1613年から1917年まで、およそ300年にわたりロシアに君臨した「ロマノフ王朝」。
しかし、その最後はあまりに悲劇的なものでした。
1918年、ロシア最後の皇帝となるニコライ2世は、革命軍により監禁され、一家もろとも暗い地下室で惨殺されたのです。
しかし、その中で奇妙な噂が人々の間に広まることになります。
「一家の第4皇女にして、末娘のアナスタシアだけは惨殺を免れ、今もどこかで生き延びている」というのです。
この噂はやがて、アナスタシアを名乗る謎の女性の登場という一大騒動にまで発展し、今なお語り継がれる歴史ミステリーとして記憶されています。
では、アナスタシア伝説はどのような経緯をたどり、どのような事件の決着を見たのでしょうか?
目次
- おてんば娘アナスタシアと、怪僧ラスプーチンの出現
- ラスプーチン暗殺と、300年続いたロマノフ王朝の終焉
- 1918年7月に起きた「一家惨殺事件」
- 「私がアナスタシアです」突如あらわれた謎の女性
- ついに解き明かされた「アナスタシア伝説」の真相
おてんば娘アナスタシアと、怪僧ラスプーチンの出現
物語の中心にいるアナスタシア・ニコラエヴナは、1901年6月18日、父・ニコライ2世と母・アレクサンドラ皇后のもとに生まれました。
上にはオリガ、タチアナ、マリアの3人の姉がおり、アナスタシアは末娘の第4皇女。
それから、弟となる皇太子アレクセイがいました。
4人姉妹は、それぞれの名前の頭文字を取って「OTMA」と呼ばれるほど仲がよく、その中でも末娘のアナスタシアは、いたずら好きで陽気な性格だったと伝えられています。

宮廷の中で彼女は人を笑わせ、場をかき回すような快活な少女だったようです。
しかし、この家族には外からは見えにくい大きな不安がありました。
それが、唯一の男子である皇太子アレクセイの血友病です。
血友病とは、傷口から出血が止まりにくくなる病気です。
小さなけがや内出血でも命に関わることがあり、皇位継承者であるアレクセイにとっては極めて深刻な問題でした。
母アレクサンドラは、息子を救いたい一心で、祈祷や宗教的な力にもすがるようになります。
そんな折に現れたのが、シベリア出身の宗教的カリスマ、グリゴリー・ラスプーチン(生年不明〜1916)でした。

ラスプーチンは「怪僧」と呼ばれますが、正式な僧侶ではありません。
農民出身でありながら、不思議な霊力を持つ人物として宮廷に出入りするようになった男です。
皇太子アレクセイは、それまで数々の腕の立つ名医に診られたものの、病状が改善する兆しはありませんでした。
ところが、ラスプーチンが衰弱していたアレクセイに手を触れて祈祷したところ、アレクセイの病状は急に回復し、元気に走り回るようになったのです。
これをきっかけに、ラスプーチンは皇后アレクサンドラから絶大な信頼を得ることになりました。
医学的に見れば、ラスプーチンが本当に病気を治したわけではなかったでしょう。
しかし、わが子の命におびえる母親にとって、息子の苦痛を和らげてくれるたラスプーチンは、何より頼れる人物だったのです。

この信頼関係が、ロマノフ家にとって致命的な火種となっていきます。
宮廷の外では、「皇后が怪しい男に操られている」「国家の政治がラスプーチンに左右されている」という疑念が広まりました。
ロマノフ家は、それ以前からすでに揺らぎ始めていた帝政ロシアの中で、ますます国民の不信を深めていったのです。
ラスプーチン暗殺と、300年続いたロマノフ王朝の終焉
1914年に第一次世界大戦が始まると、ロシアの状況は急速に悪化していきました。
戦場では多くの兵士が命を落とし、国内では物資不足と物価高騰が進みます。
人々の不満は、皇帝ニコライ2世とその家族に向けられました。
しかも皇后アレクサンドラはドイツ系の出身です。
ドイツと戦争をしている最中に、ドイツと縁のある皇后が政治に影響力を持っているというだけで、疑念は膨らみました。
そこにラスプーチンの存在が重なります。
皇后がラスプーチンを信頼し、政治人事にも彼の意見が入り込んでいると見なされたことで、宮廷への不信はさらに強まりました。
貴族や政治家の中には、「ラスプーチンを排除しなければロシアは救えない」と考える者まで現れます。
そして1916年12月、ラスプーチンは皇族や貴族たちの手によって暗殺されたのです。
このラスプーチン暗殺には、「毒を盛られても死ななかった」「撃たれても生きていた」「川に投げ込まれてようやく死んだ」といった怪奇的な伝説がつきまとっています。
しかし、こうした話の多くは後世に膨らんだものです。
それでも、ラスプーチンが不気味なほど死ににくい怪物のように語られたことは、当時の人々が彼をどれほど異様な存在として見ていたかを物語っています。

ところが、当然というべきか、ラスプーチンを殺しても帝国は救われませんでした。
むしろ、それはロマノフ王朝崩壊の直前に起きた、最後の不吉な事件となります。
1917年2月、ロシアでは大規模な革命(二月革命)が起こりました。
首都では抗議行動や暴動が広がり、兵士たちも政府に従わなくなります。
国民の怒りはもはや抑えられず、ニコライ2世は退位に追い込まれました。
1613年に始まり、300年以上続いたロマノフ王朝は、ここで終焉を迎えたのです。
この時点で、アナスタシアはまだ15歳でした。
帝国の姫君として生まれた少女は、一夜にして「倒された王朝の娘」となったのです。
1918年7月に起きた「一家惨殺事件」
退位後、ニコライ2世一家は自由を失い、軟禁と移送の過酷な日々が始まります。
かつて皇帝一家の住まいだった場所は、もはや安全な宮殿ではなく、革命軍の臨時政府に監視される閉ざされた空間になりました。

しかし、政治情勢はさらに悪化していきます。
1917年10月、ボリシェヴィキ(レーニンを中心とする革命派・社会主義勢力)が臨時政府を倒して権力を握ると、ロマノフ一家の立場はいっそう危うくなりました。
1918年春、一家はエカテリンブルクのイパチェフ館へ移されます。
この建物は、後に「特別目的の家」と呼ばれることになります。
名前だけを見ると事務的ですが、その目的は恐ろしいものでした。
アナスタシアたちは、そこで厳しい監視下に置かれます。
食事もまともに与えられず、窓は白く塗りつぶされて外が見えないようにされ、監視兵たちからは罵詈雑言が浴びせられました。
そして1918年7月17日未明、一家に残酷な運命の日が訪れます。
父ニコライ2世、母アレクサンドラ、4姉妹のオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、皇太子アレクセイ、そして従者たちは、地下室へ連れて行かれました。
彼らには、移動のために写真を撮る必要があるというような説明がされたといいます。
しかし、それは嘘でした。
地下室に入った一家に対し、処刑隊は死刑を告げ、次々と発砲したのです。
ところが、処刑はすぐには終わりませんでした。
皇女たちの衣服には、のちの生活のことを考えて、ロマノフ家の宝石が縫い込まれていました。
その宝石が銃弾や銃剣を妨げたため、処刑は混乱し、余計に凄惨なものになったとされています。

ここから、後の「アナスタシア生存説」につながる重要な要素が生まれます。
銃弾を防いだ宝石。
混乱に陥った地下室。
行方不明になった遺体。
そして、ボリシェヴィキによる曖昧な発表です。
処刑後、ボリシェヴィキは「ニコライ2世は処刑された」と発表しました。
しかし、皇后や子どもたちについては、はっきりと死亡を認めませんでした。
むしろ「安全な場所にいる」と受け取れるような情報が流されます。
この沈黙と隠蔽こそが、20世紀最大級の歴史ミステリーの始まりでした。
「私がアナスタシアです」突如あらわれた謎の女性
ロマノフ一家が殺された後、現場を調べた反ボリシェヴィキ勢力は、地下室に血痕や弾痕を見つけました。
また、森の中では、皇帝一家の持ち物や焦げた衣服、宝石、聖像、そしてアナスタシアの飼い犬の死骸なども見つかりました。
しかし、決定的な遺体は見つかりませんでした。
遺体がなければ、死を完全に証明できません。
「皇后と子どもたちは生きているのではないか」
「誰かが密かに助け出したのではないか」
「末娘のアナスタシアだけは、隙を見て逃げ延びたのではないか」
どこからともなく立ち上がった噂は、ロシアを逃れた亡命者たちの間で特に強く広がりました。
彼らにとって、ロマノフ家の誰かが生きているという話は、単なるゴシップではありませんでした。
失われた祖国、失われた身分、失われた世界が、いつか戻ってくるかもしれないという希望だったのです。
こうして人々が「アナスタシア生存説」を信じ始めるようになった最中、驚くべき事件が起こります。
1920年2月、ベルリンで一人の女性が運河に流されているところを救出されたのです。
彼女は体にひどい傷を負っており、また軽い記憶喪失にかかっていたのか、すぐには身元の特定ができませんでした。
しかし病院での回復が進み、記憶を取り戻したところで、彼女は驚きの言葉を口にします。
「私は、アナスタシアです」
なんと彼女は、自分こそロシア皇帝ニコライ2世の第4皇女であり、革命政府によって処刑されそうになったところを命からがら逃げてきたというのです。

普通なら、誰も信じないようなトンデモ話ですが、彼女(のちにアンナ・アンダーソンと名乗る)にはアナスタシアと共通する点が多くありました。
例えば、足のひどい外反母趾(がいはんぼし)や額の小さな傷跡は、アナスタシアにもあった身体的特徴でした。
それに加えて、彼女が語ったロシア宮廷に関する知識は、実際にそこで生活していたかのような詳細さだったのです。
さらに、アナスタシアに実際に会ったことのある大佐も、彼女を一目見た瞬間に「アナスタシア本人だ」と思ったといいます。
その一方で、疑わしい点も数多くありました。
アナスタシアなら流暢に話せたはずのロシア語を、彼女はほとんど話せませんでした。
一方で、アナスタシアが苦手だったはずのドイツ語は話せました。
記憶も曖昧で、正しい答えを誰かから聞いた後に思い出したように語る場面もあったとされます。
それでも、彼女の話を信じる人々は、それを「処刑のショックによる記憶喪失」や「深いトラウマの影響」と解釈しました。
証拠が弱いから信じないのではなく、証拠が弱くても信じたい理由があったのです。
こうしてアンナ・アンダーソンは、単なる身元不明の女性から、「生き延びたアナスタシアかもしれない人物」へと変わっていきました。
ついに解き明かされた「アナスタシア伝説」の真相
真相解明の第一歩は、1991年に訪れました。
エカテリンブルク近郊の森で、ロマノフ一家と従者とみられる遺骨の発見が公表されたのです。
発見したのは、地質学者とその同僚たちで、彼らはさまざまな資料をもとに遺骨の埋没場所を探し当てたのです。
実は彼らは1979年の時点で、すでに遺骨を発見していたのですが、ソ連体制下での危険を恐れ、長く沈黙していました。
というのも、当時のソビエト政権は、ロマノフ一家を残酷なやり方で抹殺したことが世の中にバレたら、自分たちの立場が悪くなるため、KGB(秘密警察)を使って証拠隠滅しようと躍起になっていたからです。

その後の調査で、回収された骨には9体分の遺骨が確認されました。
DNA鑑定の結果、それらはニコライ2世、皇后アレクサンドラ、3人の皇女、そして4人の従者のものと確認されました。
しかし、ここで新たな問題が生まれます。
皇太子アレクセイと皇女1人の遺骨が足りなかったのです。
この「欠けた一人の皇女」が、アナスタシアなのかどうかをめぐって再び議論が起きました。
つまり、遺骨の発見は謎を終わらせるどころか、アナスタシア伝説をもう一度よみがえらせてしまったのです。
しかし決定的な発見が、2007年に公表されます。
最初の遺骨発見場所から約70メートル離れた場所で、焼けた骨や歯の断片、弾丸片などが見つかったのです。
鑑定の結果、それらは10代前半の少年と、18〜23歳くらいの若い女性の遺骨であることが示されました。
さらにDNA解析により、少年の遺骨は皇太子アレクセイのもの、そして女性の遺骨はアナスタシアではなく、姉のマリアのものであることが確認されました。
いずれにせよ、研究者らは「これで我々は、惨殺されたロマノフ一家全員を発見した」と発表したのです。
つまり、アナスタシアを含め、ニコライ2世一家はやはり誰も、1918年7月17日の虐殺を生き延びてはいなかったのです。
そして、もう一人の女性の謎も解き明かされます。
アナスタシアを自称していたアンナ・アンダーソンです。
彼女は1984年に亡くなったおり、死後のDNA鑑定で真実が明かされました。
鑑定の結果、彼女がアナスタシアでないことが科学的にはっきりと証明されたのです。

さらなる調査で、アンナ・アンダーソンの正体は、ポーランド出身の農家の娘フランツィスカ・シャンツコフスカであることが、現在の通説となっています。
フランツィスカは以前、出稼ぎ労働者としてベルリンの爆弾工場で働いていました。
そのおり、手榴弾を誤って落としてしまい重傷。すぐ近くにいた同僚は死亡し、彼女は精神不安定になって、病院に収容されました。
しかし、その直後に失踪して行方不明になります。
これが運河から救助される数週間前の出来事でした。
おそらく、彼女は精神錯乱状態に陥って、入水自殺を試みたと思われますが、それと別に、どうやってアナスタシアに関連する情報を得たのかはいまだにわかっていません。
ちなみに、彼女は1984年に亡くなるまで、自分はアナスタシアであると言い続けていたようです。
最後に
こうして、アナスタシア伝説は科学的には幕を閉じました。
皇女アナスタシアは、実際にはロマノフ一家とともに1918年7月17日に殺害されていたのです。
アンナ・アンダーソンもまた、アナスタシア本人ではありませんでした。
DNA鑑定によって、歴史ミステリーとしての答えはすでに出ています。
それでもアナスタシアの名が今も世界中で知られているのは、彼女が単なる皇女ではなく、「もしかしたら生きていたかもしれない希望の象徴」として語られたからです。

真実は悲劇でした。
しかし、その悲劇の空白に、人々は奇跡の物語を見ようとしました。
アナスタシア伝説とは、歴史の謎であると同時に、人間がなぜ“信じたい物語”に惹かれるのかを映し出す鏡でもあるのです。
参考文献
Legend Over Truth: The Mystery of Grand Duchess Anastasia Romanov(PDF)
https://digitalcommons.library.uab.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1024&context=vulcan
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部
