降りる駅通り過ぎてしまったとき、このままでも目的地に着けるけど戻った方が少ない乗り換えで早く着けるとしたら、あなたは電車を降りて一度前の駅に戻る行為ができるでしょうか?
あるいは、仕事で資料をまとめている途中でもっと簡単なまとめ方に気づいたとき、やり直した方が作業が結果的に早く済みそうだとして、今の作業を捨ててやり直すことができるでしょうか?
おそらく多くの人は、戻ってやり直すよりはこのまま進めよう、と考えるのではないでしょうか。
カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の行動マーケティングを専門とする心理学研究者クリスティン・チョー(Kristine Y. Cho)氏らの研究チームは、このような「戻ってやり直すことへの抵抗感」が私たちの意思決定にどう影響しているのかを4つの実験から調査しました。
すると、人は効率や合理性に関係なく、「戻る」という行為自体に強い忌避感を持っており、不合理な判断をしてしまう傾向が見えてきたのです。なぜ人はそんなに「戻る」ことを嫌うのでしょうか?
この研究の詳細は、2025年5月号の科学雑誌『Psychological Science』に掲載されています。
目次
- 合理的な判断を阻む心理効果
- 引き返せば早くゴールできるのに、人は前進を選んでしまう
合理的な判断を阻む心理効果

たとえば、あなたが登山をしていると想像してみてください。
山頂にある展望台を目指して登っていたところ、分岐を見落としてしまい、少し遠回りの道を進んでしまったと気づきます。
その時点で、現在地から先へ進むルートでも山頂にはたどり着けますが、急な登り坂が続くうえに、到着まで1時間以上かかってしまうことがわかっています。
一方で、いったん20分ほど引き返して正しい分岐に戻れば、よりなだらかで距離も短いルートがあり、そこからなら40分で山頂に到着できます。
つまり、「戻ればより楽なルートで早く着ける」ことが分かっているのです。
でも、実際にその場に立たされると、多くの人が「ここまで来たのに戻るなんて…」と感じてしまうのではないでしょうか。
20分の引き返し時間込みで考えても到着時刻が早くなるのに、「戻る」という行為そのものに抵抗を覚えてしまう──そんな不思議な心理に着目したのが、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の研究者たちです。
彼らは、あえて不利な道を選んでしまう人の行動を実験で再現し、「やり直せば効率がよいと頭でわかっていても、感情的にそれができない」心理のメカニズムについて調査を行ったのです。
これまでも、人がいまの選択に固執してしまう傾向は、心理学でたびたび指摘されてきました。
たとえば「現状維持バイアス(status quo bias)」とは、「いまの選択肢を変えるのは不安だから、このままでいこう」と無意識に思ってしまう心理のことです。
また「埋没費用の誤謬(サンクコストの誤謬, sunk cost fallacy)」という考え方もあります。
これは、コンコルド効果という呼び方の方が有名かもしれませんが、どう考えても続けると損失の方が大きくなる状況に対して「ここまでお金や時間をかけたのだから、もったいなくてやめられない」と過去の投資に引きずられて、やめる決断ができなくなる心理のことです。
ただし、これらの理論は「やめる(撤退する)」決断に対するもので、「引き返す」という行動に対する心理的抵抗はうまく説明できていません。
カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の研究チームは、こうした「過去の投資を惜しむ」理由だけでは説明しきれない、人が「後戻り」することそのものに抱く抵抗感に着目しました。彼らは、「もしかすると人は、“戻る”という行為自体を避ける傾向があるのではないか」と考え、その仮説を検証するために4つの実験を行いました。
実験に参加したのは、アメリカ国内から集められた合計2524人の成人です。
最初の実験では、仮想現実の空間で参加者に道を選ばせる課題を行いました。
目標地点に向かう途中で、「今来た道を少し戻れば、より短いルートを通れる」という情報を提示します。
しかし、実際には多くの人がその近道を避け、遠回りでも前に進み続ける道を選ぶ傾向が見られました。
この結果だけでも、人が“引き返すこと”に強い抵抗を持っている可能性が示唆されますが、研究はここで終わりません。
次の実験では、単語を作る課題を用いて、身体的に戻る必要がない状況でも“やり直す”と感じるだけで選択に影響が出るかを検証しました。
参加者は「Gから始まる単語を40個書き出す」という課題を与えられ、10個終えた時点で「Tから始まる単語を30個作る方が簡単で速く終わる」という提案をされます。
ただし一部の参加者には「これまでの10個は無効になり、やり直しになります」と伝えました。
すると、「やり直し」と表現されたグループは、より効率的であると分かっていても、新しい課題に切り替えるのをためらう傾向が顕著に見られました。
これらの実験は、たとえそれが有益な選択だったとしても「戻ること」や「やり直すこと」そのものに対して、人が直感的に強い嫌悪感を抱くことを明確に示しています。
なぜ人は「戻る」ことにそこまで抵抗があるのでしょうか?
引き返せば早くゴールできるのに、人は前進を選んでしまう
今回の研究では、さまざまな実験を通して、人が「戻ってやり直す」ことに対して強い抵抗を示す傾向があることが明らかになりました。
同様の傾向は、買い物のシミュレーション実験でも確認されました。
この実験では、参加者が仮想ショッピングモール内の店舗を移動しながら、特定の商品を探して買い物を進めていくという課題が与えられました。途中で買うべき商品が新たに追加されるという設定で、その商品がすでに立ち寄った店舗に確実にあることが明示された場面でも、多くの参加者はその店に引き返すことを避け、まだ訪れていない店舗に進もうとしました。
つまり、「戻れば確実に商品が手に入る」と分かっていても、「一度通った道を戻る」という行為自体を避ける傾向が見られたのです。
これは、先に進む店舗でその商品が見つかる保証はまったくないにもかかわらず、あえて不確実な道を選ぶという非合理的な判断です。
「埋没費用の誤謬(sunk cost fallacy)」は、失敗したプロジェクトなどから撤退して「やめる」決断ができないというものですが、今回の場合は単に戻った方が効率的という場面で、「戻る」という判断ができない心理を示しており、いわゆるコンコルド効果のような心理状態とは異なります。
これは単に“後ろに戻る”という行為そのものに対する忌避感が中心なのです。
研究チームはこうした新たに発見された心理傾向を「引き返し回避(doubling-back aversion)」と名付け、戻るという行為への忌避感が合理的判断に影響を及ぼす例として、今後さらに詳細な検証が求められると指摘しています。
研究者たちは、この傾向がさまざまな意思決定の場面で大きな影響を及ぼしていると考えています。
たとえば、書きかけのレポート、あるいはイラストや小説のようなものでも致命的な間違いがあり、最初から書き直した方が早く作業が終わるという場合でも、それができず細かい修正を繰り返して逆に時間を無駄にしてしまう。
組み立て家具の手順を間違えていて、一度バラしてやり直した方が楽な場合でも、そのまま強引に進めてしまう。

この現象は日常生活のあらゆる場面で見られます。また山岳遭難などでも影響している心理効果だと考えられます。
研究チームは、この現象の根底にある認知的および感情的メカニズムについて、次のような考察をしています。
「進んだ分だけ前進した」と感じる直線的な進捗観
人は行動の進捗を「距離」や「直線的な経路」で評価する傾向があります。このため、戻るという行為は「進歩の否定」や「無駄な足踏み」として直感的に捉えられてしまい、心理的な抵抗が生じます。自己効力感や決断の正当性への脅威
後戻りするという決断は、「自分の過去の選択が誤っていた」という事実を受け入れる必要があります。これは自己効力感(自分の判断への自信)を脅かし、恥や敗北感といった否定的な感情を引き起こす可能性があるため、無意識に回避されがちです。
この心理は、後戻りが物理的に困難だったわけではなく、合理的に考えれば「戻った方が確実に利益を得られる」状況でも示されているため、この傾向が合理性ではなく感情に強く左右されていると指摘しています。
今後の課題として、研究チームは「どのような状況で人はこの心理バイアスを乗り越えられるのか」を探る必要があるとしています。たとえば、「後戻り」が恥ずかしい、無駄に見えるという文化的背景や、自尊心との関係なども検討すべきでしょう。
また、この研究は教育やビジネス、都市計画など、さまざまな分野での応用も考えられます。たとえば、経路が複雑な施設の案内表示を工夫したり、失敗からのやり直しを前向きに捉える教育を行うことで、人々の判断ミスを減らすことができるかもしれません。
一見単純に思える「戻るか、進むか」の選択には、私たちの意思決定を揺さぶる深い心理メカニズムが隠されているのです。
参考文献
Scientists reveal a widespread but previously unidentified psychological phenomenon
Scientists reveal a widespread but previously unidentified psychological phenomenon
https://www.psypost.org/scientists-reveal-a-widespread-but-previously-unidentified-psychological-phenomenon/
元論文
Doubling-Back Aversion: A Reluctance to Make Progress by Undoing It
https://doi.org/10.1177/09567976251331053
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部