泥棒猫ならぬ泥棒細胞です。
アメリカのサウスアラバマ大学(USA)などの研究チームが行った最新の研究によって、がん細胞が神経細胞からエネルギー生産を担う「ミトコンドリア」を直接受け取ることで、転移能力を劇的に高めていることが世界で初めて明らかになりました。
これまでの常識では、がん細胞は自前のミトコンドリアを使いエネルギーを得ていると考えられていましたが、今回の研究では、腫瘍の周囲に入り込んだ神経細胞が「橋渡し役」となり、自らのミトコンドリアをがん細胞へと渡していることが確認されました。
しかも、この神経細胞由来のミトコンドリアを受け取ったがん細胞はエネルギー効率が格段に向上し、血流の強い力や酸化ストレスなどの厳しい条件を乗り越え、肺や脳などへの転移を成功させやすくなることが示されています。
この新発見は、がんの転移を防ぐ新たな治療法の開発にもつながる可能性がありますが、果たして私たちは「がんへのエネルギー供給路」を効果的に断ち切ることができるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年6月25日に『Nature』にて発表されました。
目次
- がんの『転移能力』を支えるのは何か?
- がん細胞は隣の神経から『エネルギー工場』を奪っていた
- がんの巧妙な戦略『エネルギー泥棒』が転移を促進
がんの『転移能力』を支えるのは何か?

がん細胞は体のさまざまな場所へ転移し、私たちの命を脅かします。
しかし、どのがん細胞も簡単に転移できるわけではありません。
転移は、がん細胞にとって過酷な「旅」であり、血液の流れや活性酸素など、さまざまなストレスを乗り越える必要があります。
では、一部のがん細胞がなぜ過酷な状況を乗り越え、遠く離れた臓器で再び増殖できるのか、その秘密はどこにあるのでしょうか。
最近の研究では、がんの内部や周囲に入り込んだ神経細胞が、がんの成長や転移を助ける可能性が指摘されています。
腫瘍の病理検査によると、神経が密集しているがんほど進行が早く、予後も悪いことがわかっています。
また、がん細胞自身が特定の物質を分泌し、神経を引き寄せたり、新たな神経の発達を促したりすることも報告されています。
つまり、神経とがん細胞の間には何らかの「密接なつながり」が存在するようなのです。
しかし、神経細胞が具体的にどのような方法でがん細胞の成長や転移をサポートしているのかは、まだ謎に包まれています。
例えば、神経からがん細胞に対して栄養や信号を提供するなどの「援助」が考えられますが、実際に何をどのように提供しているのかは明確ではありませんでした。
そこで米国サウスアラバマ大学の研究チームは、神経とがん細胞がどのように「会話」をし、がんの成長や転移能力に影響を与えているかを詳しく調べることにしました。
特に、神経細胞ががん細胞のエネルギー代謝を変化させ、転移を促進するという可能性に着目しました。
がん細胞が神経細胞と接することで、エネルギーを効率よく確保し、転移に有利な能力を手に入れることがあるのでしょうか。
がん細胞は隣の神経から『エネルギー工場』を奪っていた

がん細胞が神経細胞と接することでどのような恩恵があるのか?
この疑問に答えるため、研究者たちはまず、がんの転移に神経がどのように関係しているのかを調べました。
マウスの乳がんモデルを使い、がんの周りにある神経からがんへの信号をボツリヌス毒素(ボトックス)でブロックし、その影響を観察したのです。
すると、神経からの信号が届かなくなったがん細胞は、エネルギーを作る能力が低下し、成長が遅くなり、周囲の組織への広がり(侵襲性)も弱まることが確認されました。
この結果から、神経からの何らかの刺激が、がん細胞のエネルギー代謝を支えている可能性が浮かび上がりました。
では、神経細胞はがん細胞に対して具体的にどのような「援助」をしているのでしょうか。
この謎を解明するため、研究チームは乳がん細胞と神経細胞を同じ培養皿で一緒に育て、高性能の顕微鏡を使って詳しく観察しました。
すると、がん細胞が神経細胞と密接に接触し、まるで「橋」を架けるように細いトンネル状の管でつながっていることが明らかになりました。
この「橋」を通して、神経細胞のミトコンドリア(細胞内のエネルギー工場)が、まるで列車が線路を走るように次々とがん細胞へ移動している様子が確認されたのです。
ミトコンドリアが細胞のエネルギー工場と言われる理由
ミトコンドリアはしばしば「細胞のエネルギー工場」と呼ばれています。その理由は、ミトコンドリアが私たちが食べた食物や吸った酸素から、細胞が活動するためのエネルギーを作り出しているからです。具体的には栄養を酸素で燃やして発生したエネルギーをエネルギーの通貨と呼ばれる「ATP(アデノシン三リン酸)」という物質に変換して細胞に提供しているのです。細胞はこのATPを使ってさまざまな作業(分裂、成長、筋力、思考)を行います。私たちがスマートフォンを使うときにバッテリーから電気を取り出すように、細胞はミトコンドリアが作ったATPを使って動いているのです。だからこそ、ミトコンドリアは「細胞のエネルギー工場」と例えられるのです。私たちの先祖(古細菌)は地球に酸素が増えてくると酸素を使ってエネルギーを作れるミトコンドリアの先祖を細胞内部に取り込み、自らも酸素を使う能力を獲得しました。そのためミトコンドリアの増加はエネルギー工場の増加と同じように細胞の総合的な出力を増加させる効果が見込めます。
次に実際にどれくらいのミトコンドリアが移動しているのか調べるため、研究チームは神経細胞とがん細胞のミトコンドリアに、それぞれ異なる色の蛍光ラベルを付けました。
神経細胞は緑色、がん細胞は赤色に光らせ、ミトコンドリアがどこに移動したかを正確に追跡しました。
その結果、神経細胞の緑色のミトコンドリアが赤色のがん細胞の中に入り込み、多くのがん細胞が「二色」のミトコンドリアを持つようになっていました。
また、両者が物理的に直接触れ合っている時にこの現象がよく起こり、接触を遮断すると、ミトコンドリアの受け渡しはほぼ起きませんでした。
さらに、この「橋」を作るトンネルの形成を薬剤で邪魔すると、ミトコンドリアの受け渡しは大幅に減少しました。
これにより、このトンネル状の「橋」がミトコンドリアの移動に重要な役割を果たしていることが裏付けられました。
神経細胞からミトコンドリアを受け取ったがん細胞は、一体どのような変化をするのでしょうか。
ミトコンドリアをもらったがん細胞を詳しく調べると、他のがん細胞よりもエネルギー生産(ATPの生成)が大きく増え、活発で元気な状態になっていました。
さらに、転移の過程でがん細胞が遭遇する厳しい環境、例えば血流による強い力(せん断ストレス)や、活性酸素による攻撃に対しても、神経からミトコンドリアを受け取った細胞の方がはるかに生き残りやすいことが分かったのです。
つまり、神経由来のミトコンドリアを手に入れたがん細胞は、まるで特殊な「エネルギータンク」を手に入れたように強化され、過酷な環境にも耐えられる「エリート」細胞になっていました。
しかし、こうした「エネルギーを受け取ったがん細胞」は体の中で最終的にどこへ向かうのでしょうか。
研究チームは、この疑問に答えるため、「MitoTRACER(ミトトレーサー)」という新しい技術を開発しました。
MitoTRACERは、神経からがん細胞にミトコンドリアが移った時にがん細胞が蛍光の色を変えるという仕組みで、一度色が変わったがん細胞は、その後もずっと同じ色を保ち続けることができます。
この仕組みを使って、マウスで乳がんの転移を詳しく調べたところ、神経細胞からミトコンドリアを受け取ったがん細胞は、受け取っていない細胞よりも肺や脳といった遠く離れた転移先で圧倒的に多く見つかりました。
つまり、神経細胞から受け取った「エネルギータンク」を持つがん細胞は、転移した臓器の厳しい環境にも適応しやすく、生き延びて増殖できる可能性が極めて高いことが分かったのです。
がんの巧妙な戦略『エネルギー泥棒』が転移を促進

今回の研究によって、がん細胞が神経細胞からミトコンドリアという細胞内の「エネルギー工場」を直接受け取ることで、転移を促進する可能性が世界で初めて示されました。
従来、細胞がエネルギーを確保するためには自分自身でミトコンドリアを増やしたり、代謝経路を工夫したりすることが知られていました。
しかし今回明らかになったのは、がん細胞が周囲の神経細胞から「完成されたミトコンドリア」をそのまま譲り受けるという、全く新しい仕組みだったのです。
そもそもミトコンドリアとは、細胞が生きていくために欠かせないエネルギーを生み出す小さな工場のようなものです。
通常、がん細胞は自分自身のミトコンドリアを使ってエネルギーを得ていますが、それだけでは転移のような過酷な状況を乗り越えるのは簡単ではありません。
特に転移先の臓器では栄養が不足したり、血流や酸化ストレスなどの厳しい環境が待ち構えているため、通常のエネルギー供給ではがん細胞が生き残るのは困難です。
今回の研究で注目すべきは、がん細胞が神経からミトコンドリアを受け取った場合、これまでよりもずっと効率よくエネルギーを作れるようになった点です。
特に脳に存在する神経細胞のミトコンドリアは非常に高性能で効率がよいことが知られています。
実際、人間の脳は体重のわずか2%しかありませんが、全身のエネルギーの20%以上を消費するほど、高度なエネルギー供給を行っています。
もし、こうした強力な「エネルギー工場」をがん細胞が手に入れたらどうなるかという答えが今回の実験で明らかになりました。
神経細胞由来のミトコンドリアを受け取ったがん細胞は、脳への転移巣で通常の細胞に比べ約9倍も多く見つかったのです。
つまり神経細胞から受け取ったミトコンドリアが、がん細胞を「転移先で強く生き残れるエリート細胞」へと変化させる可能性が示されたのです。
さらに今回の結果は、特定のがんが特定の臓器に転移しやすいという、これまでの謎の解明にも役立つかもしれません。
特に脳への転移が多いのは、脳の神経細胞のミトコンドリアが、がん細胞にとって非常に都合のよいエネルギー源だからかもしれません。
では、この新しい発見を治療に活かすことはできるでしょうか?
研究では、神経からがん細胞へのミトコンドリアの移動を遮断することで、転移を抑えられる可能性が示されました。
ボツリヌス毒素を使って神経との接触をブロックすると、神経由来のミトコンドリアの移動が大幅に減少することが確認されました。
別の実験でも、この神経遮断により腫瘍の成長や侵襲性が抑えられることが示されています。
つまり、神経とがん細胞の直接の接触を遮ることで、ミトコンドリアの供給経路を断ち切り、がんの転移を防ぐという治療法が将来的に可能になるかもしれません。
また、今回研究チームが開発した「MitoTRACER」という新しい技術は、ミトコンドリアが細胞間を移動する仕組みを研究する上で非常に役立つと考えられます。
MitoTRACERは、神経からがん細胞にミトコンドリアが移動した瞬間を正確に捉え、その細胞がその後どのような運命をたどるかをずっと追跡できる画期的なツールです。
がん研究だけでなく、例えば神経の病気や再生医療など、さまざまな分野で幅広く活用される可能性があります。
例えば、病気やけがで弱った組織に健康な細胞のミトコンドリアを届け、回復を促す治療法への応用が考えられます。
今回の研究で明らかになったのは、がん細胞が神経細胞という身近な「隣人」からエネルギー源を調達し、自らの転移能力を劇的に向上させているという意外な事実でした。
この巧妙な戦略を知った今、がんの「エネルギー源の補給路」を断つという新しい治療法への道が開けるかもしれません。
元論文
Nerve-to-cancer transfer of mitochondria during cancer metastasis
https://doi.org/10.1038/s41586-025-09176-8
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部