包帯に巻かれ、数千年もの時を超えて残る古代エジプトのミイラ。
その姿は世界中の人々に知られていますが、古代のミイラ職人たちが遺体をどのような手順で処理していたのかについては、意外なほど詳しい記録が残されていませんでした。
そこで1994年、エジプト学者と解剖学者が、科学研究のために提供された現代人の遺体を使い、古代エジプトのミイラ製作を再現するという異例の実験に挑戦。
古代の道具を模した刃物を使い、鼻から脳を取り出し、天然の塩類であるナトロンを大量にかぶせて遺体を乾燥させたのです。
すると、わずか5週間後には、遺体が古代エジプトのファラオを思わせる姿へと変化しました。
この実験は、ミイラ特有の外見が生まれる仕組みだけでなく、脳の取り出し方や、内臓を保存用の壺に入れられた理由など、長年の疑問を解く手がかりになりました。
一方で、献体された遺体をこのような実験に使用することの是非をめぐり、強い批判も起きています。
目次
- 古代エジプトの方法で、現代人の遺体をミイラ化
- 大量のナトロンで遺体から水分を抜く
- わずか5週間で「ファラオのような姿」に変化
古代エジプトの方法で、現代人の遺体をミイラ化
実験を行ったのは、エジプト学者のボブ・ブライアー(Bob Brier)と、解剖学者のロン・ウェイド(Ronn Wade)です。
ウェイドはベトナム戦争で衛生兵として勤務した後に解剖学者となり、米メリーランド州の解剖委員会で責任者を務めていました。
一方のブライアーは解剖学の訓練も受けていましたが、主な専門は古代エジプトでした。
2人が実験に使用したのは、米国ボルティモアで科学研究のために献体された、心臓発作で亡くなった76歳の男性です。
男性の詳しい身元は公表されていません。
ウェイドは英語の「embalm」、つまり「遺体に防腐処理を施す」という言葉にかけて、男性を「E・M・バーム」と呼んでいました。
【ミイラ化実験に関する一連の画像はこちらからご覧いただけます】
2人はできる限り古代の方法を再現するため、ファラオ時代の道具や材料を模した品を準備しました。
使用したのは、亜麻布の包帯、幅の広い木製の作業台、銅や黒曜石で作った刃物などです。
ただし銅製の刃物は遺体の組織をうまく切れなかったため、実験の早い段階で使用を断念しました。
本番を始める前には、鼻から脳を取り出す方法も練習しています。
古代エジプトの防腐処理師は、鼻の穴から鉤状の棒を差し込み、脳を除去していたと考えられています。
しかし、詳しい手順までは記録されていませんでした。
2人は最初、棒を使って脳組織を直接すくい出そうとしました。
ところが、脳は非常に柔らかいため、棒に引っかけて取り出すことができませんでした。
そこで鼻から水を注ぎ、棒を使って脳組織をかき混ぜ、液状にする方法を試しました。
すると液状になった脳組織を、鼻から流し出すことができたのです。
これは、文献に残された簡単な記述だけでは分からなかった、具体的な作業方法を再現した重要な成果でした。
大量のナトロンで遺体から水分を抜く
1994年5月、2人は本格的なミイラ製作を開始しました。
最初に行ったのは、内臓の摘出です。
古代エジプトでは、脳は重要な臓器とは考えられず、多くの場合は取り除かれて捨てられていました。
一方、心臓は思考や感情、知性が宿る場所だと考えられていたため、体内に残されました。
ブライアーとウェイドもこの考え方に従い、心臓を残したまま、脾臓、肝臓、胆嚢、肺、腸などを摘出しました。
腹部に入れた切り込みは約9センチしかありませんでした。
その小さな穴から、大きな肝臓や肺、全長約6.7メートルの腸を取り出す必要がありました。
特に難しかったのは、体内が見えない状態で肺を心臓から切り離す作業だったといいます。
内臓を取り出した後、2人はヤシ酒と没薬で腹腔内を洗浄し、頭蓋骨の内部には乳香を詰めました。
これらの物質には死後の世界へ向かうための宗教的な意味がありました。
同時に、微生物の増殖を抑えたり、腐敗臭を隠したりする実用的な効果もあったと考えられています。
次に使用されたのが、ナトロンと呼ばれる天然の塩類です。
ナトロンには、遺体から水分を強力に吸い取る働きがあります。
細菌やウジ、甲虫などは、水分がほとんどない環境では活動できません。
そのため、遺体を十分に乾燥させれば、腐敗の進行を大きく抑えられます。
ブライアーは本物の材料を使うことにこだわり、エジプトで自らナトロンを採取しました。
研究室では、ナトロンを詰めた29個の亜麻布袋を、内臓を取り出した胴体の内部に入れました。
さらに約96キログラムのナトロンの上に遺体を横たえ、その上から約264キログラムをかぶせました。
部屋の温度は約40℃に設定され、除湿機も昼夜を問わず稼働させました。
エジプトの暑く乾燥した環境を、室内で再現したのです。
その後の5週間で、遺体の上に積まれたナトロンは体液を吸い込み、茶色く硬い塊になりました。
2人は鉄の棒を使い、固まったナトロンを割って遺体を掘り出しました。
わずか5週間で「ファラオのような姿」に変化
ナトロンの下から現れた遺体を見たブライアーは、その姿に驚きました。
皮膚は乾燥して縮み、顔や頭皮には深いしわが生じていました。
唇は後ろへ縮んで歯が露出し、皮膚は黄褐色に変化していました。
鼻は細くとがり、乾燥した髪が頭部からまばらに突き出ていました。
ブライアーによると、わずか5週間しか経過していないにもかかわらず、その姿はラムセス大王のミイラによく似ていたといいます。
それまでブライアーは、古代ミイラ特有の外見が、数千年にわたる経年変化によって生じた可能性も考えていました。
しかし今回の結果は、私たちがよく知るミイラの姿が、乾燥処理の直後からすでに形成されていたことを示しました。
つまり、ミイラを象徴する革のような皮膚や縮んだ顔は、長い年月だけで生まれたものではなく、ミイラ製作そのものによって生じていたのです。
脱水による変化は、外見だけではありませんでした。
処理前に約85キログラムあった遺体の体重は、5週間後には約36キログラムまで減少しました。
その後も乾燥を続けると、最終的には約23キログラムになりました。
手足は木の枝のように硬くなったため、2人はハス、スギ、ヤシの油を使って全身をマッサージしました。
この処理には宗教的な意味があるだけでなく、関節にある程度の柔軟性を戻し、遺体を扱いやすくする効果もありました。
その後、手足の指を1本ずつ亜麻布で包み、腕、脚、胴体へと包帯を巻いていきました。
布の層の間には、古代の方法にならって護符や呪文を書いたパピルスも挟まれました。
取り出した内臓も、ナトロンによって大幅に縮みました。
この現象は、古代エジプトのミイラをめぐる別の謎を説明しました。
古代エジプトでは、摘出した臓器をカノプス壺と呼ばれる容器に保存していました。
しかし、カノプス壺の口は細いため、大きな肝臓や肺をどのように入れたのかが疑問視されていました。
今回の実験により、内臓は乾燥すると、細い壺の口から入れられるほど縮むことが確認されたのです。
また、古代の防腐処理台が約1.2メートルもの幅を持っていた理由も説明できました。
遺体の周囲に大量のナトロンを積み上げるには、通常よりも幅の広い台が必要だったのです。
完成したミイラは、その後約30年間にわたり、メリーランド州の金属製の棺の中で室温保存されています。
腐敗していないか確認するため、これまでに2度、包帯の一部が外されましたが、特に異常は見つかりませんでした。
この実験は、古代エジプトの技術が、現代の設備を使わなくても遺体を長期間保存できるほど効果的だったことを示しています。
倫理的な批判も
一方で、この試みは強い批判も受けました。
科学研究のために遺体を提供することが、研究者の考えたあらゆる実験への同意を意味するわけではないという指摘です。
ブライアーとウェイドは、遺体を粗末に扱ったわけではなく、古代の王と同じように丁重に扱ったと説明しています。
それでも、献体した本人がミイラ化まで想定していたかどうかは分からず、実験の科学的価値と、死者の尊厳や同意をどのように両立させるかという問題は残ります。
古代エジプトのミイラ製作は、死後の世界を信じる宗教的な儀式でした。
しかし今回の再現実験から見えてきたのは、そこに極めて現実的な保存技術が組み込まれていたことです。
内臓を取り出し、香料や酒で洗浄し、大量のナトロンで徹底的に水分を奪うことで、腐敗を引き起こす微生物や昆虫の活動を封じていました。
古代の防腐処理師たちは、微生物や化学反応について現代的な知識を持っていたわけではありません。
それでも長年の経験を通して、遺体を数千年後まで残し得る方法にたどり着いていたのです。
現代人をミイラ化したこの異例の実験は、古代エジプト人の技術力を明らかにすると同時に、科学のためにどこまで人間の遺体を利用してよいのかという、現代的な問いも私たちに突きつけています。
参考文献
‘He looked like Ramses the Great’: How experimental archaeologists used ancient techniques to mummify a modern-day person
https://www.livescience.com/archaeology/ancient-egyptians/he-looked-like-ramses-the-great-how-experimental-archaeologists-used-ancient-techniques-to-mummify-a-modern-day-person
They mummified a modern human with ancient tools. It got messy.
https://www.nationalgeographic.com/history/article/sam-kean-book-dinner-with-king-tut-modern-mummy-ancient-egypt
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部
