静間弓

第1章ー僕たちの出会い

——僕が彼女と出会ったのは、とある夏の日の出来事。

アブラゼミのやかましさと照りつける太陽の下、滴り落ちる汗をぬぐいながらパーキングに停めていた車に戻る。

萩尾廉(はぎおれん)、二十七歳。四年制大学を卒業後に大手出版社に就職してから五年、有名な漫画家先生の担当編集者として働いている。今もちょうど先生の自宅へ向かい原稿を受け取ったところだ。

気温三十度の暑さの中、喉の渇きを感じネクタイを緩める。炎天下にさらされた車内はもはやサウナ状態で、急いでエンジンをかけエアコンをつける。車のドリンクホルダーに置いてあったコーヒーも生ぬるくなり、口に含んだ瞬間顔をゆがめた。

あまりの暑さに耐えきれず車から出て、海風を感じながらハイカラな横浜の街並みを見渡す。そこでたまたま目に飛び込んできたカフェの店構えは、一棟だけ異色の雰囲気を放っていた。

引き寄せられるように扉を開けたら、この辺りの店では珍しいレトロ調の店内が目に入る。カフェというよりも喫茶店という表現の方が正しい気がした。

ひんやりとした空気が漂い、涼しさを全身で感じながら思わず吐息が漏れる。

「いらっしゃいませ」

途端に奥から明るい声が聞こえてきて、カウンターの方を見たら紺色のエプロンをつけた女性が立っていた。その時間、店内に客はひとりもおらず三時を過ぎて少し落ち着いてしまったのか店員も彼女だけだった。閑散とした中どこに座ろうかと迷う。そしていつまでも陽だまりのような笑顔を向けてこちらを見てくる女性店員にも少し戸惑っていた。

「あれ、私間違えちゃいました?」

すると突然話し出す彼女は不安げな表情を浮かべる。

僕は一瞬何が起こったのか分からず、挙動不審な態度をとった。

「お客様……ではなかったですか。ごめんなさい、初めて聞く声がしたからてっきり」

何か勘違いをしているようだ。

僕はまだ一度も声を発していないはずなのに〝初めて聞く声がした〟とはどういうことだろうか。不思議に思い首をかしげながら近づいていくが、彼女は一層怯えた表情を作る。

なんとなくカウンターへ座り、カタンと音を立てて鞄を置いたら彼女はビクッと音に反応する。ようやくこちらに顔を向けたが、いまだ顔は強張ったままだ。

そのとき、初めて何かがおかしいと気づく。

「あの、客です」

自分から客だと名乗る日が来るとは思わなかった。初めてのセリフに戸惑いながら、若干の甘噛みをした。

「良かったあ、物騒な人が入ってきたかと思っちゃいましたよ」

 彼女は安堵して気が抜けたような声を出し、また先ほどの笑顔を向けてくる。

 僕はスーツを着た至って普通のサラリーマンで、比較的温厚な方に見られがちだ。物騒と表現されたのは生まれて初めてで正直耳を疑う。

でも、彼女とは一度も目が合わなかった。

髪留めで簡単にまとめられていた焦げ茶色の髪はほどけかけ、数本の束になって首元へ流れる。薄化粧の可愛らしい顔立ちでえくぼを作って笑う彼女は、透明感のあるきめ細かい真っ白な肌をしていた。

カウンター越しにコップ一杯の水を出してくれて、一緒ににこっと微笑まれたら自然と目は釘付けになった。

そのとき、背後から聞こえたカランカランという音が店内への来客を示す。

「お待たせ、奈々子(ななこ)ちゃん」

つられて振り返ったら、六十代くらいの男性が両手に持つビニール袋をいっぱいにして立っていた。

「ちょっと買いすぎちゃったよ。店番ありがとうね」

「全然大丈夫です。あ、おひとりお客様ですよ?」

 僕を紹介しながらカウンターを出る彼女と入れ替わるように、その男性は中へと入っていく。

「すみません、お待たせしちゃって。いらっしゃいね」

「あ、いえ」

 レトロな雰囲気が似合うスマートな男性は細い目をさらに細めてにっこりと微笑んでくる。しかし僕は会釈をしながらも無意識のうちに目線は彼女を追っていて、そこで先ほどから感じていた違和感の意味を知ることになる。

エプロンを脱ぎ黒いワンピース姿になった彼女は僕のすぐ後ろを通りすぎていく。しかし、ちらりともこちらには目を向けず、その先にある海が見える広いテラスへ向かっていった。

その間〝カチカチ〟という独特な音が店内に響き、胸をざわつかせる。

白い杖で音を鳴らしながら歩く彼女には、僕の姿が見えていなかった——。

「お兄さん、うち初めてだね」

 見入っていた僕に話しかけてきたマスターは、せっせと購入品を冷蔵庫にしまいながら歩いていく彼女の方へと目配せをする。

「あの子、目が見えないんだけどそうは思えないでしょう。底抜けに明るくていつも感心させられてるよ」

 僕はテラスに出ていく彼女をジッと見つめる。

急な強い風に髪が乱れても気にする素振りを見せず、太陽の日差しが遮られているとはいえ暑いテラスの中で木製の椅子に腰かける。そのままボーっと座り込む彼女は、なんだか自然の力を体全体で受けとめているように見えた。

冴島(さえじま)奈々子。

年は僕より三つ下で、この店『喫茶・橘(たちばな)』を営むオーナーの孫にあたる。ふたりはこの店の二階で一緒に暮らしていて、彼女は常連客なら誰もが知る看板娘だ。

その日から僕は仕事で先生の自宅を訪問するたび、この店へ立ち寄るようになる。もちろん席は決まってカウンターで、彼女の特等席であるテラスが見える場所。

気づけばいつの間にか僕も常連客のひとりになっていた。

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情報提供元 : 編集部記事
記事名:「 私から色が消えた日 第1章