「継続は力なり」「石の上にも三年」など、何事も時間をかけて取り組めば、少しずつ上達していくという考えは、私たちの中に幅広く浸透しています。
自分が何らかの仕事を他人に依頼する場合でも、経験豊富な人にお願いしたいと考えるのは自然なことです。
しかし、詳細に調査を行うと、業種によっては「長年やっても上達しない」ケースが報告されています。
この記事では、「続ければ続けるほど上手くなるはず」という直感に逆らう、ちょっとショッキングな事例を紹介し、そこから見えてくる“本当の上達のカギ”に迫ります。
目次
- 心理療法士と教師は経験年数が能力に繋がらない
- 経験が重要な職業にも、思わぬ落とし穴がある
心理療法士と教師は経験年数が能力に繋がらない

心理療法の分野では、長い間「経験豊富な心理療法士のほうが効果的な治療ができる」と信じられていました。
こうした職業では、様々なクライアントと接し、多くの症例を扱うことで技法が磨かれ、判断力が高まるというのは当たり前のことのように思えます。
しかし、実際の臨床現場では、ある心理療法士のクライアントの改善度が、別の心理療法士と比べて一貫して高いとは限らず、「優秀な心理療法士とは何か」というのが曖昧でした。
またいくつかの小規模な研究では、経験年数と治療効果に一貫した結果が得られておらず、経験豊富なベテラン心理療法士ほど効果的な治療が出来る、という考えについて疑問がでていました。
そこでウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin–Madison)の心理学者サイモン・B・ゴールドバーグ(Simon B. Goldberg)博士らの研究チームは、2016年に「心理療法士は経験を積むことで本当に効果的な治療者へと成長しているのか?」を検証する調査を行ったのです。
彼らは、アメリカ国内の5つの医療施設から6,591人の患者と170人の心理療法士を対象に、治療の前後で患者の心理的症状がどれだけ改善したかを「d値(Cohen’s d)」という統計指標を用いて分析しました。
すると驚いたことに心理療法士は経験年数が増えても、患者の改善効果はほとんど向上していなかったのです。むしろ、ごくわずかに効果が下がる傾向すら見られました。
なぜそのようなことが起きるのでしょうか?
ここには、心理療法士という職業が、仕事の成果に対する正確なフィードバックを得づらい点にあると考えられます。
今回は研究のためにクライアントの治療前後の心理状態が詳細に調査されましたが、通常の臨床現場ではこうした測定は行いません。
心理療法には守秘義務があるため、セッション内容を他者が評価することは通常難しく、患者の状態も本人の主観的な申告に頼らざるを得ません。結果として、心理療法士自身が自分の仕事がどれだけ効果的だったかを把握できず、外部からのフィードバックも受けにくい構造になってしまうのです。
これは何も心理療法士だけに起きる問題ではありません。
別の研究では教育の現場でも、似たような課題があることが報告されています。
ハーバード大学の経済学者ジョナ・ロックオフは、2004年の研究で、ニュージャージー州の小学校教師と約1万人の生徒の標準化テストのデータを用いて、教師の経験年数と生徒の成績向上の関係を調査しました。
この研究では、教師ごとに「その年度に担当した生徒のテストスコアが1年間でどれだけ伸びたか」を測定し、その「伸び」に教師の経験年数がどう関与しているかを統計的に分析しました。
結果として、教師の効果(生徒の成績向上への貢献度)は1〜3年目で急速に伸びるものの、それ以降はほぼ横ばいになることが示されました。つまり、初期の数年間で指導技術は向上するものの、継続的な経験だけでは、それ以上の上達や効果の増加は期待できないというのです。

しかも、この研究は「教師によって生徒の成績の伸びに明確な差がある」ことも示しています。ある教師Aは1年間で平均+10点の成績向上を引き出せるのに対し、教師Bは+15点というように、効果にばらつきがあります。
そして重要なのは、経験を重ねたからといって、その差が縮まるとは限らないという点です。つまり、教師Aが5年、10年と継続して教え続けても、必ずしも教師Bの水準に近づくわけではないということです。
教師の場合、生徒のテスト結果という形で一見明確な成果のフィードバックが得られるように見えます。しかし、実際にはその成績が指導の質によるものか、生徒個別の事情によるものかの判別することは難しく、教師自身が自分の教え方の何が良かったのか、何が問題だったのかを把握するのは容易ではありません。
また、授業は他者の目が届かない閉鎖空間で行われることが多く、客観的なフィードバックを受ける機会も限られています。
そのため教師は学び直しや改善への意欲が薄れる傾向も指摘されており、経験を重ねるほど自己流に走りやすくなると考えられるのです。
このように、フィードバックはあっても、それを活かす仕組みや環境が整っていないことが、教師の成長を妨げる要因の一つになっているようです。
私たちは、経験の長い人を無条件に信頼してしまう傾向がありますが、これらの研究報告は、「経験=上達」という単純な図式で能力を捉えるべきではないことを警告しています。
経験が重要な職業にも、思わぬ落とし穴がある
ここまでの話で「心理療法士や教師のように、人と接する職業だから経験の効果が見えにくいのでは?」と感じた人もいるかもしれません。
たしかに、人間相手の仕事は、成果の測定が難しい側面があります。
では、手術を行う医師や、コードを書くソフトウェア開発者、演奏する音楽家といった「経験が技術の上達に直結しそうな職業」ではどうでしょうか。一見、こうした分野では「続ければ続けるほど上達する」という常識が当てはまるように思えます。
ところが、これらの分野においても、単に経験年数を重ねただけでは、むしろ問題が起きるという研究報告があります。
外科医の世界では、実際に手術を行う経験によって技術が磨かれるのは事実です。複数の研究で、手術件数が多い外科医ほど、患者の回復率が高く、手術にかかる時間も短くなるという結果が出ています。
しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
2005年に『Annals of Internal Medicine』という医学誌に掲載された研究(Choudhry et al.)では、医師の卒業後の年数が増えるにつれて、最新の治療ガイドラインを守る割合が低くなることが示されました。
「治療ガイドライン」とは、様々な報告に基づいて「この病気にはこう治療すべき」という情報が共有されたものです。
若い医師は当然、最新の研究結果やガイドラインを学んでいるのでこれらを積極的に治療に取り入れます。

しかしベテランの医師ほど十分な知識更新をせず、自分が昔学んだ、慣れ親しんだ方法を優先する傾向がでてしまうのです。
その結果、ベテラン医師は患者にとって最も安全で効果の高い治療を選択せず、医療の質が下がってしまうリスクが生まれるのです。
実際2017年に『BMJ(British Medical Journal)』に掲載された研究では、約73万人の入院患者データを分析した結果、60歳以上の医師が担当した患者は、40歳未満の医師と比べて30日以内の死亡率が有意に高いことが報告されています。
研究者はその理由として、「医師が年齢を重ねるにつれて、最新の医学知識や治療ガイドラインに基づく医療を提供する頻度が低くなる」可能性を指摘しています。
ソフトウェア開発の分野でも似たような問題があります。
この分野の技術は極めて速く進化しており、過去の経験だけに頼っていると、あっという間に時代遅れになってしまう可能性があります。
Googleのソフトウェアエンジニア96人を対象とした2024年の研究では、AI支援機能を使用することで、複雑なタスクの完了時間が平均21%短縮されたと報告されており、最新のツールをどれだけ使いこなせるかが、この分野でどんどん重要になる可能性が示されています。
しかし2024年に米国で実施されたDiceの調査では、18〜34歳のエンジニアの約40%が週1回以上AIツールを使っている一方で、55歳以上のエンジニアの半数はまったく使っていないと回答しています。
開発者の年齢が上がるほど最新ツールの利用を避ける傾向があるという事実は、外科医の事例と同様の問題がこの分野で起きる可能性を示唆するものです。
このように、「長くやっているから優れている」とは限らないという問題は、技術分野においても起こり得る者なのです。
さらに意外なことに、音楽の演奏でもこの問題は報告されています。
ピアノやバイオリンなどの演奏者は、何年も練習していると上達すると思われがちです。
しかし、心理学者アンダース・エリクソンが提唱した「意図的練習(deliberate practice)」という考え方によると、ただ同じことを繰り返していても上達しないことが分かっています。
意図的練習とは、「自分の苦手な部分を意識し、それを改善するような方法で練習する」ことです。

エリクソンの研究では、世界的な演奏家とアマチュア演奏者を比較した結果、両者の練習時間の差よりも、練習の「質」と「目的意識」の差のほうが圧倒的に影響が大きかったことが示されています。
つまり、「10年間ピアノを弾いている」ことが、そのまま「10年間分の上達」を意味するわけではないのです。
この理論は、音楽だけでなく、スポーツや医療、学習、さらにはビジネスのスキル開発にまで広く応用されており、「経験年数が長ければ優れているとは限らない」ことを科学的に裏付けるものとなっています。
「ただ続ける」ことの限界
ここまで見てきたように、医師、開発者、音楽家といった分野であっても、ただ続けているだけでは能力は必ずしも向上しません。
むしろ、経験を積んだからこそ陥る罠――「過去のやり方に固執する」「変化を拒む」「振り返らなくなる」といった問題が、見えにくい形で積み上がっていく傾向が示されています。
「継続は力なり」という言葉には励まされるものがあります。
しかし、その継続が本当に力を生むためには、「ただ続ける」だけでは足りないということが、様々な研究報告から見えてきます。
外部からのフィードバックが得られにくく、成果が見えにくい仕事では、自己流のまま慣れてしまうリスクが高くなります。逆に、経験を重ねることで確実に上達が見込める分野であっても、知識の更新や意識的な改善を怠れば、成長は止まってしまいます。
これは「努力とは何か?」ということを考え直させる問題です。
努力が報われるかどうかは、それに掛けた時間でも、がむしゃらに頑張るという根性論でもなく「努力の質」にかかっているのです。
もしあなたが今、何かを続けているとしたら、「自分は成長できているだろうか?」「改善のための工夫をしているだろうか?」と、ぜひ一度問い直してみてください。
継続が本当の力になるためには、「変わり続けること」が求められているのです。
参考文献
Do psychotherapists improve with time and experience?
Do psychotherapists improve with time and experience?
https://div12.org/do-psychotherapists-improve-with-time-and-experience/
元論文
Do psychotherapists improve with time and experience? A longitudinal analysis of outcomes in a clinical setting
https://doi.org/10.1037/cou0000131
The Impact of Individual Teachers on Student Achievement: Evidence from Panel Data
http://dx.doi.org/10.1257/0002828041302244
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部