生きている脳細胞がロボットを動かしました。
オーストラリアのコーティカル・ラボ(Cortical Labs)などで行われた研究によって、人間の血液から育てた脳細胞をコンピューターにつないで仮想の部屋でにおいを頼りに餌を探させると、同じ回数の挑戦ではシリコン製のAIより高い成績を出すことが明らかになりました。
また興味深いことに、同じ回数の挑戦でも、休憩を挟んで何回かに分けたほうが成績が伸びることも示されました。
さらに同社は、この細胞の発火で実物のロボット犬を動かすデモも公開しています。
チップ上の脳細胞は、どうやって「前へ進め」という指示を出しているのでしょうか。
研究内容の詳細は2026年5月にプレプリントサーバーである『arXiv』にて公開され(最新版は10月2日)、AI分野の国際会議『NeurIPS 2026』で発表されます。
チップ上の脳細胞は、アメとムチで覚える

いまのAIは、電気を大量に食べます。
最新のモデルを動かすデータセンターの消費電力は増え続けており、このまま規模だけを広げるのは持続可能ではないと指摘されています。
ところが、AIに劣らず複雑な処理を、私たちの脳は10〜20ワットでやってのけます。
電球を1個点けるのとそう変わりません。

しかも脳は、初めて出会う状況にその場で適応します。
この差を前にして、一部の研究者はこう考えました。
脳を真似たチップを作るのではなく、本物の神経細胞そのものに計算させればいい、と。
コーティカル・ラボが2022年に発表した「ディッシュブレイン(DishBrain)」は、その代表例でした。
培養皿の中の約80万個の神経細胞が卓球ゲーム「Pong」でラケットを動かし、5分ほどで腕を上げていく様子が報告されています。

この学習のカギはアメとムチでした。
ラケットがボールを打ち返せば、細胞には規則正しく整った刺激が届きます。
空振りすれば、規則のないランダムな刺激が届きます。
神経細胞は予測のつかない状況を嫌い、予測のつく状態に落ち着こうとする、というのが研究チームの出発点にある考え方です。
だから整った刺激はアメに、ランダムな刺激はムチになり、細胞は数分のうちにボールを打ち返す回数を増やしました。

その後継機が、今回使われたCL1です。
箱の中にはポンプや温度・ガスの調節装置があり、細胞を最長で半年ほど生かせるように設計されています。
中の細胞は、同社によれば、提供者の血液から作られたものです。
まず血液の細胞を、さまざまな細胞に育てられる「iPS細胞」という状態に戻します。
そこから神経細胞へと育て直します。

論文の図では、0日目にiPS細胞だったものが30日目に神経幹細胞になり、90日以上かけて成熟した神経細胞になっています。
細胞を動かすエネルギーは培養液の糖や栄養から、箱を動かすエネルギーはコンセントから来ています。

チップに載っているのは約20万個の神経細胞で、よく聞く「ミニ脳(オルガノイド)」のような立体の塊ではなく、60個の電極の上に平らに広がった薄い層です。
新しい研究では、仮想の部屋で餌を探すゲームを使い、神経細胞が最もよく学習する電気刺激のパターンを見つけ出しました。

コンピューターは、餌のある方向を仮想の「におい」として用意し、電気刺激の頻度に変えて細胞に伝えます。
細胞が電気信号を出す「発火」を3つの場所で読み取り、いちばん活発に反応した場所に応じて「前進・左・右」を選びます。
うまく進めたかどうかは、Pongと同じアメとムチの刺激で細胞に返しました。

すると1回30手のプレイで比べた場合、細胞の成績に追いつくために、試行錯誤で学ぶAI(深層強化学習のDQN)は細胞の4倍以上の回数を必要とすることがわかりました。
そして、実験からはもうひとつ、思いがけない結果が出ました。

仮想の部屋を150手ぶん歩かせるのに、2つのやり方が比べられていたのです。
ひとつは150手を一気に走らせる長距離走、もうひとつは30手を5回、あいだに2分の休憩をはさむ分割方式でした。
すると成績が高かったのは、休憩をはさんだほうであることがわかりました。

しかも最初の2回は成績がほとんど変わらず、伸び始めたのは3回目からでした。
続けて走らせるより、休ませたほうが学ぶ。
それはなぜなのか?

研究チームは、その場では終わらない、もっと長い時間をかけて進む適応が働き始めた可能性を挙げています。
細胞の変化が行動の改善に表れるまでには、少し時間がかかるのかもしれません。
では、細胞の発火で行き先を決めるこの仕組みを現実の世界に持ち出すと、何が起きるのでしょうか。
生きた神経細胞が、本物のロボット犬を導いた

論文とは別に、同社のデモ動画では、生きた神経細胞が、本物の四本脚のロボット犬の動きを導いています。
細胞がどのくらいの頻度で発火したかを読み取り、それをロボット犬への指令に変えて、狭い空間の中を動かしたのです。
細胞の発火を読み取った先が、画面の中の主人公ではなく実物の脚につながった――Pongでラケットを動かし、仮想の部屋で主人公を動かしてきた「発火を行動に変える出口」が、今回はロボット犬に接続されたわけです。

もっとも、信号を送ってくる脳細胞は、ロボット犬の頭の中に埋め込まれているわけではありません。
細胞が暮らしているのは、栄養液を循環させて温度を保つCL1という箱の中で、ロボット犬はこの箱とつながれた「体」として動いています。
ただし公開された資料からは、何回試して何回ゴールにたどり着いたか、ロボット犬側のセンサーの情報が細胞に返されていたかまでは分かりません。
それでも、画面の中のラケットと床の上の脚では、意味がまるで違います。
今回のゲームは、人間が決めた条件の中で進みます。
現実でロボットを役立てるには、床の滑りやすさや予想外の障害物にも対応しなければなりません。

同社の共同創業者でCEOのブレット・ケーガン(Brett Kagan)氏は、ロボットが障害物にぶつからずに進むことや、目的地までの道を探すことは、いまも研究が必要な課題だと指摘しています。
そのうえで次のように述べています。
「生物学とAIはそれぞれ異なる強みを持っています。生物学は、リアルタイムで世界に適応し、対応できるように進化してきたのです」
同社の創業者ホン・ウェン・チョン(Hon Weng Chong)氏も、ロボットのように現実の世界で体を動かすAI(フィジカルAI)を、生きた細胞の活躍の場とみています。
ねらいは、生きた神経細胞の助けを借りて、こうした機械がずっと少ない学習データで賢くなれるかを確かめることです。
生きた細胞は使う電力も小さいため、バッテリーの持ちが命綱になるロボットには大きな利点になりうると、同社は述べています。
チョン氏によれば、ホンダ・リサーチ・インスティテュート・ヨーロッパとの共同研究も、初期の試験から第2段階の研究に進んでいます。

生きた細胞をロボットの「判断役」に使う試みは、今回が初めてではありません。
2000年代初め、アメリカのジョージア工科大学のスティーブ・ポッター氏らは、60個の電極を持つチップの上でネズミの神経細胞を育て、その信号を無線で送って車輪つきのロボットを動かしました(ハイブロット)。
それから20年余りで、同じ発想が、人間の血液から作った神経細胞と四本脚のロボット犬にまで進んだことになります。
もしかしたら未来のヒト型ロボットには、シリコンのAIと生きた細胞の「バイオAI」が、一緒に組み込まれるかもしれません。
専門家向けの補足
今回の研究の核心は、生きた神経細胞の適応を、目的に沿った行動へどう結びつけるかにあります。研究者は、縦横6マスの仮想空間で餌の方向を電気刺激の頻度へ変え、細胞が出す電気信号、つまり「発火」から前進・左右の旋回を選び、その結果を刺激として返しました。細胞とコンピューターの間に、情報と行動が循環する関係をつくったのです。
実験では、別々に育てた26の細胞集団を使い、1296通りの刺激条件から、安定した学習が見られる12通りを選びました。ただし各試行の中では、情報を刺激に変える規則も、発火を行動に変える規則も固定されています。良い条件では、経験を重ねるにつれて餌の方向に合う行動が増えました。細胞を除いた対照条件との差も、細胞側が課題に適応したという解釈を支えます。ここでいう学習は、課題に合う行動が増えたことを指し、どの生物学的な変化が改善をもたらしたかまでは特定していません。
さらに、成績の低い刺激条件では、方向と行動の対応がむしろ弱まりました。細胞が経験によって変化することと、その変化が目的に役立つことは、区別する必要があります。生物の柔軟さを計算に生かすには、情報の渡し方と反応の受け取り方を設計する必要がある、というのが本研究から読み取れる意味です。ただし、方向を伝える刺激と行動結果を返す刺激は、強さなど一部の設定を共用しています。そこを変更すると両方の刺激が変わるため、それぞれが改善にどれだけ寄与したかは切り分けられていません。
AIとの比較で示されたのは、限られた経験回数でどこまで成績を上げられるかです。比較したDQNは、報酬を手がかりに行動を学ぶ小規模なAIです。一つの行動とその結果を一度ずつ学習に使う設定にし、環境で行動する回数も細胞側とそろえました。約9500通りの設定を試して調整したうえで、1回30行動のプレイを比べると、細胞が5回で得た成績に追いつくには、DQNは細胞の4倍以上のプレイ回数を必要としました。これは、この課題と学習条件での有利さです。最終的な到達性能や、経過時間・消費エネルギーの優劣を示すものではなく、細胞の培養や両者の条件探索にかかる費用も比較に含まれていません。
休憩の結果にも、時間に関する興味深い問いがあります。150回の行動を連続して行う条件より、30回ずつ5回に分けて2分間の休止を挟む条件で成績が高く、改善は後半に現れました。ただし、比較には別々に育てた細胞集団を5つずつ用い、分割時には仮想環境もリセットされます。休憩だけの効果は分離できていません。著者らは、時間をかけて進む適応の可能性を挙げますが、先に試した別の刺激条件の影響が、次の試行に残っていた可能性も認めています。改善を生む変化がどれほど続き、休止が何をしているのかが、次の検証課題です。
実用化への距離を考える際には、仮想課題とロボット犬の実演を分けて見る必要があります。論文で検証された入力は、餌の方向を表す単純な数値です。映像や刻々と変わる複数の感覚情報に対応できるかは未確認です。ロボット犬の実演は、細胞の信号を実機の動きへ結びつける例ですが、公開情報から、実環境で経験を重ねて成績が向上したとまでは評価できません。
省電力については、細胞の維持と信号のやり取りを支えるCL1の消費電力が、通常負荷での測定で中央値22.7ワットでした。ただし、同じ課題を同じ成績で処理したデジタル機との総エネルギー比較は行われていません。利点が装置全体でも残るかどうかを確かめる必要があります。
設計の面で次につながるのは、選ばれた刺激条件を別の細胞集団に適用しても、学習が再現された点です。これは、細胞の適応を引き出す方法を共有する手がかりになります。生きた細胞の柔軟さを、入力・出力・経験の与え方という、検証できる設計の問題として示した点に、本研究の価値があります。
元論文
Embodied Neurocomputation: A Framework for Interfacing Biological Neural Cultures with Scaled Task-Driven Validation
https://doi.org/10.48550/arXiv.2605.13315
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部
