今回はrmaruyさんのブログ『rmaruy_blog』からご寄稿いただきました。
探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第7回:人間の記憶を書きかえる〉(rmaruy_blog)
前々回、マウスの脳に「エングラム細胞」(=特定の記憶の保持を担う神経細胞群)を見つけたとする利根川ラボの研究を紹介しました。彼らは、エングラム細胞の操作を通じて「記憶を書きかえる」技術を実現しつつあると言います。しかし、こうした手法がすぐに人間に応用できるようにはなるかというと、そうは思えません。前回*1 は、その理由の一つにマウスと人間の記憶には質的な違いがあることを述べ、そうした議論の一例として、Endel Tulvingの「エピソード記憶は人間だけのものだ」という主張を取り上げました。
*1:「探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第6回:エピソード記憶は人間だけのものか〉」2017年03月06日『rmaruy_blog』
http://rmaruy.hatenablog.com/entry/2017/03/06/113143
では、人間の記憶は当面「書き換え」などできないと思ってよいのでしょうか。そんなことはありません。少し調べると、心理学の分野では「人間の記憶を操作する」研究がしばらく前から行われていることが分かります。ただし、その方法はKandelや利根川氏のように電気生理学や遺伝子工学を駆使したものではありません。脳に直接働きかけるのではなく、「被験者との対話する」という素朴な方法で記憶を操作するというものです。
今回取り上げたいのは、そうした過誤記憶(false memory)の研究です。「過誤記憶」とは、「実際には起こっていないのに、本物の出来事のように想起される記憶」のことです。
偽の記憶を植え付ける
過誤記憶研究の草分けとしてよく登場するのが、心理学者Elizabeth Loftus(エリザベス・ロフタス)が1990年代に行った「ショッピングモール迷子実験」(”lost in the mall”experiment)です。これは、「あなたは5歳のときにショッピングモールで迷子になった」という偽の記憶を実験の被験者に植え付けるというものです。ちなみにWikipediaによると、この実験を考案したのはLoftus教授本人ではなく、彼女の講義を受けていた学部生だったそうです。ちょっと良いエピソードだと思います。
その後も、様々なバリエーションの「記憶を植え付ける実験」が実施されています。なぜこんな実験をするのか、こんな実験をして倫理的に問題ないのかが気になりますが、過誤研究の研究のモチベーションの一つに、刑事事件の冤罪を減らすということがあります。人間の記憶の操作されやすさを知ることは、事件の目撃証言や自白をどの程度信じるべきかということに示唆を与えるからです。
さらに進んだ研究が、最近邦訳が出たばかりの『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社、2016)という本で紹介されています。
「脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議」2016年12月14日『amazon.co.jp』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062197022/hatena-blog-22/
人の記憶が見せる様々なエラーについての科学的知見をわかりやすくまとめた科学書なのですが、本書の見どころとなっているのが著者本人による実験です。それはまさしく「犯罪を犯した記憶を植え付ける」というものです。どうやるのか。2015年の原論文※1 を参照しながら、その実験の概要をまとめてみます。
・被験者としてカナダの大学生60人を選抜した。実験参加の報酬は50ドル。
・あらかじめ保護者にアンケートをとり、本人の11~14歳の出来事について教えてもらった
・1週間おきに3回の面談を実施した(実験者と被験者の1対1の面談)
・最初の面談にて、本当の出来事と偽の出来事を一つずつ話題にあげ、それぞれヒントを与えながら思い出すように促した
・偽の出来事は「友達を暴行して警察に連れていかれた」「万引きをして警察に連れていかれた」など犯罪にまつわるものとした
・当然、偽の記憶を最初は思い出せないので、「あなたの親は○○と言っていました」と偽情報(misinformation)を与えたり、「努力すれば思い出せます」などと言ってプレッシャーをかけたりした
・面談後、家に帰ってもなるべく思い出すように指導した
・2,3回目の面談で何を思い出したかを聞いた
・最後の面談で、偽の記憶を思い出したと言い、なおかつ実験者が与えていない記憶のディテールを10個以上挙げた場合に「過誤記憶」ができたと判定した
これにより、なんと70%の被験者が架空の犯罪の過誤記憶をもつに至ったのだそうです。それも「もしかしたらやったかもしれない」というレベルではなく、映像や音声をも含む鮮明な記憶が作られたと言います。
一つ付け加えておくべきかもしれないのは、この結果は実験者のスキルに左右されるだろうということです。論文の中でも、多くの学生に過誤記憶が生じたのは「社交的な性格で、警察式のインタビュー術を身に着けた実験者のスキルによるところが大きいかもしれない」とあります(おそらくShaw氏のこと)。たしかに、若く※2 才気あふれる雰囲気のJulia Shaw氏だからこその、職人芸的なテクニックと言えるかもしれません。
とはいえ、少なくとも熟練スキルがあれば「犯罪の記憶」を植え付けてしまえることをこの実験は示しています。となると、現実の事件の容疑者の自白で同じことが起きていてもおかしくありません。実際に、こうした過誤記憶による冤罪は多いそうです。そこで、過誤記憶研究の知見を生かし、たとえばニュージャージー州の裁判で陪審員に渡すインストラクションのなかには、「証言者の記憶が間違いやすい」ことや、「人種によるバイアスに注意すべき」などの具体的なアドバイスが記載されているそうです※3 。
ちなみに、犯罪とならんで過誤記憶が問題となる分野として、精神医学があります。解離性同一性障害(以前は「多重人格」とよばれていた精神疾患)の原因の一つに、抑圧された幼少期の虐待の記憶があるとされており、その失われた記憶を精神療法によって取り戻すことで治癒する、という治療法が一時流行していたそうです。Loftusらは、この治療の過程で偽の「幼児虐待」の記憶が植え付けられてしまう可能性を主張しました。精神療法で親の虐待を「思い出した」患者と、子供に心当たりのないことを糾弾されて当惑する親とを巻き込んだ一大論争(「記憶戦争」)が1990年代には巻き起こりました。その渦中で患者に訴えられたりした苦労を、Loftus氏は2013年のTEDトークで語っています。
「記憶が語るフィクション」『TED』
https://www.ted.com/talks/elizabeth_loftus_the_fiction_of_memory?language=ja
こうした刑事事件や幼児虐待の事例は、「記憶」が科学的に興味深いだけでなく法的・倫理的問題と結び付きやすいテーマであることを物語っています。
身近な過誤記憶?
なお、先の「記憶を植え付ける」実験の話を聞いたとき、多くの人は「自分だったら引っかかるとは思えない」と感じるのではないでしょうか。筆者はそうでした。しかし、普段の生活では悪意ある誘導尋問をされることなどはないので、想像しにくいだけかもしれません。
より身近に「過誤記憶」を実感する方法として、「できるだけ古い記憶」を思い出してみるのはよいかもしれません。筆者の場合、もっとも古い記憶はたぶん2歳のときの、叔父さんの結婚式に参列したときのものです。会場の雰囲気や周りの大人の様子を映像として記憶しています。ですが、発達心理学的にはエピソード記憶が保持されるのは3.5歳くらいかららしいので、これはおそらく後から作られた過誤記憶と思われます。
こういう幼少時の過誤記憶から類推すると、誘導尋問によって記憶が植え付けられてしまうこともなくはないかな、と思えてくるのですがどうでしょうか。
なぜ過誤記憶が生じるのか
電極を刺すまでもなく、最先端の遺伝子技術を使うまでもなく、人間の記憶は「書きかえられて」しまうようです。そのメカニズムについては、何かわかっているのでしょうか。
過誤記憶の実験では、いずれも本当の記憶に偽の記憶をうまく混ぜ込むのがポイントになっています。このことからもわかるように、記憶には
・既存の記憶の周りに、類似した新しい記憶が作られる
・思い出すときに、記憶が書き換わる
という性質があるようです。前者は連想活性化(associative activation)、後者には検索誘導性健忘(retrieval induced forgetting)というキーワードが関連しています。
また、前述の『脳はなぜ都合よく記憶するのか』では、ごく簡単にファジー痕跡理論(fuzzy trace theory)という理論への言及があります。これは記憶の痕跡は要旨痕跡(gist representation)と逐語痕跡(verbatim representation)に分かれていて、要旨記憶だけが与えられたときにそれと整合する逐語記憶を後から作り出す性質が脳にある。それにより過誤記憶が作られるのではないか、という理論だそうです。
ですが、この本に出てくる理論らしきものはそのくらいです。著者は記憶のメカニズムとして、カンデル氏の実験や利根川氏の実験に触れ、シナプス可塑性や細胞集団レベルの記憶研究を紹介してはいます。ですが、それと人間の過誤記憶がどう関係しているかになると、
エングラムが間違って結び付いてしまえば、記憶の幻想が起こる(p.101)
くらいの記述にとどまっています。具体的に何がエングラムなのか、その「混線」はどう起こるのかについての説明はありませんでした。
どうやら、心理学実験で過誤記憶が形成される仕組みは、神経細胞レベルではほとんど何も分かっていない、と言ってしまって良さそうです。とはいえ過誤記憶の研究は、
・エングラムは図書館の本やアーカイブのビデオテープのように静的なものではなく、常に編集・改変されるダイナミックなものであること
・エングラムは、意味的に近い記憶など、近接したエングラムに影響を受けて変わっていくものであること
など、重要なことを教えてくれています。
おわりに
過誤記憶の研究を一瞥して、人間の記憶はどうやらロボットの記憶のように緻密に書きかえることはできないが、人との会話のなかで書きかえられてしまうような脆さをもったものであることがわかりました。今後、心理学的な記憶研究がどう発展していくのかは気になるところです。
さて、そろそろ本連載にもひと区切りつけたいと思います。次回は、ここまで勉強してきたことのまとめを書く予定です。
※1: Shaw, Julia, and Stephen Porter. “Constructing rich false memories of committing crime.”Psychological science 26.3 (2015): 291-301.
※2: 著者は筆者と同じ1987生まれなので、まだ29歳か30歳です
※3: Schacter, Daniel L., and Elizabeth F. Loftus. “Memory and law: what can cognitive neuroscience contribute?.”Nature neuroscience 16.2 (2013): 119-123.
執筆: この記事はrmaruyさんのブログ『rmaruy_blog』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2018年10月16日時点のものです。
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