいます。もしかしたら現代日本の過半はそう信じているかも知れません。でも、違いますよ。いちばん強いのは「あなたなしでは生きられない」という言葉を交わし合って生きる人です。

「あなたなしでは生きられない」というようなかたちで他人に依存するのは危険な生き方ではないかと思う人がいるかも知れません。その人がいなくなっちゃったらどうするんだよ、と。そのときはなんとかなるんですよ、実は。問題は「あなたなしでは生きられない(ので、死にました)」という事後的な話ではなく、「あなたなしでは生きられない(だから、死なないで)」という懇請の方なのです。

 この理路はおわかりになりますよね。「あなたなしでは生きられない」相手に向かって、それに続けて言う言葉は「だから、いつまでも元気でね」以外にないからです。文字通り「Viva!(生きよ!)」という祝福の言葉がそこからは導かれる。「いつまでも生きてください」という心からの祝福を受けると、こちらもなんとなく気分がよくなる。お腹も減るし、夜もよく寝られる。実際に飛行機事故で遭難したり、無人島に漂着したりした人たちの中でも、家に配偶者や子供がいて「私が死んだら頼るものがなくなる」と思っている人と、独身者で「私が死んでも誰も悲しまない」と思っている人では、生存確率が有意に違ってくるそうです。「私はこんなところで死ぬ訳にはゆかない」という意地は「あなたなしでは生きられない」という家族からの無言のメッセージに対する回答なのです。

 この「あなたなしでは・・・」という懇請は必ず再帰してきます。必ず。理由は簡単です。僕がここにいる。それに対して「あなたなしでは生きられない」と言ってすがりついてくる人がいるとします(例えば、の話ですよ)。想像するとかなり面倒といえば面倒な状況なわけです。べったり依存されているんですから。「だから、オレはそういうのいやなんだよ」と言いたくなる気持ちもわからないではありません。でも、この依存を緩和する方法が一つあります。それは頼ってくる人を頼らなくてもいいくらいに強くすることです。そう簡単に「もう死んじゃいます・・・」というような泣き言を言えないくらいに強くすることができれば、依存される方の仕事はずいぶん楽になります。そこにさきほどの経験則を適用する。どうすれば人間は強くなるか。そう、「あなたなしでは生きられない」と人に言われると人間は強くなるのでした。「Viva!」という激励と祝福の言葉を言われれば言われるほど人間は強くなる。ですから、考えれば自明のことなのですが、「あなたなしでは生きられない」という祝福に対しては「私もあなたなしでは生きられない」という祝福を返すことがもっとも効率的だということになる。「Viva!」と言われたら「Viva!」と返礼する。そういうことです。相互依存のネットワークの中に身を置いていれば、四六時中、東西南北四方八方から「生きよ!」という祝福を浴び続けていることになる。それが生き物としての人間をもっとも強める。

 でも、現代日本人のほとんどはそんなふうには思っていません。それよりはできるだけ自分にすがりついてきたり、懇請したりする人間を切り捨てようとしている。扶養家族や生活保護受給者や老人や幼児のような「足手まとい」なんかいない方が生きる競争では有利になると信じ込んでいる。そのために、できるだけ濃密な人間関係を持たないようにしている。それが賢い生き方だと思っている。そういう人にはこのルフィーの宣言がどれくらい深い人間的知見を含んでいるかおわかりにならないでしょう。

 でも、「助けてもらわないと、生きていけない」ということをこれほどきっぱりと思い切っているのは、麦わらの一味の中でもさすがにルフィーひとりです。なるほど、船長の器です。あとのクルーたちは、ひとりひとりが自分に実力があるから存在根拠が確かであり、力のないものは「邪魔」になるという思いから完全には抜け出していません。他人から依存されるときにこそ人間の潜在能力は爆発的に開花するという、ルフィーには直感されている真理を他のクルーはまだ完全には理解していません。

 ただし、ひとり例外がいます。チョッパーです。

 彼は「治療者」です。ですから、傷ついたもの、病んだもののかたわらにあること、弱者を支援することが自分の本務であるということを知っています。そして、弱者に寄り添うときに自分が最強になるということも、すでに経験的には知っています。

鷲田先生のもう一つの印象深い術語を借りれば、チョッパーは「臨床的」な存在だということになります。傷ついたものに寄り添うことを本務とし、その癒しのわざによって治療者自身が強められている、そういう存在です。強められて当然なんです。病人や怪我人が治療者に向けるまなざしには無言のうちに「あなたなしでは生きられない」というメッセージが必ず含まれているはずだからです。

 ですから、『Onepiece』のストーリーが進むにつれて、いずれルフィーに次いで圧倒的な戦闘能力を持つようになるのはゾロでもサンジでもなく、チョッパーではないかと僕は思うのです。彼は今のところ「50ベリー」というクルーの中で最低の実力評価しか受けていません(ルフィーは4億。最弱のナミでも1600万、チョッパーの32万倍です)。でも、物語の構造的必然としてチョッパーはこののち急速に強くなります。たしかにチョッパーの査定は今はひどく低いです。けれども、それは「非・麦わら的世界」(海軍と海賊たちが個人の能力を「官位」と「賞金」という数値で一元的に考量する世界)にはまだ彼の潜在可能性をただしく査定するだけの「めきき」がいないということに過ぎません。実際にはチョッパーの能力には、彼の癒しによって(失われるはずだったのに)回復した能力と(一度消えかけたけれど)蘇った能力も加算されるはずだからです。弱いもののかたわらにあることで人は強められる。逆説に聞こえるかも知れませんが、これは集団についての自明の真理です。


 どうやって麦わら海賊団のメンバーになるのかという話をしているところでした。ルフィーに声をかけてもらって海賊団のメンバーにはなったのはいいけれど、クルーたちも最初のうちは自分の「居場所」がわかりません。先に加わった仲間たちとの距離を調整し、資質の違いを観察しながら、やがて彼らは「余人を以ては代え難い」自分の独自のポジションを発見します。

 最初は「居場所」がなくて当然です。そんなものはあらかじめ用意されているものではないからです。ルフィーの乗組員採用戦略は「こういう職能のニーズがある」からそれを埋める人材をリクルートするというものではありません。まず偶然の出会いがあって、「おもしろいやつ」だと思ったら「一緒に来ないか」と誘う。それがルフィーのやり方です。そのメンバーの海賊船内における職務は、そのときにルフィーが適当に思いつく。航海士やコックや船医や船大工の必要性はわからないでもありませんが、「語り部」(ウソップ)や「音楽家」(ブルック)がどうして海賊船に必要なのか、ルフィーにだってわからない。

 物語の中では2年の「充電期間」があってパワーアップしたメンバー再会という設定になっておりますから、どうやらこれ以上のメンバー増員はなさそうですけれど、たとえあったとしても、「あらかじめそのポストが空位になっているところ」に新人が採用されるというかたちのリクルートではないでしょう。

 何が言いたいかというと、「麦わらの海賊」では、メンバーになって高いパフォーマンスを発揮するためには、「集団内部で居場所を得ること」つまり「公的認知を得ること」ということが条件になるわけですけれど、これはあらかじめ提示された「タスク」を達成することで得られるものではない、ということです。ルフィーの船には「求人票」は貼られていない。ですから、「誰かこういう仕事をやってくれる人がいないかな。そういう人がいないせいで、この海賊船はうまく航海できないんだ」というタイプの愚痴はルフィーも他のクルーも一度も口にしたことがありません。彼らはそのつど完全に満たされている。最初に小さな独り乗りのボートで祖国から船出したときから、船の大きさや速度やクルーの欠員をルフィーが嘆いたことは一度もありません。一度もないんです。ルフィーが不動の船長の地位を占めている最大の理由は彼が「何かが足りない」というタイプの愁訴を(「腹が減った」と「退屈」以外)絶対に口にしないことにあると僕は思います。すべての必要は(食欲とさらなる冒険以外)すでに満たされている。

 「何かが足りない」という欠落感は必ず「隙」を作り出します。「何かが足りない」というのは、文字通りそこに「隙間」があるということに他ならないからです。「何かが足りないせいで、ものごとがうまく進まないのだ」という他責的な言葉づかいで自分の現況を説明する習慣をもつ人はやがてその「隙」をことあるごとに誇示し、ことさら大げさに語るようになります。それはほとんど自分の弱点を満天下に公開しているに等しいのですが、愚痴を言う人はなかなかそのことに気づきません。

 麦わらの海賊たちとこれまで戦って破れた組織の多くに共通する特徴はそれです。危機的状況に陥ると、必ず「何かが足りない」というふうに考えてしまう。あるはずのものがないせいで、「こんな目」に遭ってしまったのだ、というふうに責任を外部化する。それで自分の不調を説明できたことで満足してしまう。

 でも、麦わらの海賊たちはそういう言い訳をしません。「あるべきものがここになかった」からという言葉づかいで自分たちの非力や失敗を説明しようとしない。そうではなくて、「あるべきものはすべてここにある」という力強い断定に基づいて行動している。それが船であっても、武器であっても、乗組員であっても、必要なものは全部すでにここにある。だから、ここにある「ありもの」を使うしかない。使えるものは全部使う。使える資源は最後の一滴まで全部絞り出す。よそからの「援軍」や「物資の投下」を求めるわけにはゆかない。そこが麦わらの海賊たちが彼らと戦って破れた組織に対する大きなアドバンテージだと僕は思います。

 つまり、麦わらの海賊団ではメンバーはつねに「必要かつ十分である」という話になっている。一人のときも必要かつ十分だし、3人のときも、5人のときも、そのつど「足りている」。ですから、「ニーズ」があるので新しいメンバーをリクルートするということは、この組織では起こりません。そんな人のことをまるで当てにしないでこれまで航海してきたわけですから、その人のための「タスク」は存在しない。だから、みんなが期待していた「タスク」を達成したことで仲間としての認知を得るということは原理的にはありえない。

 では、ルフィーに招かれた新参のメンバーは何をすればいいのか?

 理論的には一つしかありません。それは「この集団にはその機能が欠けていたということが事後的に発見された」という話にするのです。わかりにくい言い方をして済みません。こういうことです。その人が出現して、その仕事をしてくれたおかげで「ああ、こういう仕事をしてくれる人を私たちはずっと待ち望んでいたのだ」という認識に達する。手に入れた後になって、それがずっと欲しかったという気分をはじめて発見する。そういう順逆の逆転したかたちで、乗組員たちは自分の場所をみつけたのです。

「麦わらの海賊」は作者の尾田さんの想像した理想の組織だろうと思います。組織に入って活動した経験のない若い方でもこの組織が理想的なものであることは直感的にわかるでしょう。

もし、就活中の人がいたら、この組織がどういう雇用戦略を掲げているのか(別に掲げていませんけれど)よく見てくださいね。ルフィーは「人材」という言葉も、「即戦力」という言葉も、「採用条件」という言葉も使いません。使うわけがないんです。そんなものはほんとうに創造的で、冒険的な組織にはありえないから。まず人と人との出会いがある。そこで「一緒にいたい」という思いが発生する。どうして一緒にいたいと思うのか、その段階ではまだ言葉にできない。でも、直感的にわかる。だったら、理由はあとから考えればいい。いわば「雇う側」と「雇われる側」のどちらもが、雇用が発生した段階では、どうしてそういうことになったのかわかっていない。その理由はこれからみんなと一緒に作り出し、見つけ出していけばいい。

 ずいぶん空想的な、ありえない組織づくりのように思われるかもしれません。でも、こういうふうな「どうしてこの人に来て欲しいのかわからない(でも、来て欲しい)」「呼ばれたけど、そこで何をしていいのか、わからない(でも、行きたい)」という二重の「?」のうちに取り結ばれた雇用関係ほどには生産的なものはこの世にないのです。そういうことは若い方たちも、これから組織で仕事をするようになると、だんだんわかってきます。だってそうでしょ。雇った側も雇われた側も、どちらも自分がしたことの本当の意味をずっと探さないといけないわけですから。「どうしてこの人を雇ったんだろう?」「どうして私は雇われたんだろう?」ということをいつも考えている。そして、この問いが一応結論らしいものに落ち着くためには「この人以外の誰によっても代替できず、この人がいたことで全員が救われたような出来事」に遭遇する以外に解がありません。そのときはじめてこの人事の意味が劇的に開示される。そのとき、クルーは自分が何のためにこの場に「呼ばれた」のか知ることになる。宗教用語で言えば「おのれの召命」を知ることになる。ここに「集団と個人」についての尾田さんの深い知見が書き込まれていると僕は思います。


 『Onepiece』の組織論について長々と書いているうちにすでに許された紙数が尽きようとしております。最後にひとつだけ、今回新たに収録された名言の背景になった物語(魚人族との戦い)のいささか特異な意味と、そこにおける海賊たちの立ち位置について一言書き留めておきたいと思います。

 人間との融和をはかるポセイドン王一党を処刑し、魚人たちに人間たちに対する憎しみを扶植し、人間との全面戦争に突入することをもくろむジョーンズたち一党が何のメタファーであるかはすぐにわかります。これは「テロリスト」です。

 ある国や部族やあるいは宗派の人々が自分たちを久しく虐げ、収奪し、屈辱的な地位のうちに追いやった「敵」に向かって憎悪と暴力を集中させること、それが現代史的な文脈におけるテロリズムです。今も世界中のあらゆる場所で、あらゆるタイプの、あらゆるサイズのテロが間断なく行われています。

非戦闘員を含む無差別的な軍事行動はどのような勢力が行おうと、それが国であろうと小集団であろうと、それは「テロ」と呼ばれるべきだろうと僕は思います。ですから、僕の個人的な定義では(別に一般性を要求するわけではありませんので、気にしないでください)「敵」に攻撃を加えるときに、たまたまその場に居合わせて「そばづえ」を食う人たち(軍事用語ではcollateral damageと呼びます)のことは「運が悪かったと思ってあきらめてくれ」とすらっと言える人たちは、そのサイズにかかわらず、政治的立場にかかわらず、「テロリスト」と呼ぶべきだと思います。僕はそう思います。繰り返し言いますが、別にこの定義に一般性を要求するわけではありません。

 魚人族との戦いにおいて『Onepiece』で今回ルフィーが直面するのは「テロリストには理があるのか?」という問題です。これはおそらく作者である尾田さん自身の問題でもあるのでしょう。

 もちろん、こういう場合にもルフィーには迷いがありません。彼には直感的にわかる。それはルフィーの判断基準がおのれの「生身の身体」だからです。生き物として正しいかどうか、それがルフィーの唯一の基準です。

 生き物として、というのは重要な基準です。例えばたいへんデリケートな問題として「何なら食べてもいいのか?」という問題があります。竜宮城においては魚介類や貝類は人間と同じような人格的存在です。竜宮城の宴会で、これを食べるわけにはゆきません(ふだんはばりばり食ってますけど)。でも、ルフィーは動物性タンパク質を欲している。ですから、ここで「海獣」というカテゴリーが案出されます。これは食べていい(edible)。おかげでルフィーは腹一倍肉を貪り食べることができました。

 このときにルフィーが採用している可食/不可食の基準は厳密には論理的ではありません。どういう生物学的分類に基づいて「餌」と「そうでないもの」は識別されるのかは明らかにされない。でも、ルフィーは一個の生物として「餌」と「そうでないもの」をきっぱりと識別しています。生き物というのは「そういうもの」だからです。単細胞生物であっても、自分に近づく別の生き物が「自分の餌」なのか「自分を餌にするもの」なのか瞬時に判別します。ルフィーの「食えるもの/食えないもの」の判定基準はそれに準じるものです。「ぶっとばしていいもの/いけないもの」の基準もそれと同じです。自分の生命力を賦活するものか、減殺するものか、そのシンプルな基準に基づいてルフィーは鮮やかに敵味方を識別します。

 ルフィーはまったく平和主義者ではありません(「平和主義者の海賊」なんているわけがない)。縦横に暴力をふるい、これまでも実にさまざまなものを破壊してきました。でも、それらの所業について「間違ったことをしてしまった・・・」と後悔することがありません。「やりすぎ」かけたことはありますけれど、そういうときもぎりぎりで踏みとどまる。「ぶっ飛ばす」のか「止める」のか、その決断は彼の直感に委ねられます。自分の生命力を減殺するものは「ぶっ飛ばす」、自分の生命力を賦活するものは「受け入れる」。それだけです。そこに外形的な基準はありません。判断するのはルフィーの生身の身体です。しょっちゅう腹を減らし、満腹と惰眠を愛し、冒険と「力」に節度のないあこがれを抱き、弱いもの傷つけられたものに無限責任を感じる、そういう矛盾した要素がひとりの少年の中にひしめいている。それが葛藤することなく、一瞬の直感的判断を導きだすのは、それが「生身の身体」というものだからです。生身の身体はつねに「生物として正しい判断」を下すからです。

 ジョーンズとの決戦で最終的にルフィーに勝利をもたらすのは「テロリスト」ジョーンズの憎しみには「生身」の土台がないということを指摘したフカボシ王子の言葉でした。「過去お前の身にどれ程のことがあった?人間は一体お前に何をした?」という王子の詰問にジョーンズは「なにも」と答えます。「おれ達は人間に裁きを与えるべく天に選ばれ力を得た」と。(65巻、643話)王子はそれを聞いてルフィーにこう告げます。「こいつらの恨みには『体験』と『意志』が欠如している」「実体のない空っぽの敵なんだ」。この言葉によってルフィーにとって戦うべき相手、守るべき相手がはっきりと開示されます。

 前の解説にも書いたことですが、麦わらの海賊たちは「小さな義理」を重んじるけれど、「聖戦完遂」というような「大きな話」は信じません。友情は信じるけれど、イデオロギーは信じない。イデオロギーを信じないのは、どれほど整合的であっても、過激であっても、イデオロギーにはそれが生きる上でどうしても必要なのだと訴える生身の身体による支えがないからです。固有名を備えた「身」という土台を持たないからです。イデオロギーが人間の経験や意志のうちに深く根を下ろしていないまま中空に浮いた思念だからです。

 もちろん生身の身体に担保されないイデオロギーでも、人間たちを殺し、都市を焼き、文明を破壊することはできます。むしろ、イデオロギーだからこそできる。でも、作り上げることはできない。蕩尽することはできるけれど、創造することはできない。この世界で「創造」ということができるのは人間の身体だけだからです。一日八時間寝て、三度の飯を食って、ときどき風呂に入ったり、昼寝したり、宴会をしたりしていないと生きた心地がしない、そういう手のかかる、壊れやすい身体だけがこの世界に価値あるものを創り出すことができるからです。

 テロリストたちはつねに堂々たる大義名分を語ります。そして、それが完遂されるために「多少の非戦闘員が『そばづえ』を食うくらいの損害はやむを得ない」とうそぶきます。そこには生身の身体が感じる痛みに対する共感がありません。傷の痛みや、飢えや渇きや、家郷を失うことの絶望感をリアルに感知する器官がテロリストには備わっていません。

生身の身体の「傷つきやすさ」に怯えや気後れを感じないものが「テロリスト」である。僕はそう思います。彼らに与してはならない。

 ルフィーは「傷つかないもの」と「傷つくもの」の間の対立においてはつねに「傷つくもの」の側に与してきました。それは「生きるもの」の側に与するということとほとんど同義なのです。この風通しのよい真理を語るものが現代社会にはあまりに少なくなってきたがゆえに、人々は『Onepiece』を熱く支持し続けているのだと思います。


 

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。


寄稿いただいた記事は2020年1月12日時点のものです。


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