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私から色が消えた日 第5章


静間弓

第5章 最期の日

半年が経った。

 年が明けても僕の生活は変わらず、自席でパソコンに向かいながらいつも通りに仕事をこなす。でも今日だけは少し違う。朝から時計を何度も気にしていた僕は、一時を過ぎた瞬間パソコンを閉じて身支度を整えていた。

「萩尾くん、お疲れ様」

すると背後からは編集長の声が聞こえてきて、周りの席に座る同僚たちも僕を見送るように立ち上がる。

「編集長、皆さん。大変お世話になりました」

 最後の挨拶かのように告げた僕の手にはいくつもの紙袋があり、デスクの上はパソコンが一台だけ寂しそうに取り残されている。

「もうすぐね」

 意味深な言葉と共に心配そうに微笑まれ、僕は複雑な気持ちで頭を下げる。

 今日で僕は六年間勤めた会社を退職する。最後の日は半休をもらい、とある場所へ向かうことになっていた。

車を走らせた先は、奈々子のいる大学病院である。足早にガラッと病室の扉を開けたらまだ彼女の姿があり、ホッと安堵する。

「良かった、間に合いました」
「あ、萩尾さん?」

 真っ白いベッドの中で体を起こして座っている彼女は、僕の声に気づいて顔を明るくする。今日は彼女の角膜移植が行われる大事な手術の日であった。

 彼女の隣に座っていたマスターは、気を利かせて黙って病室を出ていく。

 僕はすれ違いながら会釈をして、ベッドの横に置かれた椅子に腰かけた。

「どうですか、気分は」

「緊張してます」

「そうですよね」

 この病院を紹介してすぐ、マスターと奈々子は四条先生に会いに行った。それから検査を繰り返しながら、今日のために準備を続けようやく手術の日を迎えられたのだ。

奈々子は治療に専念するため、仕事を休職した。

術後二週間の入院に加え、視力が回復するまでには早くても一ヶ月はかかる。感染症や合併症のリスクがあり、同時に両目の移植はできないことからまた半年後にも同じ手術が待っている。今日の手術はその序章にすぎず、長い戦いが始まろうとしていた。

「そういえば院長先生から聞きました。萩尾さんのお父さん、横浜にある大きな病院の院長さんなんですってね」

 手術が始まるまではまだ一時間あり、他愛のない会話をしていたところへ突然ふられた話題に驚く。あまり自分の話をするのは得意ではなく苦笑いを浮かべた。

「でもどうして出版社に? お医者様とか医療関係の仕事に就こうとは思わなかったんですか?」

 不思議そうに首をかしげる奈々子を見て、僕は仕方なく口を開く。

「ここだけの話。本当は、小説家になりたかったんです」

 初めて人に告げた自分の夢の話だった。

「学生の頃は端からコンテストに応募していて、でもどこにも引っかからなくて才能はないと諦めた。だけど少しでも本に関わりたくて、今の会社を選んだんです」

「そうだったんですか」

「それに病院の方は七つ上の姉がいるので……僕はいいんです」

 そのとき、看護師さんが様子を見に病室へと入ってくる。そろそろタイムリミットが近づいてきていた。

 奈々子はそわそわとしながら、迫る手術の時間に不安気な表情を浮かべる。

「入院中会いに来てくれますよね? ひとりでずっとベッドの上なんて暇で暇で」

 それでも彼女は必死に笑顔を作っていた。

 しかし僕はその返答に困ってしまう。

「萩尾さん?」

「ごめん。ここのところ忙しくてしばらくは顔を出せそうにないんです」

 言葉を選ぶ間もなく、彼女の声に反応して慌てて答える。

 その瞬間「そっか」と微かに聞こえ、あからさまに寂しそうな表情の奈々子を見たら胸が痛くなった。

 でも、僕が会えるのはここまでだった。

「目が見えるようになる頃には会いに行けるように、……頑張るから」

 ぎゅっと服の裾を握る手に力がこもる。唇を嚙みながら悔しさがこみ上げ、僕は内心穏やかではいられなかった。

「最後に、写真撮ってもいい?」

 僕は、彼女に告げる。携帯のフォルダには写真なんてほとんど入っていない僕が、珍しいことを言う。

「良いですけど。最後なんて、まるでもう会えないみたいじゃないですか」

 目を丸くして驚いていた彼女は、すぐに表情を変え冗談っぽく笑い飛ばそうとする。

僕は静かに奈々子の隣へ移動する。ベッドの端が沈み、僕は少しだけ彼女の方へと頭を寄せた。

「違うよ。目が見えない奈々子ちゃんとの最後の写真」

「あ、初めて名前呼んでくれた」

「はい、じゃあ撮りますよ。笑って」

 これが、ふたりで撮った最初で最後の写真になった。

 一ヶ月後、順調にいけば彼女の片目は見えるようになる。しかし、そのときに僕は隣にいられるだろうか。

彼女の目が見えるまでは——。

 彼女の手術が終わるまでは——。

 何度も何度も願いながら奈々子の乗るベッドが手術室に吸い込まれていくのを見送る僕は、ふらっと立ち眩みがして近くの手すりをとっさに掴む。

僕にもタイムリミットが迫っていた。

 真っ白いベッドの中、奈々子との思い出をここに記す。彼女のしぐさや表情、交わした会話を忘れぬようひとつひとつの記憶を丁寧に残していく。

 それは僕が奈々子と共に過ごした証である。

君と出会って僕は変わった。

『自分の運命を受け入れて、そうなった人生を楽しまなきゃ損してるって思ったんです。過去は変えられなくても未来は私の自由。人生楽しんだもん勝ちでしょ?』

 思い出される君のセリフが心に刺さる。

 僕の体は病気だった。気づいたときにはもう手遅れで、その運命を受け入れるしかないと思って生きてきた。でもそんなときに君と出会ってその強い心が勇気をくれた。僕の未来に希望を与えてくれた。

ここまで耐えられたのだから、あと一ヶ月くらい頑張れるだろう。

自分の体に訴えかけながらも、だんだんと目はかすみ手の力もなくなっていく。弱っていくのを感じ、このまま機械の力を借りて生きるしかなくなるのだと実感する。

これから辛い治療が始まる。でも、それは少しでも長く生きるためのもの。

だから、あともう少し待ってほしい。僕の体、もう少し頑張ってほしい。

 ひとつだけ叶うなら、彼女の目が治るまででいい。

あと一ヶ月。それまででもいいから、生きたい。

あと少し、あともう少しだけ生きたい。

生きたい――。

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