春と秋の彼岸は、夏の盆とあわせて先祖の霊を弔う民俗行事。この機会にお墓参りをされる方も多いかと思いますが、千葉県鎌ケ谷市の墓地には、鉄道の駅名にもなっている「鎌ケ谷大仏」があります。
高さ1.8mというその大きさから、地元では「小仏さま」「がっかり大仏」と呼ばれることもあるようですが、実はこれ、個人が先祖のために造立した「マイ大仏」なのです。春の彼岸を機会に現地を訪ねてみました。
JR常磐線の松戸駅と京成津田沼駅を結ぶ新京成線に乗り、やってきました鎌ヶ谷大仏駅。路線距離26.5km、全部で24駅あるうち、ちょうど中間にあたる駅です。市の名称は「鎌ケ谷市」ですが、駅名は「鎌ヶ谷」と小さい「ヶ」で表記されるのがポイント。
奈良や鎌倉をはじめ、日本全国に大仏は数々あれど、鉄道の駅名となっているのは鎌ケ谷大仏だけ。駅を出て歩き出したのも束の間、あっという間に鎌ケ谷大仏に到着しました。
初めて見た人の多くが「あれ……大仏なのに小さい」と思うという鎌ケ谷大仏。法界定印を結んだ高さ6尺(1.8m)、青銅の釈迦如来坐像です。一説によると「大仏」と名のつく仏像では、日本最小クラス(高さ2m未満の大仏はいくつか存在)なんだとか。
通常、大仏というと奈良の場合は東大寺、鎌倉の場合は高徳院(清浄泉寺)という具合に、寺院の境内にあるものですが、これは寺院が所有するものではありません。それもそのはず、この大仏は個人が先祖を供養するため、先祖代々の墓所の前に作ったという「マイ大仏」で、今でも寺院ではなく個人所有という珍しい存在です。
鎌ケ谷大仏は1776(安永5)年、木下街道鎌ケ谷宿の大黒屋(福田)文右衛門が先祖の供養のため発願し、江戸は神田の鋳物師多川主膳に鋳造させたものとのこと。木下街道は江戸川河口の行徳(千葉県市川市)と利根川の木下河岸(千葉県印西市)を結ぶ約9里(36km)の脇往還で、鎌ケ谷宿はその中間にあたる宿場でした。
木下街道は比較的短く、1日で踏破できる距離ということもあり、宿場といっても大規模なものはなかったそうなのですが、利根川の水運を利用した鹿島神宮参詣ルートとして交通量は多かったようで、松尾芭蕉も鎌ケ谷宿に立ち寄ったとの記録が著書「鹿島紀行」に記されています。
大黒屋を営む福田家も盛業だったようで、大仏の開眼供養の際には自宅から宿場の北外れにある現在の墓地まで、約3町(約327m)の道に琉球表(畳表)を敷き詰め、50名以上の僧侶を招いて練り歩き、供養したと伝わっています。現在も大仏の背後には、大黒屋(福田家)代々の墓所があります。
しかしなぜ、こんなに小さな大仏が鉄道の駅名になっているのでしょうか。それにはちょっとした事情があります。
新京成線は大正から昭和の初めにかけ、旧日本陸軍の鉄道連隊が敷設した演習線が戦後になって払い下げられ、1947年から1955年にかけて開業した路線です。旧演習線は訓練のため、わざと曲がりくねった線形で敷設されていたために列車の運行には支障が多く、民間転用された際に急カーブを減らすように線形を改めました。
旧演習線から大きく線形が変わったところが、鎌ヶ谷大仏駅を含む初富駅~二和向台駅の区間。ここは、かつて鎌ケ谷の中心部であった鎌ケ谷宿の南方を大きく迂回した形になっていました(鎌ヶ谷大仏駅と東武野田線馬込沢駅の間にある新山公園に旧演習線の橋脚が残る)。
利用客が見込める鎌ケ谷の旧市街地を避け、大きく迂回しているままでは民間の鉄道路線として良くありません。そこでこの区間をなるべく直線的に結び、旧市街地である現在の鎌ケ谷1丁目に駅を作ることとなりました。
ここで問題となったのが駅名です。というのも、1923年に東武野田線(当時の北総鉄道船橋線)の駅として鎌ケ谷の道野辺に「鎌ヶ谷駅」が開業していたから。両駅は直線距離で2kmほど離れており、同一の駅名では利用客が混乱します。
通常ならば、後からできた駅の方に「新」をつけて駅名の重複を回避する方法をとりますが、今回新しく駅ができるのは初代の鎌ケ谷村役場も置かれたという鎌ケ谷の「旧」市街地。鎌ヶ谷駅周辺よりはるかに長い歴史があります。
新京成電鉄としては、この難問を解決するため、江戸時代から鎌ケ谷名物となっていた鎌ケ谷大仏を駅名に採用したようです。大仏にしてみれば、駅名に採用されたおかげで「大きな仏像がある」と勘違いされ、現物を前にして「うわ、小っさ」と言われるのは、いい迷惑かもしれませんね。
鎌ケ谷大仏は1972年に鎌ケ谷市の文化財に指定され、この墓地も「大仏墓地」の通称で呼ばれています。墓地前のバス停は、駅が目の前にあるのに「鎌ケ谷大仏」ですし、墓地の隣にある交番も「鎌ヶ谷大仏交番(小さい「ヶ」を使用)」と、駅前施設にありがちな「~駅前」といった名称は使われていません。大仏に敬意を払っているのかもしれませんね。
この大仏墓地には、戊辰戦争で戦死した官軍(旧佐土原藩士)を千葉県が弔った墓もあり、こちらも鎌ケ谷市の文化財となっています。筆者は佐土原藩の隣にある飫肥藩の出身なので、思いがけない偶然に驚きました。
先祖を敬う心から造立され、約250年も墓所を守り続けている鎌ケ谷大仏。大仏としては最小クラスですが、個人の信心が表れたものと考えれば、けして小さくはないのかもしれません。
(取材・撮影:咲村珠樹)