ドイツのユストゥス・リービッヒ大学ギーセン(JLU)で行われた研究によって、ネコからうつる寄生虫トキソプラズマ(T. gondii)が、人間の精子の「頭」にあたる部分をわずか5分で奪い去る――そんな衝撃的な実験結果が発表されました。
さらにマウス実験では、感染後わずか2日で寄生虫が精巣と副睾丸に到達し、生きた状態で存在していることが確認され、男性不妊の潜在的リスクが初めて直接示されたのです。
あなたの身近にも潜むこの「静かな寄生虫」は、世界的に減少する精子の質・量にどれほど影響しているのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年5月3日に『The FEBS Journal』にて発表されました。
目次
- 見落とされていた感染リスク
- 5分で起きた“首切り”ショック
- 不妊のパズル、最後のピース?
見落とされていた感染リスク

男性の精子の数や質はこの半世紀で大きく低下しているとの報告があり、男性不妊は世界的な課題となっています。
しかしその原因は未だ十分に解明されておらず、肥満や食生活、有害物質への曝露など様々な要因が指摘される一方で、感染症の影響はこれまで見過ごされがちでした。
例えば淋菌やクラミジアなどの感染症は精子に悪影響を及ぼし得ることが知られていますが、日常的によくある寄生虫感染については議論に上ることは少なかったのです。
こうした中、世界で最もありふれた寄生虫の一つであるトキソプラズマ(T. gondii)に注目した研究チームがあります。
トキソプラズマは主にネコの糞便を介して広がる単細胞の寄生生物で、世界人口の30~50%が持っているとも言われるほど一般的です。
人間を含む温血動物の体内に入ると各種臓器の中に潜伏し、一度感染すると体内(筋肉、脳、心臓など)にシスト(嚢胞)を形成して一生潜み続ける厄介な性質を持ちます。
健康な人では初期感染で目立った症状が出ないことも多いものの、免疫が低下した人や妊婦が初めて感染した場合には深刻な病気を引き起こし、流産や胎児の障害、場合によっては命に関わることさえあります。
トキソプラズマは非常に広範な細胞を侵すことができ、「人間や他の哺乳類の体内のあらゆる有核細胞に感染しうる」とも言われます。
1980年代のエイズ流行期には、免疫不全の患者の精巣でトキソプラズマ感染が見つかった例が報告され、この寄生虫が人間の男性生殖器官を狙い得ることが示唆されました。
また動物実験でも、トキソプラズマに感染したマウスやラット、ラム(雄ヒツジ)で精子数の減少や形態異常、精巣機能の低下が起こることが報告されています。
2017年にはマウスの前立腺内にトキソプラズマのシスト(休眠型の寄生体)が形成されることも確認され、さらにはヒトの精液中にもトキソプラズマが存在する可能性が指摘されました。
こうした知見から、「寄生虫が精巣に潜むことで生殖機能に悪影響を及ぼすのではないか」という疑問が生まれ、少人数規模ながらトキソプラズマ感染男性の精液に異常が多いとの調査結果も発表されています。
そこで今回、ドイツ・ウルグアイ・チリの国際研究チームはトキソプラズマが男性の生殖能力に与える影響を詳しく調べる実験を行ったのです。
5分で起きた“首切り”ショック

研究チームはまずマウスを使った動物実験で、トキソプラズマが雄の生殖器官に侵入・定着できるかを調べました。
マウスに寄生虫を感染させたところ、感染から2日後には精巣および精巣上体(精子の通り道で成熟・蓄えられる器官)に寄生虫が到達していることが確認されました。
さらに摘出した組織を別のマウスに接種すると感染が成立し、生殖組織内で寄生虫が生き延びていたことが示されました。
(※増殖している可能性も示唆されています)
すなわち、トキソプラズマは短期間で雄の生殖器官に入り込み、その内部で生存して局所的な炎症や組織破壊を招くのです。
次に研究チームは、ヒトの精子に対してこの寄生虫がどのような直接作用を及ぼすかを調べました。
その方法は極めて簡潔であり、試験管内でヒト精子とトキソプラズマ(急性期の活動的な型であるタキゾイト)を混ぜ、その挙動を経時的に観察したのです。
その結果、寄生虫と出会った精子には驚くべき急激な変化が起きました。
なんと寄生虫と接触後わずか5分で、全精子の22.4%に「頭部がない」状態が生じたのです。
トキソプラズマが精子を首切りするメカニズム
トキソプラズマは精子にぴたりと張り付き、自分の体の先端にある“侵入用ドリル”のような装置を突き立てようとします。すると精子の外側の膜に小さな穴が開き、頭部としっぽを結びつけている「首の継ぎ手」が急激に弱くなります。同時に寄生虫は精子のエンジンであるミトコンドリアにも影響を与え、電気のようなエネルギー電位を一気に下げてしまいます。エネルギーが枯渇した精子はしっかりした構造を保てず、自分で自分を壊すアポトーシスと、細胞が崩れ落ちるネクローシスが同時に進行し、首の継ぎ手が切れて頭だけが外れた状態になります。ポイントは、毒素を遠くから浴びせるのではなく“張り付いて穴を開け、動力を奪う”という二段攻撃で、わずか数分のうちに精子を首なしにしてしまう――これが今のところ最も有力なシナリオです。
通常、ヒトの精子は頭部(核DNAを含む先端部分)と尾部(しっぽにあたる部分)からなりますが、寄生虫と遭遇した精子では頭部と尾部が分離してしまい、いわば精子が文字通り「首切り」にされてしまったのです。
この無頭の精子(頭部の取れた精子)の割合は、寄生虫との接触時間が長くなるほど増加しました。
実際に精子と寄生虫を試験管内で遭遇させた後の様子を顕微鏡で見ると、精子の尾部(しっぽ)がねじ曲がったり、頭部の先端に穴が開いているのが確認できます。
穴の開いた箇所には寄生虫が取り付いており、ちょうど寄生虫が精子に侵入しようとして穿孔した痕跡のように見えます。
生き残った精子も正常な形を保てず、多くが先端部にダメージを負ったり奇形化したりしていました。
さらに寄生虫にさらされた精子は、運動や生存に不可欠なミトコンドリアの機能が10分以内に急速に低下し、活性酸素種(ROS)の増加を伴わないまま細胞死が引き起こされることも示されました。
以上の結果から、トキソプラズマはほんの数分という短時間で精子に物理的・機能的な深刻なダメージを与えることが明らかになったのです。
不妊のパズル、最後のピース?
この研究は、ネコ由来の寄生虫トキソプラズマが男性不妊に関与し得ることを示す初めての直接的証拠だといえます。
寄生虫が精子そのものを傷つけ、「頭をちぎる」ほどのダメージを与えることで、生殖能力を低下させうるという事実は大きな驚きです。
研究チームは「トキソプラズマ感染による精子への悪影響が、近年の世界的な男性不妊傾向に関与している可能性がある」と指摘しています。
実際、今回の結果は寄生虫感染が男性の精子の質を直接低下させる仕組みを示しました。
精巣組織への炎症誘発やミトコンドリア機能低下など、寄生虫が複数のメカニズムで精子機能を損なう可能性も示唆されています。
ただし本研究はマウスモデルと試験管内実験(in vitro)が中心であり、ヒト臨床での影響度はまだ不明です。
ヒトの精巣で寄生虫が見つかる症例(精巣トキソプラズマ症)は極めて稀で、感染していても無症状の男性が大半と考えられます。
また、男性不妊が増加している先進国でトキソプラズマ感染率が同じ期間に上昇しているわけではないことから、この寄生虫は複数ある要因の一つに過ぎない可能性も指摘されています。
過去の疫学研究でもトキソプラズマ感染と男性不妊の関連を支持しない結果があり、さらなる大規模調査が必要です。
それでも、世界中でこれほど多くの人が保有する寄生虫が精子に直接ダメージを与え得るという事実は看過できません。
研究チームは「トキソプラズマ感染症が男性不妊に及ぼす長期的影響を解明するには、ヒトを対象とした詳細な調査が不可欠だ」と強調しています。
今後は不妊治療の現場で寄生虫感染を考慮した診断や対策の検討が進められていくでしょう。
幸い、トキソプラズマ感染はある程度予防が可能です。
感染を避けるため、猫の糞の扱いに注意する(妊婦は猫のトイレ掃除を控える)、生肉や加熱不十分な肉を食べない、野菜や果物をよく洗う、といった対策が有効だとされています。
食品衛生やペットの衛生管理を徹底し、この寄生虫から身を守ることが、将来の生殖能力を守ることにもつながるかもしれません。
元論文
Adverse impact of acute Toxoplasma gondii infection on human spermatozoa
https://doi.org/10.1111/febs.70097
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部