米国アリゾナ州の法廷で、殺人事件の被害者が死亡後にAIによって“声”を与えられ、加害者に語りかけるという前例のない出来事が起きました。
2021年のロードレイジ(あおり運転)事件で射殺されたクリストファー・ペルキーさん(当時37歳)の遺族が、彼の顔写真と生前の声を用いてAIで再現したデジタルアバター動画を作成し、今年5月、加害者ガブリエル・ホルカシタス被告(当時54歳)の量刑公判(判決前の審問)で再生したのです。
このAI動画は被害者側から裁判官に向けて示された「被害者等意見陳述(英語ではVictim Impact Statement)」として提出されました。
被害者等意見陳述とは、犯罪の被害にあった人やその家族が、自分たちがどれだけ深く傷つき、生活や心にどんな変化が起きたのかを裁判で直接語る機会のことです。
たとえば事故や襲撃によって受けた身体的・精神的な苦痛や、仕事や学業を続けられなくなった日常の困難、あるいは失った家族への思いなどを率直に伝えることで、裁判官は法廷記録や専門家の意見だけでは見えにくい“人間としての被害”を理解し、量刑を決めるうえでの大切な判断材料を得ることができます。
また、被害者がその言葉の中で加害者への許しを表明した場合には、裁判官が被害者の赦しの意志を量刑に反映し、減刑を検討する余地も生まれるため、この陳述は被害者の痛みを伝えるだけでなく、裁判結果に思いやりの要素を加える役割も担っているのです。
量刑に影響を与えるという意味では、被害者等意見陳述は裁判において極めて重要なポジションを占めていると言えるでしょう。
(※実際、法廷手続きの厳密な言い方では、被害者等意見陳述は証拠や証言とは別枠の情状資料となります)
今回はそれをAIが無くなった被害者に代わる形で行ったわけです。
倫理的には考えるべきことは多くありますが、判事や傍聴していた遺族にとって、まるで亡くなった本人が法廷で語っているかのような光景に、驚きと感動広がったと報告されています。
実際、トッド・ラング判事は後に「あのAI映像は素晴らしかった。ありがとう」と述べ、さらに「ご家族は怒りから最長刑を求めていたが、その映像ではクリス本人の赦し(ゆるし)の気持ちが伝わってきた」とコメントしています。
判事は被害者遺族の意向(最長刑の要望)と映像の内容(許しのメッセージ)のギャップに着目し、「彼(クリス)の心からの声を語らせてくれた。映像からは最長刑を求める声は聞こえなかった」とも指摘しました。
最終的にホルカシタス被告には懲役10年6か月(検察の求刑は9年半、ABC15報道による)が言い渡されています。
この出来事は「前例が確認されておらず、アメリカでは初の試みと見られています」と各メディアで報じられており、AI技術の法廷利用をめぐる新たな議論を呼んでいます。
目次
- 殺人被害者がAI化して語ったメッセージ
- 被害者のAIはいかにして作られたか?
- AIが証言する倫理的な問題について
殺人被害者がAI化して語ったメッセージ
AI動画が上映されたのは、量刑を決める公判の終盤でした。
傍聴席には遺族や友人、メディア関係者がおり、AIが話しかけるのを待ちました。
再生ボタンが押されると、スクリーンにはクリストファー・ペルキーさんそっくりのデジタル映像が現れ、澄んだ声が響き渡ります。
以下は、AI化した今は亡きクリストファー・ペルキーさんが法廷で語ったスピーチの要約です。
こんにちは。これをご覧の皆様に念のためお伝えしますが、私はAIによって私の写真と音声プロファイルを使って再現されたクリス・ペルキーです。今日は、私がどんな人間だったか、法廷で他人によって描写された姿ではなく、私自身のありのままの姿を伝えるためにデジタル再生されました。皆さん、今日はここに来てくださって本当にありがとうございます。
私のために声を上げてくださった方々、遠方から駆けつけてくださった方々、この長い法廷闘争の間、私の家族を支えてくださった皆様に心から感謝します。今日、皆さんと直接お会いできたらどんなに良かったでしょう。
ラング判事、本件を最後まで審理してくださりありがとうございます。延期により娘さんの春休みと重なったにもかかわらず、時間を割いていただき感謝いたします。また多くの方々が書いてくださった被害者等意見陳述にもすべて目を通していただき、一つひとつの陳述が私とそれぞれの方との思い出の断片を示してくれています。
私を撃ったガブリエル・ホルカシタスさん、あの日あのような状況で私たちが出会ってしまったことは本当に残念です。別の人生であれば、私たちは友達になれていたかもしれません。私は「赦し」と、そして赦しを与えてくださる神様を信じています。今も変わりません。
家族へ、そしてこれまで出会ったすべての人たちへ。本当に素晴らしい人生でした。皆さんと過ごした時間はどれも本当に楽しかったです。人がどれだけ長く生きられるかは誰にもわからないからこそ、お互いに愛し合ってください。一日一日を大切に、生きてください。途中でつまずいてしまっても大丈夫。神様があなたを支えてくれます。年齢を重ねられるということ自体、誰もが得られるわけではない贈り物です。だからどうか年を取ることを恐れずに、シワなんて気にしないでください。
以前、スマホのアプリで自分の顔を年老いた姿に変えるフィルターを試したことがあります。何年も前にいとこにも見せました。「もし年を取る機会があったら、自分は将来こんなふうになっていたのかな?」と想像するのに最高の写真でした。
今日ここに来てくださり、本当にありがとう。皆さんが想像している以上に、大きな意味を持っています。さて…これから釣りに出かけます。みんな、大好きだよ。また“向こう側”で会いましょうね。
映像が終わると、法廷内には言葉を失ったような静けさがしばらく続きました。
トッド・ラング判事は「I loved that AI. Thank you」と述べ、映像からクリスさんの “赦し” が伝わってきたと語りました。
遺族の多くは目に涙を浮かべて傍聴席で寄り添う様子がみられました。
こうして“AIによる死亡してしまった被害者のスピーチ”という米国初の試みは終わりました。
被害者のAIはいかにして作られたか?

ステイシー・ウェイルズさん(ペルキーさんの姉)は、法廷で自分が読む言葉だけでは弟の人柄を十分に伝えられないと感じ、「弟本人に語らせよう」と発想しました。
そこで彼女はソフトウェア業界で働く夫のティム・ウェイルズさん、家族ぐるみで交流のある友人スコット・イェンツァーさんに協力を依頼します。
制作チームはまず、弟が生前に残していた約4分半のホームビデオから雑音の少ない音声片を切り出し、AI音声クローンに学習させて「ほぼ本人に近い声」を合成しました。
映像側は、正面を向いた一枚の写真を用い、帽子のロゴやサングラスを消し、長いひげを短く整えるなど細部を手作業でレタッチしたうえで、画像アニメーションAIで口元と表情を動かしました。
スクリプト(台本)はステイシーさんが「昔ながらに手書き」で起こし、生成AIには一切任せていません。
こうして仕上がった約4分間の映像は、静止画アニメーションと音声クローンを組み合わせただけのシンプルな仕組みですが、見る人に「クリスがそこにいる」と感じさせる迫真さを備えていました。
制作期間はわずか数日間で、「深夜まで細部を調整して笑い声や呼吸音まで差し込んだ」とチームは振り返っています。
アリゾナ州法では被害者等意見陳述の形式に制限がないため、家族はジェシカ・ガトゥーソ弁護士を通じて事前に裁判所へ相談し、上映の許可を正式に得ました。
判決前日の夜、ガトゥーソ弁護士に完成版を見せたところ「法的にも問題なく、むしろ示すべきだ」と後押しを受けたといいます。
当日、約10人の親族・友人が順番に法廷で語り、AIで再現された“クリス本人”の映像が最後に流されました。
上映を許可したトッド・ラング判事は「家族の意図は理解できる」と述べ、傍聴席にはすすり泣きが広がりました。
映像を見終えたウェイルズさんの14歳の息子は「もう一度おじさんに会えて声を聞けてよかった」と母に伝え、家族にとっても大きな癒やしになったといいます。
AIが証言する倫理的な問題について

今回のAI被害者映像は、裁判所に新たな感動をもたらした一方で、法廷におけるAI技術の利用範囲について様々な議論を巻き起こしています。
ホルカシタス受刑者の弁護人ジェイソン・ラム弁護士は、判決直後に刑を不服として即座に控訴(上訴)しました。
ラム弁護士はラム弁護士はABCの取材に対し、「AIで被害者を“よみがえらせ”、本当に言ったか分からない言葉を口にさせるのは問題だ」と述べ、今回の映像は「不正確な作り物」であり、被害者の口に他人の言葉を入れる行為だと批判しています。
陪審を経た有罪評決自体は事実に基づくものですが、このAI映像が量刑判断に影響を及ぼしたか否かについて、上級審で争点となる可能性があります。
実際ラム弁護士は、控訴審では「判事がAI映像にどれほど依拠して量刑を決めたか」が問われるだろうと指摘しています。
法律家や技術の専門家からは、今回のケースに対する評価は概ね慎重ながら肯定的です。
AIの法廷利用を研究する研究者も、「多くの場合、AI生成の証拠は誤解や偏見を生む可能性があり、有害になり得る」とし、重大な法的問題は生じていないとの見方を示しています。
アリゾナ州最高裁のアン・A・スコット・ティマー首席判事(法倫理・新興技術専門)も、「被害者本人の声を代弁しようとする今回のようなケースは、AIによる虚偽映像利用の中では最も許容し得る部類だ」と述べています。
AI映像を法廷で流すこと自体はアリゾナ州法に反しておらず問題ないとの見解です。
ただしティマー首席判事は「同様の技術が悪意ある目的に使われる可能性もある」と警鐘も鳴らしています。
実際、米国の裁判所では近年AI技術の活用が広がりつつあり、判例検索や書面作成へのAI利用から、裁判所が判決要旨を自動生成して公表するといった試みまで行われ始めています。
今回のような被害者の声の再現は極めてユニークな例ですが、専門家は「ビデオが陪審ではなく判事に向けて提示された点」がポイントだと指摘します。
判事は職務上、感情を排して公平に量刑判断を下す経験を積んでおり、映像の感動的なメッセージも冷静に位置づけて受け止めることが期待されるからです。
もしこれが陪審員に向けたものであれば、感情に左右されて公平な評決を妨げる「偏見的な証拠」と見なされて排除されていた可能性も高いでしょう。
今回は「赦し」を求める声がAI化されましたがAIが「厳罰を希望する声」を代弁した場合、事態はより複雑になると考えられます。
また今事例はAIアバターが発言する内容を遺族が手書きで作成しましたが、遺族がAIを使ってAIアバターに言わせたいことを作成した場合には、ある意味で「AIが人間の量刑に影響を与える」という側面もみられるようになるでしょう。
AIが作成した文章を被害者をかたどったAIが読み上げ、そをれを裁判官や陪審員が被害者等意見陳述と認めて評価し量刑に影響する……という将来ありえそうな構図に、拒否感を抱く人もいるかもしれません。
さらに「深層偽造(ディープフェイク)」技術の進歩と拡散に対する司法界の不安も根強くあります。
AI技術の専門家たちも、「多くの場合、AIで作られた“本物ではない証拠”は、誤解や偏見を生む恐れがあり、危険だ」と指摘しています。
現に2023年には、ニューヨーク州で弁護士不在の男性が自作のAIアバターをビデオ会議で法廷に出現させ、裁判官に即座に見破られるという出来事も報告されています。
全米的にも、AIが司法にもたらす影響に対処するための動きが始まっており、連邦裁判所のパネル(協議会)がAI生成証拠の規制策を検討し始めるなど、各州の法曹協会もAI利用の倫理指針を整備しつつあります。
今回のアリゾナ州での試みについて、関係者からは肯定的な声が多く聞かれました。
判決を見届けた遺族側の弁護士ガトゥーソさんは「法に照らしても正当な手続きだった」と評価し、上訴審でも判決は支持されるはずと述べています。
またウェイルズさん自身「AIで弟の姿と言葉を甦らせたことは家族の心の癒やしになり、私にとっても前に進むための大きな助けになった」と語っています。
ただし彼女は同時に、「もし他の人が同じことをするとしたら、私利私欲ではなく誠実な目的で行ってほしい」とも注意を促しました。
今回のように遺族の愛情に根ざしたケースは極めて特殊で善意的ですが、これが先例となって今後はより複雑な場面でAIが法廷に持ち込まれる可能性も否定できません。
司法がAI技術とどう向き合っていくべきか、そして被害者や加害者の権利とのバランスをどう保つか――。
クリス・ペルキーさんの“デジタルな声”が投げかけたこの問いに、法曹界はこれから慎重な答えを模索していくことになりそうです。
以下は参考資料になります
Family creates AI video to depict Arizona man addressing his killer in court reuters.com
A tale of murder, artificial intelligence, &forgivenessnpr.org
AI-generated video gave victim a voice at his killer’s sentencing in Arizonaapnews.com
AI of dead Arizona road rage victim addresses killer in courttheguardian.com
How AI Allowed Road Rage Shooting Victim to Address His Killer from Beyond the Gravepeople.com
Chris Pelkey’s AI-generated victim impact statement draws criticismfox10phoenix.com
He was killed in a road rage shooting. AI allowed him to deliver his own victim impact statement.thedailyrecord.com
Deepfake of deceased man gives his own impact statement in courtengadget.com
He was killed in a road rage shooting… AI allowed him to deliver his own victim impact statement halifax.citynews.ca
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部