アメリカのメリーランド大学(UMD)で行われた研究によって『虚数時間』が物理現象として実験的に検出されたと発表されました。
これまで研究者たちは、波が物質中に留まる時間の「虚数の成分」は数学的には現れるものの、実際に測定可能な現象ではないと考えてきました。
しかし今回の研究により、この「虚数時間の遅れ」がパルス波形の周波数変化という形で現れることが示され、数学的な概念が実際の物理現象に対応していることが明らかになったのです。
つまり「虚数時間」はもはや机上の空論ではなくなり、マイクロ波という身近な波動現象において、その存在と効果が実証されたのです。
研究チームは「虚数時間成分を直接測定したのは世界初であり、長年謎めいていた現象に物理的な意味づけを与えることができた」と述べています。
研究者たちは「虚数時間遅れの存在を実験的に示したことで、その概念に初めて直接的な物理的意味(物理現象)が与えられた。」と述べています。
しかしなぜ虚数軸にある数値が現実で測れたのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年6月3日に『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- そもそも虚数時間って何?
- “√−1 秒”を捕らえた!マイクロ波が暴いた『虚数時間』の正体
- 虚数時間で何が変わる?
そもそも虚数時間って何?

「虚数時間」と聞くと、まるで実在しないおとぎ話のように響きますが、じつは物理学の数式の裏側ではよく顔を出す概念です。
通常の時間軸をまっすぐ進むかわりに、数学的にはその軸を九十度ひねって“虚数方向”に回転させると、波を表す複雑な振動方程式が静かな指数関数に変わり、計算が一気に楽になります。
スティーブン・ホーキング博士がビッグバンの特異点をなだらかにするために導入したのもこの方法です。
ホーキング博士は、宇宙が生まれた瞬間に存在するとされる“無限に小さく無限に熱い点(特異点)”をそのまま扱うと数式が暴走してしまうため、時刻をそっと九十度回して「実時間」を「虚数時間」に置き換えるという工夫をしました。
こうすると、尖った一点だったビッグバンが雪玉の頂上のように丸くなり、無限大が姿を消して数式が穏やかに動くようになります
ただし、その「ひねった先の時間」は腕時計では測れないので、長らく“計算専用の裏舞台”と見なされてきました。
この“腕時計に映らない時間”が、実は身近な電磁波の世界にもこっそり入り込んでいる――そう示唆するのが虚数時間の「時間遅れ(タイムディレイ)」という考え方です。
時間遅れ(タイムディレイ)を簡単に言えば、波がトンネルの中でどれだけ足踏みしてから出てくるかを示す“寄り道時間”です。
光やマイクロ波は真空では一直線に進みますが、ガラスや金属のような物質に入ると一部のエネルギーを吸収されたり反射されたりして、出口に到達するまでわずかに遅れます。
この遅れを数式できちんと定義したのがウィグナーとスミスです。
2人は遅れ時間をギリシャ文字の τ(タウ) と名づけ、「出口が入口よりあとに出てくれば プラス、逆に山(ピーク)が先に顔を出したように見えたらマイナス」というルールにしました。
マイナスになると「光より速く抜けたの?」と驚きますが、じつはそうではありません。
後ろから来た波どうしがちょうど重なり合うせいで、いちばん高い山だけが少し前へずれて見える錯覚にすぎないのです。
ところが理論を突き詰めると、この τ には実数成分だけでなく虚数成分も隠れている場合があるとわかりました。
2016年に浅野氏らが発表したモデルはその代表例で、物質の中を通る光やマイクロ波の波形を詳細にシミュレーションしたところ、計算の中にしか存在しないはずだった虚数時間が“目に見える痕跡”を残す可能性があることがわかったのです。
具体的には、波が物質内で受ける遅れを表す量 τ(タウ)を詳しく調べてみると、私たちがストップウォッチで測れる“実際の遅れ”に加えて、数式の中にもうひとつ“目には見えない遅れ”がひそんでいることがわかりました。
これは時計には映らないので虚数の遅れと呼ばれますが、ただの計算上のツールではありません。
数式によれば、この隠れた遅れがあると、波のエネルギーが集まる中心周波数がほんのわずかに高い側へ押し上げられたり、逆に低い側へ引き下げられたりする――いわば“色合い”がかすかに変わる現象が起こるはずだと予測できたのです。
ただ当時は実験的な検証が難しく、またそもそも実際に観測できるとは考えられていませんでした。
虚数は虚数であり、実数の世界に顔を出すことはないとする考えもありました。
しかし理論物理学者の間では、虚数時間も何らかの形で波動現象に影響を及ぼしている可能性が指摘されていました。
そこで米メリーランド大学の研究チーム(イザベラ・ジョバネリ氏、スティーブン・アンラッジ氏ら)は、この虚数時間の遅れの予言を実験で検証することに挑みました。
彼らの目的は、虚数時間の遅れが現実の波動伝搬に測定可能な効果を及ぼすかを明らかにすることでした。
もしこれが確認できれば、「虚数時間」という抽象的な概念にも物理的実在としての意味があることになり、世紀の大発見となります。
“√−1 秒”を捕らえた!マイクロ波が暴いた『虚数時間』の正体

虚数時間の遅れが実数の世界にも「観測」できるのか?
答えを得るため研究チームは、電子レンジでもおなじみのマイクロ波を用いて虚数時間の遅れの効果を探りました。
舞台となったのは リンググラフ と呼ばれる輪っか状の同軸ケーブルでした。
研究者はこの輪のスタート地点から、釣鐘形(ガウシアン形)の短いマイクロ波パルスを“列車”に見立てて発車させ、ひと回りしてゴール地点に戻ってきたとき、波の“色”に当たる周波数と“到着時刻”の両方をスタート時とぴったり突き合わせ、ほんのわずかなズレまで見逃さないようにしました。
研究チームはまず、輪状のケーブルに入った波が出口に出るまでに、どれくらい時間的に遅れたかを数値で表しました。。
波をさまざまな色(周波数)で流し込み、入り口と出口での振幅や位相の違いをまとめた“散乱行列S”という成績表を作り、そこから伝搬遅れを表す複素数 τ_T を導き出します。
この τ_T は実数部分と虚数部分の二つで構成された複素数で
- 実部 Re[τ_T] → パルスが前後にどれだけ「横ズレ」するか(時間シフト)
- 虚部 Im[τ_T] → パルスの中心周波数がどれだけ「縦ズレ」するか(周波数シフト)
……という対応関係が理論で予言されていました。
そして実験を行った結果、予想どおりの数値が続々と出現します。
たとえば出力パルスの中心周波数は入力時よりもごくわずかに変化しており、出口で測った波の「色」(中心周波数)を拡大鏡でのぞくと、入力よりほんのひとかけらだけ高い側に寄っていました。
このごく小さな色のずれ Δω を、数式に現れる“虚数の遅れ”から前もって計算してみると、驚くほどぴたり同じ値になり、目に見えない時間が周波数の変化としてそのまま姿を現したのです。
(※5.27 GHz(5270 MHz)を中心とするパルスでは、出力時に約4.8×10^5 Hz(約0.00048 GHz)ほど中心周波数が高くシフトしました。これは中心値の約 0.009 % に相当し、虚数時間の遅れの成分(Im(τ_T))から理論的に予測されるシフト量と一致していました。)
一方、パルスの到達時間のズレ量(およそ −8 ns の先行〈負の時間遅れ〉)は時間遅れ τ_T の実部(Re[τ_T])から導かれる値と対応していました。
つまり、虚数成分と周波数シフトの対応を初めて定量的に裏付けられたのです。
実験ではパルスの帯域幅を変えたり、リンググラフの共振モードから離れた周波数で試験するなど様々な条件で検証が行われました。
その結果、どの場合でも虚数時間の遅れが示す予測値通りに中心周波数がずれることが確認され、理論との整合がとても良いことが示されています。
虚数時間で何が変わる?
今回の研究により、これまで観測不可能だと考えられていた虚数時間の遅れを現実の観測機で捕らえることに成功しました。
そして虚数時間の遅れという概念は単なる計算上の産物ではなく、測定可能な物理量であることが証明されました。
研究チームも「虚数の時間遅れの想像上の存在を、パルスの周波数変化という現実の現象に直接結びつけたことに本研究の新規性がある」と強調しています。
言い換えれば、複素数の時間遅れに物理的な意味を与えることに成功したということです。
これは波動や光学の分野において、従来見過ごされてきた側面に光を当てる成果と言えます。
では、なぜマイクロ波パルスの周波数がずれるのでしょうか。
その物理的メカニズムについて、研究論文では興味深い解釈が示されています。
それによると、虚数時間の遅れがもたらす周波数シフトは、波がより吸収の少ない周波数帯へわずかにずれる傾向を持つといいます。
実験系では、特定の周波数成分が強く吸収されますが、シミュレーションではパルスの周波数がわずかにシフトし、吸収の小さい領域にずれる可能性が示されました。
これは波が「吸収による遅れ」を打ち消すよう振る舞うとも言え、結果的に負の時間遅れ(波のピークが見かけ上早く現れる現象)と表裏一体の関係にあります。
こうした振る舞いも虚数時間の遅れが現実に作用している証拠と言えるでしょう。
今回の研究は基礎的な物理現象の解明ですが、その波及効果も期待されます。
例えば、複素時間遅れを用いた波動の制御という新たな手法につながる可能性があります。
論文では、得られた知見により「周波数領域で得た複雑な散乱情報から時間領域での波の挙動を予測することが容易になる」と述べられ、光からマイクロ波まで広い周波数帯で測定手法の簡素化や新しい波動制御法への展開を示唆しています。
また今後、より複雑な系(モードが重なり合う場合や増幅がある場合、非線形性が強い場合など)でこの関係が成り立つか、さらには反射波における虚数時間の遅れや非相反系での時間遅れへの応用など、多くの研究展開が考えられるとされています。
私たちが日常的に使う電子レンジのマイクロ波の中にも、目には見えない虚数の時間が潜んでいるかもしれない――そんなロマンとともに、本研究は波動物理学に新たな1ページを刻みました。
元論文
Physical interpretation of imaginary time delay
https://journals.aps.org/prl/accepted/10.1103/nnk7-xy4v
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部