夜空に輝く星々や、手を伸ばせば触れられる身近な物体――それらが存在する空間は、ごく当たり前に「そこにある」ものだと私たちは考えています。
ところが最先端の物理学では、そんな「空間」そのものが、実は“見えない量子の糸”によって巨大な情報のネットワークとして織り上げられているかもしれない、という驚くべき考え方が浮上しています。
カナダの物理学者マーク・ヴァン・ラムスドンク氏は「量子もつれこそが空間を繋ぎ止める“接着剤”のようなもの」だと述べています。
にわかには信じ難い話ですが、最先端の物理学では「空間そのものが量子もつれなどの量子的現象から生じている」という驚くべきアイデア――「時空エマージェンス」概念が真剣に議論されているのです。
もし空間そのものが量子情報の副産物だとすれば、私たちが「ここ」と感じる場所や「今」と呼ぶ瞬間は、どのようにして立ち現れているのでしょうか?
目次
- 日常に感じる空間と時間は「箱」と「川」?
- なぜ「空間は幻想かもしれない」のか――理論物理が挑む謎
- 量子もつれネットワークで「時空」を再現
- 空間像の大転換がもたらすもの:量子もつれが拓く時空理解の新時代
日常に感じる空間と時間は「箱」と「川」?
私たちはふだん空間と時間をそれぞれ「箱」と「川」のようにイメージしています。
空間は、あらゆる物体や出来事を収める三次元の大きな箱(入れ物)のようなものです。
一方、時間は過去から未来へと一方向に流れる川のようなもので、その流れに沿って物事が因果的に進んでいきます。
このような直感的な理解を、多くの人が持っているでしょう。
古典物理学の父アイザック・ニュートンも、空間と時間は独立に存在する絶対的な舞台だと考えました。
しかし20世紀初頭、アインシュタインはそれまで別物と思われていた空間と時間が実は密接に結びついた「時空」という概念で記述できることを示しました。
アインシュタインの一般相対性理論によれば、重い物体によってこの時空という“ゴムシート”が歪められることで重力が生まれます。
こうした発見により、空間と時間はそれ自体がダイナミックに振る舞うものだと分かりましたが、それでも「空間が存在すること」自体は疑われてはいませんでした。
私たちの直感では、宇宙に何があろうと空間そのものは単なる器としてあり続け、時間もただただ刻々と過ぎていくものです。
しかし、現代物理学の挑戦はこの直感をさらに揺さぶります。
量子力学と相対性理論という2大理論を融合させて宇宙の根本原理を解明しようとする中で、「空間」や「時間」は当たり前にあるものではなく、もっと基礎的な何かから生まれた二次的な現象(=創発現象)かもしれないという見方が浮上してきたのです。
これはいったいどういうことでしょうか?
なぜ「空間は幻想かもしれない」のか――理論物理が挑む謎
空間が根本的な実体でないとしたら、一体どうして物理学者はそんな突飛な考えに至ったのでしょうか。
その背景には、宇宙の極限状態における未解決の謎が存在します。
ひとつのヒントはブラックホールです。
ブラックホールは非常に大きな質量が極限まで凝縮された天体で、その重力のあまりの強さに一度中に入ったものは光すら出て来られません。
ブラックホール内部では時空の構造が大きく歪み、物理法則が私たちの知る形では通用しなくなってしまいます。
とりわけ不思議なのは、ブラックホールが持つ情報の量(エントロピー)が、その体積ではなく表面積に比例して増えていくという理論上の予言でした。
あたかもブラックホール内部の情報はすべて表面に貼り付けられているかのようだ――この洞察は、ヤコブ・ベッケンシュタインやイギリスの理論物理学者スティーヴン・ホーキング、オランダの物理学者ゲラルド・トフーフトなどの研究から浮かび上がり、さらにレオナルド・サスカインド氏によって「ホログラフィック原理」として理論的に整えられたのです。
サスカインド氏はその著書の中で「我々の身の回りの三次元の世界はホログラムであり、遠く離れた二次元の表面に符号化された現実のイメージなのです」と述べています。
少し難しく言えば、ホログラフィック原理の研究を通して「重力に支配された三次元空間」と「二次元の量子論の世界」が数学的に等価(双対)であることが発見されたのです。
つまり、私たちが「ここだ」と感じている空間の内側は、実はもっと次元の低い情報が描き出した投影像(ホログラム)にすぎないかもしれない、というわけです。
三次元空間こそが宇宙の器だという従来の常識にとって、実は二次元で事足りるという結果は、空間の普遍性を疑わせるものでした。
さらに決定的だったのは、量子力学の奇妙な現象である量子もつれです。
量子もつれとは、本来離れた場所にある複数の粒子が、互いの状態をあたかも瞬時に知り合っているかのように強く結びつく現象です。
アインシュタインが「遠隔幽霊作用」と呼んだように、このもつれは従来の因果の概念を超えており、空間的な距離を超越した関連性を生み出します。
2010年、先述のヴァン・ラムスドンク氏は、この量子もつれこそが空間を繋ぎ止める「接着剤」ではないかと示唆しました。
彼の研究による計算機上の実験では、ある仮想的な宇宙を2つの部分に分け、両者の量子もつれの量を徐々に減らしていくと、ついにはその空間がふたつに裂けて完全に分断されてしまったのです。
逆に言えば、十分に量子もつれた状態では空間は一体となり、連続した時空の構造が現れることになります。
この結果は、「量子もつれが空間の構造を生み出している」という大胆な見方を強く後押しするものでした。
実際、「量子もつれこそが時空の布地(織物)である」という表現すらあります。
これは、一見バラバラな粒子たちをつなぐ量子的な糸が縦横に絡み合うことで、まるで織物のように空間という“布”が織り上げられる、というイメージです。
量子もつれネットワークで「時空」を再現
同じころ登場した超弦理論(ひも理論)もまた、空間について奇妙な示唆を与えました。
超弦理論では宇宙は10次元(空間9次元+時間1次元)で記述されるとされ、私たちの目に見える三次元以外の次元は極めて小さく巻き込まれている(コンパクト化している)と考えられています。
ただし、理論の種類によっては11次元を想定するM理論などのバリエーションもあります。
ワシントン大学の若手研究者ナタリー・パケット博士は、この余剰次元を「育てる(grow)」という不思議な発想の研究を行っています。
どういうことでしょうか。
パケット博士によれば、まず空間中のあらゆる点に小さな輪っか状の「余剰次元」がくっついているところを想像します。
それらの輪っか(円)をどんどん縮小していくと…ある段階で奇妙な転換が起こり、それ以上縮めようとすると逆に新たな大きな次元が出現してくるのです。
まるで手前にあって小さく見えていたものが、実は遠くにある巨大なものだったと気づくような“次元版の錯視(パースペクティブ)”とも言えます。
実際に超弦理論では「極小の次元」と「巨大な次元」が数学的に等価になることが示されており、空間次元の概念自体が相対的であると考えられます。
私たちは三次元を“当たり前”のものと思っていますが、別の視点から見ればまったく異なる姿に映る可能性があるというわけです。
そして何よりも近年注目されているのが、量子情報の観点から時空を捉え直そうとする試みです。
キーワードは再び量子もつれですが、それを量的に測る指標として知られるエントロピー(もつれの強さ)を用いて、空間の距離やつながりを定義しようという研究が進んでいます。
例えば、ある2つの粒子がお互いに強く量子もつれを起こしているとき、それらの粒子がたとえ銀河の端と端にあるほど離れていても、隣り合った点として扱えるかもしれない、という発想です。
逆にもつれがまったくなければ、それらは遠く離れた無関係な点になります。
このアイデアでは、宇宙全体を満たす見えない「量子もつれのネットワーク」こそが空間の骨組みを形作っていることになるのです。
量子コンピュータの理論で用いられるテンソルネットワークという手法も、この仮説のヒントになりました。
テンソルネットワークとは量子多体系の状態を表現するグラフ構造(点と線のネットワーク)ですが、研究者たちはそのネットワーク図形がホログラフィー原理で予言される宇宙の時空構造と対応している可能性を示唆しています。
まさに、量子もつれの“糸”で編まれたネットが空間の形を描き出しているイメージです。
こうして最先端の理論物理では、空間は「最初から存在する箱」ではなく、もっと基礎的な情報の関係性から“立ち上がる”現象だという考え方が広がりつつあります。
では時間はどうなのでしょうか。
実は時間についても同様に、それ自体が何かから創発した可能性が議論されていますが、空間以上に謎が深いとされています。
ヴァン・ラムスドンク氏は「時間もまた何らかの形で創発しているはずだ。
しかしこれについてはまだよく分かっておらず、現在も活発に研究が行われています」と述べています。
空間像の大転換がもたらすもの:量子もつれが拓く時空理解の新時代
空間そのものが実体ではなく情報から生まれたものかもしれない――この発想は私たちの世界観に大きな転換を迫ります。
もし時空が創発的だとすれば、宇宙を理解する上で「どこで?」「いつ?」といった問いが根源的には意味をなさない可能性すらあるのです。
極論を言えば、「ここ」とか「そこ」、「今」とか「未来」といった概念は、人間が日常経験するマクロな世界の便宜的な表現に過ぎず、ミクロな真理のレベルでは存在しないのかもしれません。
こうした思想は哲学的な響きを帯びますが、同時に物理学者たちは非常に実際的な課題としてこの問題に取り組んでいます。
それは、量子力学と重力理論を統合した究極の理論(いわゆる「すべての理論」)を打ち立てるための鍵が、この時空エマージェンスに隠されていると考えられるからです。
現在、時空創発の考え方はブラックホール研究をはじめ様々な分野で成果を上げつつあります。
たとえば近年の研究では、従来はSF上の存在だったワームホール(時空の抜け穴)の具体的なメカニズムがホログラフィーと量子もつれの枠組みで解明され、理論的には人や情報が通り抜け可能なワームホールさえ許されることが示唆されました。
さらに驚くべきことに、2022年にはGoogle社の量子コンピュータ上で、ごく小規模ながらホログラフィー原理に対応する仮想空間を再現し、そこに量子もつれによる「プチ・ワームホール」を実現したとの報告もあります。
これらは直接私たちの暮らしに影響を与えるものではありませんが、宇宙の成り立ちへの理解を飛躍的に深める成果として注目されています。
「空間は幻想かもしれない」という一見突飛なアイデアは、決して荒唐無稽な妄想ではなく、最新の理論物理から導き出された帰結のひとつです。
もちろん、この仮説が正しいかどうかはまだ分かりません。
現時点では数学的・理論的枠組みの中で得られた示唆的な結果が積み重なっている段階であり、それを実験的にどう検証するかは始まったばかりです。
それでも、「時空はどこから来るのか?」という問いに答えが得られれば、物理学の最大の未解決問題である量子重力理論の完成にぐっと近づくでしょう。
そして何より、私たち人類の「現実」に対する見方そのものが大きく変わるかもしれません。
身の回りの空間が、実は見えない量子の糸で織り上げられた巨大な情報のネットワークだとしたら――あなたはこの世界を今までと同じように見続けられるでしょうか。
科学者たちの挑戦は、私たちにそんな想像を抱かせるほどダイナミックに展開しているのです。
参考文献
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部