仕事や勉強で頭がパンクしそうになったとき、自然の中を歩くだけで気分が軽くなり、考えがまとまりやすくなった経験はないでしょうか。
木々を眺めたり、風を感じたり、鳥の声を聞いたりしたあとに、さっきまで行き詰まっていた問題へのアイデアが突然浮かぶこともあります。
単なる気分転換のようにも思えますが、近年の研究では、自然環境そのものが私たちの注意力やストレス、認知機能に影響を与えている可能性が示されています。
そのカギの1つと考えられているのが、自然が私たちの注意を「強く要求することなく、穏やかに引きつける」という性質です。
現代の脳は、メールや通知、仕事、交通、広告などに囲まれ、絶えず注意を振り向けることを求められています。
では、なぜ木々や空を眺めるだけで、こうした疲れた脳が「スッキリした」と感じるのでしょうか。
目次
- 自然の中を歩くと「注意力」「記憶力」が回復
- 自然は、脳に「集中しろ」と要求してこない
- 自然の効果は「気分」だけでなく、体にも及ぶ可能性
自然の中を歩くと「注意力」「記憶力」が回復
自然が脳に及ぼす影響を研究してきた代表的な研究者の1人が、マーク・G・バーマン(Marc G. Berman)氏です。
バーマン氏らが行った有名な実験では、参加者にまず「数字逆唱課題」と呼ばれる認知テストを受けてもらいました。
これは、いくつかの数字を聞いたあと、その並びを逆から答えるというもので、注意力やワーキングメモリを必要とする課題です。
その後、参加者は約1時間の散歩に出かけました。
一方の条件では、川沿いに常緑樹が続く樹木園の中を歩きます。
もう一方では、店や交差点、人や車などの多い都市部の中を歩きました。
散歩を終えて再び同じ認知テストを受けると、自然の中を歩いたあとのほうが成績が改善していました。
一方、都市部を歩いたあとでは、同じような改善は確認されませんでした。
さらに研究者たちは参加者のルートを入れ替え、同じ人物に自然環境と都市環境の両方を経験させましたが、結果の傾向は変わりませんでした。
歩いている時間も、歩くという行為もほぼ同じです。
大きく違っていたのは、周囲の環境でした。
では、なぜ自然環境では認知機能が回復したのでしょうか。
その説明として提案されているのが「注意回復理論(Attention Restoration Theory:ART)」です。
私たちは普段、目的に合わせて意識的に注意を向け続けています。
メールを読むときには周囲の雑音を無視し、車を運転するときには信号や歩行者を見落とさず、仕事中には通知を気にしながら締め切りも覚えておかなければなりません。
こうした「意図的な注意」は無限に使えるわけではなく、使い続ければ疲れていくと考えられています。
特に都市環境には、交通、標識、人混み、広告、危険など、「見逃してはいけない刺激」が大量に存在します。
つまり街を歩いているだけでも、脳はかなり忙しいのです。
自然は、脳に「集中しろ」と要求してこない
これに対して、自然はまったく違った形で私たちの注意を引きつけます。
風に揺れる葉や、流れていく雲、小川の水、遠くから聞こえる鳥の声などには、自然と目や耳が向きます。
しかし、それらを注意深く監視していなければ危険になるわけではありません。
研究者たちは、こうした自然による穏やかな注意の引きつけ方を「穏やかな魅了(soft fascination)」と表現しています。
興味を引くには十分ですが、強い集中を必要としない刺激です。
そのため自然の中では、普段酷使している意図的な注意をしばらく休ませられる可能性があります。
この考え方に従えば、仕事に行き詰まったときに公園を歩いたあと頭がスッキリするのは、単に「楽しかったから」だけではありません。
注意を制御する仕組みそのものが、休息する時間を得ている可能性があるのです。
ここで興味深いのは、スマートフォンで面白い動画やSNSを眺めることとは必ずしも同じではない点です。
どちらも仕事から離れるという意味では休憩ですが、スマートフォンには次々と新しい情報や通知が現れ、私たちの注意を強く引きつけ続けます。
一方で自然は、こちらに何かを判断したり操作したりするよう要求せず、穏やかに注意を引きつけます。
その違いが、脳の回復に関係しているのかもしれません。
さらに最近では、自然の「見た目」そのものにも秘密があるのではないかと考えられています。
人工的な都市環境には、直線や鋭い角、規則的な形が多く含まれます。
一方、自然の中には曲線や不規則な形、複雑な模様が多く存在します。
木の枝分かれや葉脈、海岸線などでは、異なる大きさでも似た構造が繰り返される「フラクタル」と呼ばれるパターンも見られます。
自然の画像を見ると気分が良くなるという研究結果もありますが、単に自然を「好きだから」認知機能が改善するわけではない可能性があります。
バーマン氏らの研究では、自然の散歩をどれほど楽しんだかと認知機能の改善が必ずしも一致していませんでした。
つまり自然環境を脳が処理する方法そのものに、何らかの特徴がある可能性があるのです。
自然の効果は「気分」だけでなく、体にも及ぶ可能性
自然の影響は、注意力だけにとどまらない可能性があります。
日本では以前から「森林浴」が知られています。
森林浴とは激しい運動や登山をすることではなく、森林の中に身を置き、景色や音、香り、風や空気などを五感で感じながら過ごすことを指します。
これまでの研究では、森林環境への曝露が、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下や自律神経活動の変化、気分の改善などと関連することが報告されています。
また、免疫機能に関する指標が変化したとする研究もあります。
その仕組みを説明する仮説の1つとして注目されているのが、木々から放出される揮発性有機化合物「フィトンチッド」です。
小規模なヒト研究や実験室での研究では、フィトンチッドがナチュラルキラー細胞の活動などに関係する可能性が示されています。
ただし、自然が人体にもたらす効果すべてをフィトンチッドだけで説明できるわけではありません。
自然環境には、光、音、温度、匂い、視覚的なパターンなど、多数の要素が同時に存在するからです。
現在ではfMRIや脳波などを使い、自然環境と都市環境を見たときに、脳の注意、ストレス、感情、自己に関する思考などに関係するネットワークがどのように変化するのかを調べる研究も進んでいます。
こうした研究分野は「環境神経科学(environmental neuroscience)」と呼ばれます。
これまで神経科学では、「脳の中で何が起きているのか」が研究の中心でした。
しかし実際の脳は、常に何らかの環境の中で活動しています。
同じ人間でも、静かな森林の中にいる場合と、人や車、広告、通知に囲まれている場合では、脳に入ってくる情報がまったく違います。
そう考えると、私たちが生活する街や職場、学校、公園などの環境は、単なる背景とはいえません。
脳がどのような状態で働くのかを左右する「生物学的な条件」の一部でもあるのです。
パソコンの前で何時間考えても答えが出ないとき、外へ出ることは仕事から逃げる行為に見えるかもしれません。
しかし、木々や空を眺めながら歩く時間は、疲れた注意力を休ませ、再び集中できる状態へ戻すための時間になっている可能性があります。
「頭が疲れたから、少し自然の中を歩きたい」という感覚は、単なる気分の問題ではないのかもしれません。
脳の健康を考えるうえで重要なのは、脳に何をさせるかだけではありません。
その脳を、普段どのような環境の中で働かせているのかという視点も、これからますます重要になっていきそうです。
参考文献
Why Your Brain Needs Nature
https://www.psychologytoday.com/us/blog/breaking-good/202608/why-your-brain-needs-nature
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部
