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【無所可用】第38話 1日0.5往復~限界状態で運転を続けていた鉄道のおはなし~


限界状態で運転を続けていた鉄道のおはなし

限界状態で運転を続けていた鉄道のおはなし毎度マニアックな話題をおとどけしております「無所可用、安所困苦哉」でございます。今回はある鉄道のおはなしをおとどけしますが、それもたいそうマニアックなお話をさせていただきます。

今も昔も、運転本数が極端に少ない路線というのがあります。有名なところでは静岡にあった清水港線です。

末期、旅客列車は1日1往復でした。これは貨物主体の路線であり旅客はオマケであったことが主因ですが、肝心の貨物がなくなった後も路線が廃止されずに存続していたせいでもあります。

北海道・名寄本線の中湧別~湧別間は、朝夕の1日2往復でした。清水港線は1967年の時刻表では4往復運転されていますが、中湧別~湧別間は1967年も廃止になる年も同じ2往復です。しかも1日2回しか列車の来ない終点・湧別駅にはちゃんと駅員さんがいて、切符を売っていたのですから驚きです。
現在生き残っている鉄道で運転本数が少ないというと、運休中ですが岩手県の岩泉線、朝夕しか走らない兵庫県の山陽本線枝線・通称和田岬線、山口県の小野田線の長門本山支線、名古屋鉄道の築港線等でしょうか。いずれも行き止まりの「枝線」「盲腸線」と呼ばれる線形です。

ところで、かつて「旅客列車1日0.5往復」という鉄道が存在していました。

1967年10月号の時刻表に、その姿を見ることが出来ます。鉄道の名は「寿都(すっつ)鉄道」。北海道の函館本線黒松内から日本海側の寿都までを結んでいた、16.5kmの鉄道です。寿都は渡島半島付け根付近の日本海側の町です。

【写真:寿都鉄道地図:交通公社時刻表1967年10月号】
寿都鉄道地図:交通公社時刻表1967年10月号

時刻表の北海道の地図では、寿都鉄道は鉄道記号で記されています。しかし、寿都鉄道の時刻のページを見ると、マークは鉄道ではなくバスになっています。よく見ると、黒松内から寿都方面への1本だけに「列車」という注記がされているのです。寿都から黒松内方面への時刻表にはこの注記がありません。上り向きは回送列車として運転していたのでしょうか。

【写真:寿都鉄道時刻表:交通公社時刻表1967年10月号】
寿都鉄道時刻表:交通公社時刻表1967年10月号

なんでこんなことになっているのでしょう?

それは、まず寿都鉄道の輸送量の少なさ、要するにお客の少なさという理由があります。
北海道の私鉄の訪問記録が詳しく記載されている『私鉄紀行 北線路 never again(上)』という本に、寿都鉄道の輸送量の状況についての記載があります。

『1967(昭和42)年度の旅客数は2000人にまで減少した。当年度は、旅客収入22万3000円、手荷物収入191万1000円、貨物収入857万5000円、雑収入22万7000円で、収入合計は1093万6000円であった。一方、支出は、線路保存費577万4000円、車両保存費139万6000円、運転費279万4000円、運輸費472万1000円で、合計2762万1000円となっており、大幅な赤字であった』

旅客数2000人というのは、年間での人数です。単純に365で割ると、1日あたり約5.5人となります。ちなみに最も多かった年でも30万人強、これとて1日当たり約822人過ぎません。山手線11両編成ひと編成の定員よりも少ない人数です。貨物が収入のウェイトを占めていたとはいえ、前述の『私鉄紀行 北線路 never again(上)』にもありますが、この輸送量でよく鉄道経営が成り立つものだ、という感じです。
同書によれば、除雪費の計上が無かったりすることから、冬期には運休してバス代行は日常的に行われていたのではないかと推測されています。

この輸送量でも鉄道が敷かれたのは、寿都に水揚げさるニシンの輸送、沿線にあった鉱山からの鉱石の輸送などの貨物需要があったためでした。しかしニシン漁は大きく衰退してしまいます。また鉱山も閉山し、貨物輸送は大打撃を受けます。そうして、前述のような状況になっていくのです。
それでも鉄道を維持したのには理由がありました。黒松内~寿都~岩内~小沢という、通称西海岸鉄道と呼ばれる路線の計画があったのです。このうち、岩内~小沢間は、国鉄岩内線として開通済みでした。この計画が実施に移され、路線が国に買い上げられることを期待したのです。そのため路線を維持し、大幅な赤字の中でも0.5往復という半端な運転を続けていたのです。

しかし災害の影響を受けて路盤が流出し、線路が途切れてしまい、運休へと至ります。それでも廃止はせず、休止という届けを出しています。ところが、最後の列車がいつ運行されたのか、はっきりとわかっていません。多くの人が現地取材も行って解明しようとしている様子がネットでも見られますが、やっぱりわからないという結果になっています。いろいろ見たところでは、雪で運休してそれっきり、ということのようです。

鉄道廃止後、寿都鉄道はバスの運行を続けますが、賃金未払いが続き、バス運行は組合管理となります。しかし車両の整備費が出せず、バス路線の免許が別の会社に売却され、従業員全員解雇となります。

ところが、社長1人となっても、寿都鉄道は存続しつづけます。それは、前述の西海岸鉄道への期待がまだ残っていたためです。そのため会社組織を存続していたのでした。しかし国鉄赤字ローカル線廃止のため岩内線は廃止となり、西海岸鉄道の計画も消えました。ここに至って寿都鉄道はいよいよ「解散」となります。
解散した寿都鉄道ですが、いろいろ検索してみると、解散はしたようなのですが、「清算」の手続きがされていないようなのです。もしそうだとすると、この「最も悲惨な末路をたどった3私鉄」に数えられる寿都鉄道は、現在も会社としては消えていない、ということになるのです。

この小さな鉄道では、国鉄が明治時代に輸入した古典蒸気機関車や、黎明期の気動車が活躍していたことでも知られています。「寿都鉄道」というと、地方私鉄ファンの心には、多くの個性的で魅力的な記録と記憶がよみがえるのです。

参考サイト「南後志をたずねて~寿都鉄道の最後」

参考サイト「60年代の地方鉄道・寿都鉄道」

(文・エドガー)

Publisher By おたくま経済新聞 | Edited By おたくま経済新聞編集部 | 記事元URL https://otakuma.net/archives/6455193.html
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