壁に貼った料理メモが落ち、拾って貼り直したら、手順がちぐはぐな順番になっていました。
誰にも読めない文字で書かれた中世の本「ヴォイニッチ手稿」は、100年以上も解読を拒んできました。
暗号の専門家や言語学者が挑み続けても、何が書かれているのかはいまも分かっていません。
ところが研究者たちは、この本には文字の謎とは別の「おかしな点」があると指摘しています。
ページをまたぐ挿絵や筆跡の並びに残されたその手がかりは、何を物語っているのでしょうか。
研究の詳細は、マルタのマルタ大学らにより、2026年1月1日付で学術誌『Digital Medievalist』に掲載されました。
誰にも読めない文字で埋まった240ページ

ヴォイニッチ手稿は、羊皮紙(動物の皮を薄くした紙)を綴じた中世の本です。
材料の羊皮紙は、年代測定で15世紀初めのものとされています。
全240ページには、ほかに例のない「ヴォイニッチ文字」が約3万8000語分も並んでいます。
そのあいだには、人物や植物、占星術の記号などの絵がたくさん描かれています。
もとは神聖ローマ皇帝の持ち物で、1912年にウィルフリッド・ヴォイニッチが買い取りました。
1969年からは、米イェール大学の貴重書図書館に収められています。

研究に加わった米国中世アカデミーのリサ・ファギン・デイヴィス氏は、「暗号なのかどうかも分からない」と話します。
そのうえで同氏は、この手稿には物としてのつくりに奇妙な特徴があると指摘します。
それを知るには、まず中世の本の作り方を押さえておく必要があります。
当時の本は、長方形の羊皮紙を半分に折った紙(二つ折り紙葉)を単位にしていました。
この二つ折りの紙をふつうは5枚ほど入れ子に重ね、ひとまとまり(折丁)にします。
その折丁を積み重ねて背で縫い合わせると、1冊の本になります。

入れ子にするため、真ん中の1枚を除けば、1枚の紙の左半分と右半分は本の中では離れたページになります。
また、文字や絵は、紙を入れ子に重ねてから書き入れるのがふつうだと考えられています。
デイヴィス氏は手稿の書き手の人数を調べるうちに、筆跡の入れ替わり方が不自然なことに気づきました。
さらに、絵がページの途中で途切れ、何枚もページを挟んだ先で続きが現れる例もいくつかあったのです。
挿絵・筆跡・文章が示した「本来の形」とは?

この違和感を確かめるため、デイヴィス氏はマルタ大学で情報システムを研究するコリン・レイフィールド氏と組みました。
まず目に見える手がかりが、綴じ目をまたぐ挿絵です。
第78葉の裏(78v)には、綴じ目寄りの余白に2本の流れが描かれています。
この流れは綴じ目を越え、同じ1枚の紙のもう半分にあたる第81葉の表(81r)の余白から現れます。

ところが、いまの綴じ方では、この2ページのあいだに何枚ものページが挟まっています。
論文は、ほかにも青い花びらや緑の葉のかけら、女性の像(ニンフ)の右腕などが、同じように離れた片割れのページへ続いている例を挙げています。
論文は、手稿に残るこうした証拠が、紙を入れ子にしてから書き入れるというふつうの作り方の順番と食い違うとしています。
つまりこの絵は、紙が入れ子にされる前、1枚の紙を広げた状態で描かれたと考えられます。
次の手がかりは筆跡です。
現存する52枚の二つ折りの紙は、2枚を除いて、表裏のすべてのページを同じ書き手が書いていました。
たとえば植物の絵が並ぶ第4折丁は、4枚の紙を入れ子にしたものです。
そのうち外側から2枚目の紙だけは、別の書き手がすべてのページを書いていました。

1つの束の中に、書き手の違う紙が入れ子で混ざっているのです。
論文はこれを前例のない構造とし、紙を重ねる前に文字も絵も仕上がっていた証拠のひとつとみています。
さらに、レイフィールド氏は文章そのものの似かたを調べました。
使ったのは、1980年代後半に生まれた、文章に隠れた共通点を探す手法(潜在意味解析)です。
この手法は少ないデータでも使えるため、膨大な文章を必要とする最新のAIより向いているといいます。
比べたのは、1枚の紙の表と裏、本を開いたときの左右のページ、そして二つ折りの紙の片割れどうしです。
比較のため、正しく綴じられた中世の写本『アバディーン動物寓意譚』と『人間救済の鑑』でも同じ計算をしました。
この2冊では、表と裏、左右のページがよく似ていて、離れた片割れどうしは似かたが弱くなりました。
続けて読むページほど言葉が似るので、これは予想どおりの結果です。

ところがヴォイニッチ手稿では、本を開いたときの左右のページが、3つの中でいちばん似ていない傾向にありました。
逆に、表と裏、そして離れているはずの片割れどうしのほうが、よく似ていたのです。
表と裏、片割れの関係は紙そのもので決まりますが、左右の並びは綴じ方しだいで変わります。
綴じ方で決まる左右のページの組み合わせだけが傾向から外れていることについて、研究チームは、紙の並びが狂っているためだと説明できるとみています。
こうした手がかりから2人は、この手稿はもともと入れ子にする本ではなかったと考えています。
二つ折りの紙を1枚ずつ順に重ね、それぞれの4ページを続けて読む作り(シンギュリオン)だったというのです。
綴じ間違いはいつ起き、並べ直せるのか

では、ページの並びが狂ったのはいつなのでしょうか。
手稿の折丁は、二つ折りの紙が1枚のものから、かつて7枚あったものまでばらばらで、これ自体が珍しい作りです。
米イェール大学の保存担当者の調査では、縫い直した跡はなく、最初の縫い糸は1400〜1500年ごろのものとされました。
絵の具が向かいのページにこすれて移った跡からも、いまの並びのまま何百年もたっていることが分かります。
表紙の跡も、15世紀とみられる木の表紙と、19世紀とみられるいまの柔らかい皮の表紙だけです。

このことから研究チームは、15世紀に最初に綴じたときこそが綴じ間違いだったと結論づけました。
綴じた人は、中身を読めないまま紙を重ねてしまったとみられます。
デイヴィス氏は、この見方に立てば、書き手が1枚ずつ分かれる謎も、絵が綴じ目をまたぐ謎も解けると話します。

ただし、今回の研究で手稿が読めるようになったわけではありません。
同氏も、解読にたどり着いたわけではないとしつつ、ページが混ざった本では意味を取れないので一歩前進だと述べています。
一方で、いまの並びを正しいとみなしてきたこれまでの研究は、見直しが必要になるといいます。
また、ページの順番が狂っているという指摘自体は、今回が初めてではありません。
文章の分析についても、論文は並びの狂いを「考えられる説明のひとつ」と位置づけています。
本来の並びがどうだったのかも、まだ仮説の段階です。
研究チームは試しに、浴場の章(5枚)と星の章(6枚)について紙の並べ方を全通り(120通りと720通り)計算し、文章のつながりがいちばん自然になる順番を探しています。

その手がかりとして2人が注目するのが、一部のページの上の余白に残る大きな水染みです。
本来の見開きなら染みは左右対称になるはずですが、実際にはそうなっていません。
2人は、ページごとに染みの形を比べ、元の順番に並べ直す方法を考えています。
デイヴィス氏が解読に希望を持つ理由のひとつは、「ケインの顎骨」というパズルです。
1930年代に作られた、殺人ミステリー100ページ分を正しくない順番に並べた難問です。
AIでも解けなかったこのパズルを、ひと握りの人々が解き明かしました。
綴じ目を越えて流れる2本の流れの絵は、紙が入れ子にされる前に描かれたことを示唆する手がかりとして、いまも静かに残っているのです。
読めない本を綴じる係を任された職人さんも、内心では「これで合ってるのかな」とつぶやいていたのかもしれません。
ここからは、ヴォイニッチ手稿をもっと知りたい人へ
ヴォイニッチ手稿とは、読み方の分からない文字とふしぎな絵で埋まった、中世の手書きの本です

ヴォイニッチ手稿は、縦23.5cm、横16.2cm、厚さ5cmの手書きの本で、文字も絵の輪郭も羽根ペンとインクで書かれています。
文字は左から右へ読み、20〜25種類ほどでほぼすべての文章が書けていて、はっきりした句読点は見当たりません。

絵に目を移すと、所蔵する図書館は中身を、植物、天文と占星術、入浴の場面、宇宙をかたどった円形の図、薬草や根、そして絵のない文章(処方かもしれません)の部分に分けています。
いちばん多いのは植物の絵で、全体の7割ほどを占めますが、実在のどの植物なのかはほとんど分かっていません。
星座の絵では、射手座がケンタウロスではなく、クロスボウ(弓の一種)を持った人間として描かれています。

第85葉から第86葉は6ページ分の羊皮紙を折りたたんだ作りで、その内側には大きな円形の図が9つつながって描かれています。

ほかにも、管でつながったプールや浴槽のようなものに女性が浸かる、ふしぎな絵があります。

次に持ち主をたどると、表紙の中から見つかった手紙に、ルドルフ2世がこの手稿を600ドゥカートで買ったという話が残っています。

書き手についても、ロジャー・ベーコンやジョン・ディーの名が挙がり、ヴォイニッチ自身のいたずらだという説まであります。
手稿は薬剤師ヤコブス・ホルチツキー・デ・テペネツの蔵書にも入り、のちに、あの手紙の書き手ヨハネス・マルクス・マルチが1666年に学者アタナシウス・キルヒャーへ送りました。

1912年にヴォイニッチが手稿を買ったのは、ローマ近くのフラスカティにあるイエズス会の学院からでした。
ヴォイニッチの死後は妻エセルが受け継ぎ、その遺言で、夫妻の友人で助手だったアン・ニルの手に渡りました。
ニルは1961年に書店主ハンス・P・クラウスへ売り、クラウスがイェール大学に寄贈して、手稿は「MS 408」として収められました。
図書館に入ってから手稿が建物を出たのは、2014〜15年にフォルジャー・シェイクスピア図書館で開かれた暗号の展覧会の1回だけです。

解読の挑戦に目を向けると、アルバータ大学のチームはAIで手稿の言語をヘブライ語と推定しましたが、単語の80%以上が辞書に載っていても、つなげて意味が通るかは分かりませんでした。
2019年には英ブリストル大学が、所属研究者のジェラルド・チェシャー氏が文字を「書道的な原ロマンス語」として解読したとする発表を取り下げました。
ナゾロジーの関連記事ヴォイニッチ手稿が英国の言語学者によって解読される! 「亡国の王妃の参考資料」説が浮上
マイケル・グレシュコ氏の「ナイッベ暗号」も解読ではなく、ラテン語やイタリア語の文章を手稿に似た暗号文に変える方法で、それでも手稿の一部の特徴は再現しきれませんでした。
ナゾロジーの関連記事ヴォイニッチ手稿は「暗号」で書かれた可能性が浮上
デイヴィス氏は、解読と認めるには、確かな出発点、他人による再現、言語と写本の事実との一致、意味の通る文章、文章と絵の筋の通った対応の5つが要るとし、すべてを満たした人はまだいないと話しています。
写真で見る、読めない文字と絵が並ぶページ



参考文献
Undeciphered Voynich manuscript may have been bound out of order, study finds (Live Science)
https://www.livescience.com/archaeology/undeciphered-voynich-manuscript-may-have-been-bound-out-of-order-study-finds
コトバンク「折丁」
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%98%E4%B8%81
イェール大学バイネキ稀覯本・手稿図書館「Voynich Manuscript」
https://beinecke.library.yale.edu/collections/highlights/voynich-manuscript
Sci.News「Historically Plausible Cipher Recreates Statistical Signature of Voynich Manuscript」
https://www.sci.news/othersciences/linguistics/voynich-manuscript-cipher-14466.html
Ars Technica「No, someone hasn’t cracked the code of the mysterious Voynich manuscript」
https://arstechnica.com/science/2019/05/no-someone-hasnt-cracked-the-code-of-the-mysterious-voynich-manuscript/
Inquirer Technology「AI may have decoded mysterious 600-year-old manuscript」
https://technology.inquirer.net/71876/ai-may-decoded-mysterious-600-year-old-manuscript
元論文
Singulion Structure and the Voynich Manuscript
https://doi.org/10.4000/16k0a
ライター
山下 浩介: むずかしい研究を、なるべく分かりやすく伝えたい。専門の言葉はふだんの言葉に置きかえて、身近な例で例える。それで「わかった」「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいです。
好きなのは、通学路や台所や日常の中にある科学。眠っているあいだに記憶が整理される話や、虫の鳴き方に意味がある話のように、読み終わったあとに誰かへ話したくなる研究を探しています。
編集者
ナゾロジー 編集部
