私たちは日々たくさんのことを学び、その多くを忘れていきます。
しかしスイスのベルン大学(UniBE)で行われた研究によって、「もう忘れた」と思っていた出来事の痕跡(エングラム)は、実は海馬に潜み続けて無意識の「勘」という形で意思決定を助けていることが示されました。
研究では超高磁場のMRIを用いて、ヒトの脳内のエングラム(記憶の痕跡)の活動を詳細に追跡し「勘の正解率が上がる」という現象が脳の記憶を溜め込む海馬の活性化に関連していることが示されています。
勘の正体が忘れたと思っていた記憶の集合体だとしたら、勘の見方も変わってしまうのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年6月2日に『bioRxiv』にて発表されました。
目次
- なぜ思い出せないのに影響されるのか?
- 海馬に潜む記憶の亡霊を捕らえた
- 忘れた記憶が「勘」となって私たちを助けている
なぜ思い出せないのに影響されるのか?

人はなぜ忘れるのでしょうか?
従来、「忘れる」とは脳内の記憶の物理的痕跡(エングラム)が時間とともに薄れたり消えたりすることだと考えられてきました。
新しい神経回路ができたり、他の記憶と干渉しあったり、記憶保持に関わる分子や細胞が劣化したりすることで、記憶を担うニューロン同士のつながり(エングラム回路)が崩壊し、思い出せなくなる――これが一般的な見方だったのです。
ところが近年のマウスを使ったエングラム研究により、「忘れた」記憶の痕跡が実際には脳内に消えずに潜んでいる可能性が示唆されました。
例えば、生後まもないマウスでは一度覚えた怖い体験(いわゆる幼児期健忘)が時間の経過で思い出せなくなりますが、研究者がその記憶に関わる海馬の神経細胞を光遺伝学的手法で刺激すると、忘れたはずの恐怖記憶が蘇ったのです。
また、成体マウスで睡眠不足によって一度は想起できなくなった記憶も、後から海馬内のエングラム細胞を刺激したり、記憶維持を助ける薬を投与したりすることで失われたはずの記憶が再び表出することが報告されています。
こうした発見は、「忘れてしまった記憶でも痕跡自体は完全には消えずに静かに残存している」という新たな見方をもたらしました。
言い換えれば、忘却とは記憶自体の消去ではなく、単にその痕跡へのアクセス(手がかり)が失われている状態に過ぎないのかもしれません。
では、人間の脳でも同じことが起こっているのでしょうか?
大人のエピソード記憶(体験の記憶)についても、忘れてしまった出来事のエングラムが脳内に残り続けるのか、そしてもし残っているのなら忘れた記憶が私たちの行動に無意識的に影響を及ぼし続けるのか――この問いは長らく明らかになっていませんでした。
ヒトではマウスのような光刺激で記憶を「復活」させる実験はできませんし、人が忘れた記憶の痕跡を直接測定するのは容易ではありません。
そのため、この疑問に答えるには人間を対象とした巧みな実験デザインと高感度な脳計測が必要でした。
今回、スイス・ベルン大学のカタリナ・ヘンケ教授らの研究グループ(筆頭著者トム・ウィレムス氏)はこの難題に挑みました。
研究チームは、人間の海馬や大脳皮質に忘れた記憶の痕跡が残っていて、それが行動に無意識的に影響するかどうかを調べることを目的にしました。
そのために著者らは健康な若い男女40名を対象に、超高解像度の7テスラMRIによる機能的脳スキャン(fMRI)を駆使しました。
7テスラという非常に強力な磁場を用いるMRIでは信号感度が格段に向上し、海馬のような小さな脳領域でも細かな活動パターンの違いを検出できます。
この能力を活かして、時間経過に伴う記憶痕跡の変化やエングラム同士の類似度・差異を精密に追跡できるのです。
さらに今回の実験では、短時間で大量の情報を覚えさせ、その後30分後と24時間後にテストするという手法を取りました。
一度に多くの記憶を詰め込むと、それら同士が干渉しあって忘却が促進される(「干渉による忘却」)ことが知られているため、意図的に忘れやすい状況を作り出したのです。
こうして人為的に「記憶喪失」を引き起こし、その中で脳内に残るエングラムの行方を観察することで、上記の問いに答えようとしたのです。
海馬に潜む記憶の亡霊を捕らえた

研究チームはまず被験者40名に、顔写真と物体のペアを合計96組見せて記憶してもらいました。
顔写真と物体(例えば、女性の顔とキウイフルーツなど)のペアは一度だけ提示されました。
約30分後、最初のテスト(カテゴリー判断テスト)を行い、顔写真を手がかりに、関連付けられていた物体が「有機物か無機物か」を二択で判断してもらいました。回答について「確信がある(覚えている)」「どちらとも言えない」「まったくの勘(忘れている)」の3段階で自己評価をしてもらいました。
その後、参加者は一晩睡眠をとり、24時間後に再度同じカテゴリー判断テスト(物体が有機物か無機物かの判断)を実施しました。その後、追加の認識テスト(顔写真と2つの物体から学習時の正しい物体を選ぶ二択テスト)を行いました。
この翌日のテストの実施については参加者に事前には知らせず、あえて自然な忘却を引き起こすよう工夫しました。
予想通り、24時間後のテストでは、30分後のテストに比べ「覚えている」と回答した割合が減り、「忘れている」と自己評価した割合が約39.8%から約50.8%へと統計的に有意に増加しました。
では「忘れている」と評価した記憶は完全に消失していたのでしょうか?
興味深いことに、参加者が「どちらとも言えない(unsure)」と自己評価した回答の正答率は、30分後に56.8%、24時間後に54.1%となり、いずれも偶然(50%)のレベルを統計的に有意に上回りました。
一方、「まったくの勘(guess)」と自己評価した回答では、30分後が約50.1%、24時間後は約49.4%であり、これは統計的に偶然レベル(50%)と差がありませんでした。
さらに、24時間後テスト終了直後に追加の「認識テスト」を行いました。
このテストでは、顔写真とともに「以前に見た正解の物体」と「別の学習時に提示された似た物体(ダミー)」を並べ、「どちらが学習時に正しく提示された物体か」を判断してもらいました。
この認識テストで「まったくの勘(guess)」と自己評価した回答の正答率は57.5%に上昇し、統計的に偶然のレベルを有意に上回る結果となりました。
このことは、本人が覚えていないと感じる記憶でも、その痕跡が脳内に残り、無意識的に行動を導いている可能性を示しています。
脳内では実際に何が起こっていたのでしょうか?
7テスラの超高解像度fMRIを使った解析によって、「覚えている」と確信した場合も、「どちらとも言えない(unsure)」ながら正解した場合も、共通して海馬の同じ領域が再活性化していることが明らかになりました。
つまり、意識的・無意識的を問わず、正しい記憶の想起は海馬の痕跡(エングラム)の再活性化に関連していると考えられます。
さらに個人差も明確で、海馬の活動パターンの特徴が、無意識的な「勘の正解率」と相関していました。
具体的には、右海馬のある領域では「勘で正解する確率が高い人」ほど特徴的な活動パターンが観察され、この関係は統計的に厳密な基準を満たしました。
また時間経過に伴う記憶痕跡の変化も検出されました。
「覚えていた記憶」の場合、30分後から24時間後にかけてエングラムが海馬から新皮質(大脳皮質の広い領域)へと再配置されました。
一方、「忘れていた記憶」のエングラムは海馬内にとどまり続け、新皮質への移行が進んでいませんでした。
この海馬と新皮質間でのエングラムの対照的な動きは、記憶研究の伝統的理論である「システム固化理論(systems consolidation)」を裏付けています。
この理論によると、新しい記憶は海馬で形成された後、時間をかけて新皮質へと移されて長期的に定着します。
今回の研究は、意識的な記憶保持には海馬から新皮質への移行プロセスが不可欠であり、そのプロセスがうまく進まなければ記憶は意識から失われてしまう可能性を示唆しています。
忘れた記憶が「勘」となって私たちを助けている

今回の研究結果は、「忘れる」という現象を新しい視点で捉え直すものです。
人はある出来事を忘れてしまっても、その記憶の痕跡は脳から完全に消去されるわけではありません。
むしろ見えない形で脳内ネットワークに潜み続け、場合によっては私たちの行動に無意識的に影響を与え続けていることが示されました。
今回の研究は、マウスで得られていた知見をヒトでも高精度に示した例のひとつです。特に7テスラという最新鋭のMRI技術を用い、高精細な脳活動パターンを捉えることで、海馬に「忘却エングラム」が残っている証拠が得られた点は画期的でした。
海馬に残る痕跡は、意識的に思い出す役割だけではなく、無意識の行動や選択と関係している可能性が高いことも示唆されています。
ではなぜ脳は記憶を完全に削除せず痕跡を残すのでしょうか?
考えられる理由の一つは、再び似た状況に出会ったとき、素早く対応するためではないかと研究者らは考察しています。
たとえ今は不要でも、経験の痕跡が残ることで再学習するより簡単に直感で適応可能だからです。今回も、忘れた記憶が直感的な選択の向上として行動に表れていました。
また、記憶を意識できるかどうかには海馬から新皮質への移行プロセスの違いが関係しています。
覚えていた記憶では新皮質へ展開が進んでいましたが、忘れた記憶ではそれがなく、海馬にとどまっているため意識から外れていると考えられます。
「忘却とは記憶が消えるのではなく、アクセスが一時停止された休眠状態」であり、脳は不要な情報を「完全に捨てる」のではなく、「一時停止フォルダ」に保管しているとも言えます。
勘の正解率が高くなる時に海馬が特徴的な活性化をするという結果は、これを脳科学的に示しています。
さらに、将来的な応用面でも興味深い示唆があります。
たとえば認知症や健忘症の患者では、記憶が失われたように見えても、痕跡そのものは残っている可能性があります。
もしそれを再活性化できれば、失われた記憶を取り戻す助けになるかもしれません。
研究グループは今後、磁気や電気による非侵襲的な脳刺激によって、海馬内に潜む無意識記憶の痕跡を意識上に引き上げられるかどうか、検証を検討しています。
また、同じグループは睡眠中に学習させた内容を目覚め後に思い出す実験や、健忘症で残った記憶能力を高める介入も模索しており、今回の「忘却エングラム」の発見は記憶障害の新たな診断・治療法開発に道を開く基盤となる可能性があります。
記憶は本当に不思議で奥深いものです。一度は忘れたと思った体験も、脳には見えない形で痕跡が生き続けていて、気づかぬうちに私たちの意思決定や行動に影響しているのかもしれません。
脳は意識に不要な情報を隠し持ちながら、必要なときに備えて環境へ適応する優しい戦略をとっている――そんな気持ちになりますね。
元論文
Neural Traces of Forgotten Memories Persist in Humans and are Behaviorally Relevant
https://doi.org/10.1101/2025.06.02.656652
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部