私たちは常日頃、「なりたい自分」の姿を思い描いています。
「もっと社交的に、明るく生きたい」
「自分の意見を堂々と言えるような人間になりたい」
「すぐにカッとしてしまうので、穏やかで落ち着いた考えのできる大人になりたい」
そう心に強く願いながらも、なかなか一歩を踏み出せない人、あるいは踏み出し方がわからない人は少なくないでしょう。
しかし、偉大なる芸術家サルバドール・ダリ(1904〜1989)は、その方法を知っていました。
それはひとことで言えば、なりたい自分を“演じる”ことで、理想の自分に近づく心理的テクニックです。
オックスフォード大学で哲学の教鞭をとり、現在は作家として活動するジョニー・トムソン氏は、ダリの実践した「なりたい自分になるための裏技」を指して、「ダリ・トリック(The Dalí trick)」と呼んでいます。
では、ダリ・トリックとは具体的に、どのような実践方法なのでしょうか?
目次
- 誰もが公の場では「何かを演じている」
- ダリは「天才ダリ」という仮面を演じていた
- 「なりきること」が「なりたい自分」への近道
誰もが公の場では「何かを演じている」
私たちは場面によって、自然と違う顔を使い分けています。
職場での自分、家族の前での自分、友人といるときの自分、初対面の人と話すときの自分は、どれも少しずつ違うはずです。
この違いを「本当の自分ではない」と感じる人もいるでしょう。
しかし、社会学者のアーヴィング・ゴッフマン氏は「そもそも公の場での生活は、ほぼすべて演技に近いものだ」と考えました。
誰かに見られた瞬間、私たちは完全な一人きりの存在ではなくなります。
相手の前に現れる「一人の人物」として振る舞いはじめるのです。
たとえば教師は教師らしく、店員は店員らしく、上司は上司らしく、友人は友人らしく振る舞います。
そこには言葉づかい、姿勢、表情、服装、沈黙の仕方まで含まれています。
つまり私たちは、社会の中で生きているかぎり、何らかの役割を演じることを避けられません。
しかし、問題は「仮面をかぶっているから偽物だ」ということではありません。
問題は、その仮面を無意識に選ばされているのか、それとも自分で選んでいるのかです。
「自分らしさ」とは、何も飾らない状態のことだけではありません。
むしろ、どんな場面でどんな自分として振る舞いたいか、どの場面でどの仮面を選ぶかということも、自分らしさの一部なのです。
ダリは「天才ダリ」という仮面を演じていた
この“仮面を選ぶ力”をよく理解していた人物が、画家のサルバドール・ダリです。
ダリは、溶ける時計や脚の長い象などで知られるシュルレアリスムの巨匠です。
しかし彼が有名になった理由は、作品の力だけではありません。
彼自身が”天才サルバドール・ダリ”という奇抜なキャラクターを演じきったことも、大きな要因でした。
たとえば、ダリは自分のことを「私は〜」という一人称ではなく「ダリは〜」と三人称で語ることがありました。
これは単なる気取りにも見えます。
しかし見方を変えれば、彼は日常の自分から少し距離を置き、「天才ダリ」という別人格を意識して身につけていたとも言えます。
普通の人間としてのダリは、朝起きて、ニュースを読み、コーヒーを飲み、仕事に向かう一人の人間だったはずです。
しかし人前に出るときの「ダリ」は、風変わりな口ひげを持ち、奇妙な表情を作り、ミューズに取り憑かれた天才芸術家として振る舞いました。
この仮面は、彼をより大胆にし、批判に強くし、商業的な成功にも向かわせました。

実際、ダリは成功して大金を稼いだことで、シュルレアリスムの仲間から「アヴィダ・ダラーズ(Avida Dollars)」と皮肉られました。
これは「ドルに貪欲」という意味を込めたあだ名です。
普通なら侮辱として傷ついてもおかしくありません。
ところが、ダリはそれを逆に受け入れ、「アヴィダ・ダラーズ」を自ら演じることにしました。
彼はその名前に「魔術的な価値」があると語り、むしろ自分の商業的成功を象徴する仮面として利用したのです。
ここに「ダリ・トリック」の核心があります。
誰かに貼られたレッテルでさえ、自分の物語に組み込めば、弱点ではなく力に変わることがあります。
ダリは「変な人」と見られることを恐れませんでした。
むしろ「変な天才」として見られる仮面を、自分から選び取ったのです。
「なりきること」が「なりたい自分」への近道
このような別人格の力は、単なる芸術家の奇行だけではありません。
心理学の研究でも、人は「何者として行動するか」によって、実際の行動が変わる可能性が示されています。
有名な例が「バットマン効果」です。
ある研究では、4歳と6歳の子どもたちに課題を行わせました。
一方の子どもたちは、普通に自分として課題に取り組みました。
もう一方の子どもたちは、バットマンを含むいくつかのキャラクターになりきって課題に取り組みました。
すると、キャラクターになりきった子どもたちのほうが、より長く粘り強く課題を続けたのです。
これは、別人格を演じることが自分との距離を作り、目の前の困難に飲み込まれにくくする可能性を示しています。
たとえば「私は疲れた」と考えると、その疲れは自分そのものの問題に感じられます。
しかし「バットマンならどうするか」と考えると、少し外側から自分を見ることができます。
その結果、もう少しだけ続けてみようという行動が生まれるのです。
これは大人にも応用できます。
たとえば大事な会議の前に、「堂々と話せる自分」を身につけることができます。
失敗しそうな場面で、「粘り強い自分」ならどう動くかを考えることができます。
批判を受けたときに、「動じない自分」ならどう受け流すかを想像することもできます。
もちろん、これは自分を完全に別人に作り替える魔法ではありません。
しかし私たちは、場面ごとに何らかの役割を演じている以上、その役割を少しだけ意識的に選ぶことはできます。
「本当の自分は誰なのか」と問い続けると、答えのない迷路に入り込むことがあります。
それよりも、「この場面で、私はどんな自分として振る舞いたいのか」と問うほうが、実践的です。
ダリ・トリックとは、偽物の自分になる方法ではありません。
なりたい方向へ自分を動かすために、意識して仮面を選ぶ方法なのです。
参考文献
The Dalí trick: The strange psychology of becoming who you want to be
https://bigthink.com/mini-philosophy/the-dali-trick-the-strange-psychology-of-becoming-who-you-want-to-be/
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部
