今回は『Mugendai(無限大)』より栗原 進さんの記事からご寄稿いただきました。
「自立」とは、社会の中に「依存」先を増やすこと ――逆説から生まれた「当事者研究」が導くダイバーシティーの未来(Mugendai(無限大))
障害は、障がい者の中にではなく社会と環境に存在する。――逆転の発想から生まれた「当事者研究」は今、障がい者の「自立」に大きな成果を生み出している。そして、「自立」のためには多くの「依存」先が必要と考えるこのアプローチは、高齢化社会を迎える日本のあるべき姿にも重なっていく。
自身も新生児仮死の後遺症による脳性マヒの障害を持つ東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎 准教授に、当事者研究から見えてくる「社会とダイバーシティーの未来」について伺った。
当事者研究とは何か?
――当事者研究を始められたきっかけを教えてください
熊谷 当事者研究自体は、私たちが始めたものでなく、2001年に北海道の浦河町で、統合失調症で長期入院されていた方々が、退院後に地域の中で集まって互いに話し合いを始めたのが最初です。幻聴や妄想などの症状を投薬で治すことで入院が長引くより、症状を持ちながらも地域の中で現実の苦労と向き合いながら自由に暮らすことが回復なのではないか、そうした思いから始まった活動でした。
実際始めてみると、お互いに経験を分かち合うことで思わぬ発見が生まれてきました。一例をあげると、不思議なことに、しばしば統合失調症を持つ当事者の方は、他人の妄想は妄想だと分かる。でも自分の妄想は現実だと思ってしまうのです。ある人はFBIに追われていると言い、ある人はUFOから狙われていると言う。でもFBIに追われている方は、「UFOから狙われているなんてことはないでしょう」と分かる、という具合です。
会話が進むにつれ、互いに共有できる範囲が浮かび上がってきます。それが合意できる「現実」の範囲となり、最終的にそれとは切り離された自分の認識を妄想だと認識できるのです。しかし同時に、FBIに追われている人は、UFOから狙われている人の気持ちを、「圧倒的な力を持つ何かにつけ狙われている恐怖」という、共通する物語の骨格のレベルでは共感できるという点も重要です。
実は、健常者も妄想を持っています。「真実だと思い込んでいたけど、実はそうではなかった」、そういうことは誰しもありますよね。例えば間違った専門家の思い込みが、強力な信念となり、多くの人が疑うこともなく信じ込まされるということもあります。これもある意味妄想です。当事者も専門家も、自らの認識が妄想かもしれないと自覚し、合意できる現実をさぐって対話することから、「研究」が始まります。これが、当事者研究です。
「医学モデル」と「社会モデル」
――先生が今、取り組まれている研究は、どのようなものですか。
熊谷 当初は「当事者研究」という言葉を知りませんでした。もともとは、1960年代から綿々と受け継がれていた「当事者運動」というものに高い関心を持っていました。障害というのは、皮膚の内側ではなく外側にあるのだという主張です。例えば階段を昇れない私の身体に障害が宿っているのではなく、エレベーターがない建物という社会環境の中に障害が宿っているのであり、私たちの暮らしを妨げていることに気づかせてくれたのです。こうした障害の捉え方を「社会モデル」と呼びます。これに対して、障害を皮膚の内側にあるとみなす考え方を「医学モデル」と呼びます。
私の場合は、「痙直型(けいちょくがた)」の脳性マヒで、言語に支障はないのですが、常に身体が緊張していてうまく操れません。そこで小さい頃から、何とか障害を克服し独り立ちして生きていけるようにという親心から、「医学モデル」に基づく厳しいリハビリに専念させられました。
常に家族やトレーナーの視線のもとで、自分の身体に合わない動きを試みる。それは私にとって、健常者の動きに近づけることを強いられ、ひたすらにがんばる日々だったのです。しかし、身体の障害は改善されず希望のない日々を過ごしていました。
大人になって当事者運動に触れ、新しい考え方が芽生えて希望が生まれ、それに救われました。そうして、私を救ってくれた運動に関わってきましたが、途中でこの運動ではうまくいかない当事者がいることにも気づきました。精神障害や発達障害、内部障害など、外見からは見えにくいタイプの障害です。私のように、車椅子に乗っているなど、外見からすぐに分かる障害は、バリアフリーな社会のイメージを多くの人が思い描きやすい。「ここに段差がなければいいのにね」「ここにエレベーターがあればいいね」とわざわざ説明しなくても、何を必要としているかがある程度分かってもらえます。「社会モデル」という考えがピタリとあてはまるのです。
ところが外見上は健常者と同じに見えてしまう障害を持つ人の場合、本当は大きな困難を抱えているのに、見た目が同様なので、「考えすぎだよ、がんばれよ」「甘えないで、皆同じでしょ?」と同化型な差別を受けてしまうのです。「社会モデル」は正しくても、その実現にはより大きなハードルがあります。さらに重要な点は、他人から見えにくい障害は、本人からも気づかれにくい傾向があるという点です。なんとなく他の人と違うけど、何が違うのかは本人にもよく分からない。すると多くの場合、当事者は自分を責め始めます。努力で変えられる範囲と、変えられないがゆえに受け入れ、社会環境の側に変わってもらうほかない範囲の境界線が不鮮明だからです。ゆえに、見えにくい障害を持つ当事者は、社会を変える前に自分を知らなければなりません。
ここから生まれたのが当事者研究というアプローチです。運動は「変える」ですが、研究は「知る」ことから始まります。
言語や知識もバリアフリーに
――どのようなブレークスルーがあり、当事者研究の成果が表れたのでしょうか
熊谷 大学時代に綾屋紗月さんという方に出会いました。私と同じ手話サークルに所属していらして、耳が聞こえるのに手話を使って会話をしている姿がとても印象的でした。本人も何故そうなるのか分からないが、ある時は流暢に話せるのに、ある時は言葉を発することができなくなる。「見えない何か」がそうさせていたのです。
後年、偶然再会した際に、綾屋さんはなかば興奮気味に「私は、自閉症かもしれない」と打ち明けてくれました。当時自閉症の当事者が自分のことを手記に書いて出版したものが話題になっていました。綾屋さんはそれを何気なく読んだ際に、書かれていることがこれまで自分が経験してきたこととそっくりだったので、自閉症という可能性を強く思うようになったとのことです。
まだ、当事者研究のことを知らない2006年くらいの頃の事で、私は小児科医をしていました。自閉症のことも勉強していましたが、専門ではなかったので、知り合いの専門医を紹介したところ、綾屋さんはその先生から自閉症だと診断されました。
――その診断は、綾屋さんに何をもたらしたのですか。
熊谷 それまで綾屋さんは、疑問ばかりで腑に落ちない、自分だけ周りとずれているという感覚をずっと持ってきました。それはまるで、幼少期に経験した断片的な「ずれ」の記憶が、人生の物語の中での位置づけを与えられぬまま、まるでスナップ写真が床に散らばっているような、そんなイメージだったそうです。それが、診断によって困難に「名」が与えられることで、ばらまかれていた写真が時間軸上に並び始める感覚を覚えたそうです。自分の人生が初めて体系化された瞬間だったのです。私はその話を聞いて、見えにくい困難に「名」が与えられることの重要性を認識しました。
しかし同時に綾屋さんは、診断名は単なる「切符」だということにも気づいたのです。電車に乗って行き先に着けば、もうその切符は捨てても構いません。同じ名を共有し、類似した困難を抱えているが異なる仲間がいる場所です。そこから当事者研究が始まります。
研究が始まるとすぐにやっかいなことに気づきました。自閉症は、コミュニケーション障害と定義されています。その定義を受け入れるということは、誰かとのコミュニケーションがうまくいかなかった場合、ことごとく「あなたの障害のせいですね」とされる可能性を許してしまうのです。
でもちょっと考えてみてください。人と人とのコミュニケーションの行き違いって、誰にでもありますよね。意見の相違で喧々諤々になることも。その時に一方的に「あなたにコミュニケーション障害があるから」という理由で、一方の側が悪いとなるでしょうか? 日本人と外国人がコミュニケーションが取れない時、「やっぱり日本人はコミュ障だからね」といわれたらどうでしょう?日本人の皮膚の「中」にコミュニケーション障害があるのではなく、文化の違い、言葉の違いなど多くの相違点が日本人と外国人の「間」にあることが原因に違いありません。コミュニケーション障害は、皮膚の内側にあるものではなく、皮膚の外側、異なる人と人の「間」に発生するもののはずです。にもかかわらず自閉症の場合にのみ、一方的に責められるのはフェアではありません。だから綾屋さんの困難をコミュニケーション障害と記述するのは正しくありません。既存の自閉症の考え方をひっくり返す再定義をしたい。そこで二人で研究をすることにしました。
一緒に研究をし始めた頃、北海道での当事者研究のことを知ったのです。私たちの研究はまさにこれだと思いました。そしてその研究成果として、2008年に共著で、『発達障害当事者研究』を出版しました。
――どのようなことが分かったのでしょうか。
熊谷 コミュニケーション以外の場面で、綾屋さんがどのような経験をしているかを丹念に記述しました。困難は、他者といる場面のみならず、一人でいる時、自分の身体との関係や、物との関係においても起こっていました。人間関係ではなく、むしろ、そこに答えがあるはず。コミュニケーション障害という既存の概念に引っ張られないために、記述を構成する際に、なるべく他者が登場しない場面から記述をスタートすることを意識しました。このこだわりは、類書にはありません。
例えば、「お腹が空いている」という表現。健常者は、胃がきゅっと締まる、頭がふらっとする、イライラするなどさまざまな症状を要約して「空腹感」を表しています。これは、とっても大雑把なカテゴライズです。綾屋さんの場合、細かい内臓の感覚は分かる。でもそれを大きなカテゴリーである「空腹感」にカテゴライズできないのです。
カテゴリー化の仕方というのは、実は人それぞれ個人差があります。私たちが使っている言語は、カテゴリー化の道具です。そして、「これは机です」「これは椅子です」とカテゴリーに名を与え、互いに共有します。しかし、私が担当したある自閉スペクトラム症のお子さんは、どうしても10円玉の概念がつかめなかった。10円玉を10枚並べると、形、汚れ、サビの付き方など一つひとつ違って見える、それを全部10円玉という概念にするのが難しかったからです。細かい差異を無視せず、細かいカテゴリー化をしたい人もいれば、ざっくりでいい人もいます。
私たちが使っている言葉は、多数派のカテゴリー化の仕方に合わせてデザインされたものです。生まれながらに人が持っている、森羅万象の直感的なカテゴリー化のレベルを、認知言語学では「基本的レベル」と呼びまずが、自閉スペクトラム症の方と多数派の基本レベルは異なっている可能性があり、ゆえに自閉スペクトラム症の方にとって、世間に流通している言語は使い勝手が悪くなっている可能性があります。私は「社会モデル」の考え方を、建物や公共交通機関、道具のデザインだけでなく、言語や知識の領域に拡張する取り組みが必要だと考えています。
当事者研究は、マイノリティーの経験から出発して、言語や知識の領域もバリアフリーにしていく試みとみなすこともできます。
――健常者との言語による分類のギャップを埋めるには、どのようにすべきでしょうか
熊谷 私たちの言語は、もっと開拓の余地があると思います。
例えば日常言語に比べると、専門家が使う専門用語はカテゴリー化が細かい。日常言語では表現できない経験を多く抱えていた自閉症の人が、専門用語に出会い自分の思いを言葉にできたというのをよく耳にします。植物図鑑で自分の見た世界が現実だったと気づいた人もいます。これまで自分は植物の個々の違いが明確に認識できていたけれど、人に話しても通じなかった。しかし植物図鑑には、自分の見たとおりの分類がきちんとされていた。これは、専門用語や専門知の中にマイノリティが自分にとってバリアフリーな言葉や知識を見つけた例です。大学は、多くの専門用語や専門知であふれています。大学の中にあるこれらの資源を当事者コミュニティに広げるのも一つのアイデアでしょう。
同時に、当事者研究の中で新たに創出された言葉や知識を、健常者が知る機会も必要ですね。自助グループと当事者研究は、類似した困難を抱える当事者が、互いの経験を語り合う中で言葉を生み出していくという点で共通していますが、当事者研究は自助グループと違って、非当事者に向けた「公開性」を前提にしている点が異なります。
――当事者研究により、コミュニケーションのギャップは埋まってきていますが、課題はありますか?
熊谷 精神医療の分野では、当事者研究的な活動は非常に重要なトピックになってきています。
米国では、90年代にリカバリー・アプローチと呼ばれる大きな精神医療の変革がありました。回復を定義するのは誰かというものです。かつて、精神疾患からの回復を定義するのは、専門家でした。
すでにお話した「社会モデル」にあてはめてみましょう。エレベーターを設置して、足に障害がある人も、行きたいところに行けるようになるのが今日的な回復です。しかし、かつては階段を昇れるようになることが回復だとみなされていました。回復は、その時代の価値観によってその定義が変わります。ちょうどそれと同じことが精神医療の場でも起きています。当事者が回復を定義するのです。その結果、症状の消失ではなく、他者や地域とのつながり、未来への希望、肯定的なアイデンティティ、人生の意味の発見、強みと責任の自覚などが、多くの当事者にとっての回復の最大公約数である事が見えてきました。
残念ながら日本では、上記の意味での本人の回復を、地域社会からの隔離という形で阻害してしまう現状や、本人に否定的なアイデンティティを付与する精神障害に対する社会の偏見がまだあります。これをスティグマと呼んでいます。スティグマとは、当事者に差別や偏見で劣等感を植え付けてしまうものです。
これに対する特効薬は、とってもシンプルです。地域社会が包摂的になる事です。社会にはいろいろな人がいる。統合失調症の人もいれば、身体障がい者もいる。分離されずに一緒にいることが重要なのです。そして互いに、自分の認識は妄想かもしれず、にもかかわらず言葉を交わすことで、異なった妄想に共感でき、同時に合意できる現実を見出すことができると実感することです。
「自立」とは「依存」先を増やすこと
――先生は、障がい者が自立することは、依存先を増やすことだとおっしゃっていますが、これはどのようなことからそうお考えになったのでしょうか。
熊谷 以前、薬物依存者グループの当事者研究に参画したことがありました。この研究で教わったことがあります。すでに疫学的にも確認されている事ですが、特に女性の薬物依存者に多いのが、小さい頃に、身近な養育者から虐待を受けているという事実です。虐待されると、身近な人への依存ができなくなります。そもそも、すべての赤ちゃんや子どもは、困った時に身近な大人に依存しなくては生きていけません。ところが虐待を受けた子は、ぶたれたり、締め出されたり、食事を与えられなかったりするので、身近な人に依存できないと誤って学習します。そうなると消去法で、身近にある物質に依存するか、あるいは人に頼らなくても生きていけるくらい自分の能力を高める(自己依存)のどちらかになります。身近にある物質が何になるかは人それぞれですが、依存症の根本は、依存できなくなることにあるのです。
これを障がい者にあてはめると、障がい者も依存先がとても少ない。ありとあらゆるものが健常者向けにできていて、建物にも地域社会にも依存できません。必然、近親者などに依存先が集中してしまいます。自立とは、その逆で依存先が広がっている状態です。つまり、障がい者の自立には、多くの依存先が必要なのです。
例えば、手足が不自由な障がい者にとって、トイレは非常に大きな問題です。私も子どもの頃から、外出先のトイレがうまく利用できない場合、どうしても間に合わずおもらししてしまうことも多々ありました。このため、教室でおもらしをすると待機している母親が自分をトイレに連れて行ってくれ、身体を洗い着替えさせて教室に戻してくれました。周囲はそれほど気にも留めないかもしれませんが、私は、母親に常時大きく依存しており、それ故、社会への独り立ちは将来の大きな不安となったのです。近親者への依存の集中は、自立を遠ざけてしまうものです。
健常者に依存先が必要ないかというとそうではありません。健常者はすでに自身に見合った依存先が複数あり、自分では意識せず当然のようにそれを利用しているだけです。
いつでも利用できるトイレがたくさんある、地震などでエレベーターやエスカレーターが止まっても、避難できる非常階段がある、疲れたら腰掛けられるベンチがあるなど、社会は健常者にとって多くの依存先にあふれています。健常者が何もせずとも得られている恩恵を、障がい者は、享受できていません。
ただ、これはしばしば誤解されるのですが、「依存先を増やそう」というメッセージの宛先は、障害を持つ当事者ではありません。依存先は、障がい者本人が自助努力で増やすことのできないものです。自助努力だと勘違いすると、医学モデル的なメッセージになってしまう。「依存先を増やそう」というのは、あくまでも社会へのメッセージです。社会に依存先という選択肢をたくさん提供してもらわねばならないのです。そして社会は、私たち全員のことです。一部の障がい者のことでもなければ、健常者だけでもありません。
これはもちろん高齢者にもあてはまります。「年を取る」ということは、個人差はあるにせよ誰もが徐々に身体が不自由になり、心身ともに障害が生じていくという現実でもあります。世界で最初に超高齢社会に突入した日本だからこそ、社会がすべての人に対して依存先をどう提供できるか、皆さんと一緒に考えていければ幸いです。
失敗を恐れず、それを分析して成長する組織へ
――障がい者が社会で活躍できる場はもっとあると思います。企業は障がい者の法定雇用率を維持しようとその数字に目が行っている一方、障がい者側にも活躍の機会を自ら躊躇してしまうケースもあるのではないでしょうか。
熊谷 社会モデルの応用問題として、ここでぜひ考えていただきたいのは、組織文化です。
私は、医療の仕事に携わってきました。研修医時代には、まず採血を担当します。小児科ですので、クライアントはお子さんです。親御さんの気持ちになってみると、まだ何も技術がない研修医に採血をまかせるのは心配です。研修医というだけでナーバスになるのに、おまけに手が不自由という障害が加わると、より一層不安になりますね。私もそれは分かります。ものすごいプレッシャーです。医療の最前線で仕事をするのは無理なのではと落ち込むこともありました。
そんな中、郊外の大変患者数の多い病院に異動になりました。皆、助け合わないと仕事がこなせない。熊谷の手でも借りたいという忙しさでした。(笑)
初日から、外来で採血を担当しなければならない。最初はためらっていましたが、上司が耳元で「何かあれば責任は俺が取る」とささやいてくれ、思い切ってぶつかることができました。
経験を積むと腕は上がっていきます。やがて当直を任されるようになりました。知識はありました。手足となって処置をしてくれるスタッフはたくさんいます。当直医は司令塔として、判断をするのです。この症状の時にどうするか、鑑別診断を挙げ判断をし、指示をする。
忙しさのピークが去って、スタッフ全員がやっとほっと一息ついていた時、一人が言いました。
「そういえば先生、立ち上がって指示していましたね」と。私は車椅子を利用しているので立てないのですけど、思わず立ち上がったという都市伝説も生まれました(笑)。
組織のミッションと障がい者雇用とは両立しなければなりません。病院という組織であれば、医療事故のような失敗を減らし、病気を治す。そのミッションを犠牲にすることもできません。
高信頼性組織(High Reliability Organization)研究というものがあります。航空機産業、病院、原子力発電所など失敗が絶対に許されない組織で、いかにして失敗をゼロに近づけるかを研究するものです。
この研究の成果は、驚くべきことに、「失敗を許容する文化」が肝だということです。大きな逆説です。なぜかというと、失敗が罰せられる環境では、人々は失敗を隠すからです。しかし、失敗こそ組織にとっては学習の源。それを隠されては、組織は成長の機会を失います。もちろん、失敗が許容されるのだと開き直って、無責任にふるまうという意味ではありません。重要なのは、失敗を隠さず、失敗した当事者だけでなく、組織全体で、その失敗のメカニズムを研究することです。一人の責任にはしない。それこそが失敗を減らすことにつながります。こういう組織文化は、組織の学習の観点だけでなく、障がい者を包摂する組織の条件の観点でも非常に重要です。
私がまさにそうであったように、障害を持って仕事をするということには、やはり同僚よりも失敗はついてきます。環境や規則など、いろいろなものが健常者向けであるため、その中で自分なりの働き方を試行錯誤する「実験的領域」が職場の中に担保されていなくてはなりません。新人は誰でも失敗しますが、障がい者は、その期間がちょっと長めなのです。それをどうとらえるかが組織の文化。障害を持った人を招き入れることが、組織全体のパフォーマンスと矛盾しない。それがダイバーシティーです。アイデアも増えるし、多様性があった方がいい。
組織は、従業員の失敗を詰問するのではなく、失敗を組織の宝として分析し、学習につなげる。それは、障がい者も失敗を恐れず多くのことにチャレンジする前提条件になります。失敗を罰しないで学習し続ける組織は、組織と従業員双方の成長につながると思います。
TEXT:栗原 進
熊谷晋一郎 くまがや・しんいちろう
東京大学先端科学 技術研究センター 当事者研究分野 准教授、小児科医。
1977年、山口県生まれ。新生児仮死の後遺症で、脳性マヒに。以後車椅子生活となる。東京大学医学部医学科卒業後、千葉西病院小児科、埼玉医科大学小児心臓科での勤務、東京大学大学院医学系研究科博士課程での研究生活を経て、現職。専門は小児科学、当事者研究。日本発達神経科学学会理事。
主な著作に、『リハビリの夜』(医学書院、2009年)、『発達障害当事者研究』共著、医学書院、2008年)、『つながりの作法』(共著、NHK出版、2010年)、『痛みの哲学』(共著、青土社、2013年)など。
執筆: この記事は『Mugendai(無限大)』より栗原 進さんの記事からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2019年9月05日時点のものです。
―― 表現する人、つくる人応援メディア 『ガジェット通信(GetNews)』