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黒人サムライ神話、ほぼ“後付け”だった――最新研究が暴いた江戸時代からの“盛り設定”


韓国の水原大学で行われた研究が、一般に知られる"黒人サムライ"弥助のイメージが江戸時代の脚色に基づいている可能性を指摘しました。史料における弥助の姿は、名や階級が不詳の"黒坊主"として描かれているのみで、のちに江戸時代の写本『尊経閣本』において"サムライ"としての要素が追加されたとされます。この研究は、現存する70以上の写本を分析し、弥助のイメージがどれほど改変されたかを評価することで、彼の実像を問い直しています。

織田信長の傍らに立つ“黒人サムライ”弥助――そのエキゾチックなヒーロー像は書籍やゲーム、Netflixアニメまで飛び火し、いまや世界中に浸透しています。

ところが、韓国の水原大学(UoS)で行われた研究がこの定説に待ったをかけました。

決定的根拠とみなされてきた江戸期写本〈尊経閣本〉にある「名前・扶持・脇差授与」といった“サムライ要素”は、後世の上書きである可能性が高いというのです。

一次資料に残る弥助の姿は、名も階級も不明の「黒坊主」だけ――それだけでした。

それなら、私たちが信じてきた“黒人武士”像はいったいどこで、なぜ生まれたのでしょうか。

研究内容の詳細は『Journal of International Education』にて発表されました。

目次

  • 写本だらけの迷路を抜けて
  • 黒人サムライとしての「弥助」は江戸時代の脚色が起源だった
  • 黒人侍のイメージは江戸の脚色と現代メディアの増幅で誕生した

写本だらけの迷路を抜けて

写本だらけの迷路を抜けて
写本だらけの迷路を抜けて / Credit:clip studio . 川勝康弘

戦国時代の信長をめぐる記録の世界は、実は「写本だらけの大迷路」と言っても過言ではありません。

現存する『信長公記』だけでも70種類以上が確認されており、その成立年代や筆写された経緯もまちまちです。

なかでも最古系の〈池田本〉や〈陽明文庫本〉は、いわば迷路の入り口にある原点に近い資料。

一方で、江戸時代に徳川家や大名家の意向で書き直された〈尊経閣本〉は、派手な装飾とわかりやすいストーリーを伴って“出口付近”に待ち受ける、いわば観光客向けの大きな看板のような存在です。

ところが、英語圏の研究者やノンフィクション作家の多くは、その目立つ看板(=尊経閣本)だけを見て「信長の時代はこうだった!」と迷路を出てしまい、さらにその情報が世界へ向けて大々的に拡散されるのです。

これでは、まるで「伝言ゲームの最後の人だけが拡声器を持っていた」かのような状態。

結果として「弥助は巨漢で、扶持も脇差も与えられた名だたる武士だった」という話が大きく広まり、独り歩きしてきました。

しかし、最初期の写本――たとえば〈池田本〉など迷路の入り口付近にある資料に目を向けると、そこには「黒坊主」という呼称しか書かれていないのです。

肌が黒く、頭を剃っていた、ただそれだけ。

ところが江戸時代の〈尊経閣本〉になると、「黒坊主」の“主”が削られて「黒坊」と表現されるようになり、そこに「弥助」という姓名や扶持、私宅、脇差授与といった豪華なエピソードがこってりと上書きされています。

つまり、「黒坊主から黒坊へ」と一文字が省かれただけで、本人の役回りまで塗り替えられ、“伝説の人物”へと早変わりしてしまったわけです。

江戸時代には、講談や軍記物でヒーロー像を盛り上げることは珍しくありませんでした。

しかし、その“盛り”を現代の私たちが史実として受け取り、世界中のメディアが「黒人サムライ」の物語を発信しているのは問題だ、と研究者たちは指摘します。

さらに「扶持があるからサムライである」という論法も危険だといいます。

そもそも「サムライが扶持をもらうのは当たり前だが、扶持をもらっている人すべてが武士とは限らない」のです。

戦国期・江戸期には、下働きの者や相撲取りでさえ扶持を受け取っていました。

加えて“六尺二分=約182センチ”という数字も、「実際に測った」というよりは「とても大柄な人」を示す当時の決まり文句で、正確な身長を記録しているとは限りません。

このように、江戸時代に大きく“盛られた”〈尊経閣本〉が、AIの学習データや海外メディアの記事にも引用され、いつの間にか「弥助=黒人サムライ伝説」が地球規模で固定観念になっていたわけです。

ところがこのたび、非改変確率1.3%という数値が出たことで、“黒人サムライ”像の土台が実は砂上の楼閣だったかもしれない、という見方が急浮上しました。

ちなみに、この1.3%という値はベイズ統計(ヘイズ分析)で算出されたもので、複数の写本に含まれる新規エピソードや政治的改変の量を総合的にスコア化し、「どれだけ原本に忠実か」を示す尺度なのです。

それがわずか1.3%ということは……黒人サムライ「弥助」のイメージががかなり危ういことを示します。

その問題意識から今回の研究では、散らばる70点もの写本を相互に照らし合わせ、数理モデルや語彙変遷の比較を用いて「弥助像の原画」を復元することをめざしています。

その成果が、私たちが抱く「黒人サムライ弥助」のイメージを大きく揺るがす可能性は十分にあるのです。

黒人サムライとしての「弥助」は江戸時代の脚色が起源だった

黒人サムライとしての「弥助」は江戸時代の脚色が起源だった
黒人サムライとしての「弥助」は江戸時代の脚色が起源だった / Credit:clip studio . 川勝康弘

研究チームがまず着手したのは、『信長公記』とその周辺史料合わせて七十点もの写本を総点検し、「どれだけ後世の改変が入り込んでいるか」を測ることでした。

ここで研究者たちは、生物学的な“変異”の発想を応用し、写本に加えられた改変をあたかも「ウイルス感染」にたとえて評価する手法を取り入れています。

原本から離れるほど“変異”が生じやすいという考え方をベースに、年代の開きや一次証言の有無、独自のエピソード数などを指標化し、それぞれにスコアをつけました。

そして最後にヘイズ分析を用いて、「どれだけ改変(ウイルス)の侵入を受けていないか」を確率で示したのです。

たとえば戦国当時に最も近い〈池田本〉は、一次証言が多く政治的潤色も少ないため健康状態が良好と判断され、最高ランクを獲得しました。

一方、江戸中期に成立した〈尊経閣本〉は、時代ギャップの大きさに加え、“弥助=サムライ”という要素が唯一無二の“変異”として組み込まれていることが判明し、なんと「非改変確率1.3%」という衝撃的な低評価になったのです。

これは「100ページのうち98ページは後世の書き足し(ウイルス感染)かもしれない」という計算で、同写本が受けた“変異”の大きさを如実に物語っています。

続いて研究者たちは、写本をそれぞれ「単語の化石」と見なし、その呼称や表現の変遷を年代順に辿る語彙年輪テストを行いました。

弥助への言及が、最初は「黒坊主」(黒い肌と剃髪のみ)だったのが、江戸初期には「黒坊」へと文字が簡略化され、最後に江戸中期の〈尊経閣本〉で「弥助」という漢字名や扶持、私宅、飾り短刀といった“フル装備”が一気に加わる――こうした時系列の変化をグラフ化すると、戦国期から江戸期にかけてほぼ平坦だった線が、終盤だけ急に跳ね上がる“異常な変異”として浮かび上がってきたのです。

三つ目の検証は、同じ時代の記録と照合する方法で行われました。

徳川家臣・家忠がつけていた『家忠日記』には、弥助は“くろ男”として極めてあっさりと書かれているだけで、「扶持を授かった」「武士に取り立てられた」という特別扱いは一切見えません。

もし本当に破格の待遇があったなら、几帳面な家忠が書き漏らすはずがなく、この沈黙は「何もなかった」ことを強く示唆するといいます。

こうして改変リスクを測る数理モデル、語彙年輪による盛り上がり度の解析、そして同時代の日記との付き合わせという“三段ロケット”の検証を経てわかったのは、「弥助サムライ説」を成り立たせる核心的なエピソードが、じつは江戸期の〈尊経閣本〉という一冊に集中しており、その写本自体の史実保持率が1割どころか1%台という厳しい評価にとどまる――という事実でした。

生物学のモデルにたとえるならば、サムライ説は“改変ウイルス”に最も侵された個体を唯一の“根拠”としていたわけで、結果的にそこから生まれた物語がいかに危ういかが、改めて浮き彫りになったのです。

黒人侍のイメージは江戸の脚色と現代メディアの増幅で誕生した

黒人侍のイメージは江戸の脚色と現代メディアの増幅で誕生した
黒人侍のイメージは江戸の脚色と現代メディアの増幅で誕生した / Credit:clip studio . 川勝康弘

江戸期にまとめられた〈尊経閣本〉が弥助の姿を大きく“盛った”背景には、単なる脚色好みではなく、徳川政権下の政治的空気が深く関わっていると考えられます。

天下泰平をめざす為政者にとって、「戦国の乱世は過去のもの」というメッセージを伝えるためには、むしろ過去の英雄譚を華やかに描き直すことが効果的でした。

そこで写本の中でも、信長を超人的な存在に仕立て上げ、彼のそばに“異国から来た力自慢の男”を配することで、戦国時代そのものを娯楽性の高い絵巻物へと作り変えたのです。

いわば、弥助は徳川政権が再構築した「豪華な英雄パッケージ」の脇を飾る存在として扱われた形跡があります。

同時に、「扶持さえ与えられていればサムライ扱いである」という誤解が広まったことも見過ごせません。

扶持(ふち)は、米や金銭で支給される生活手当であり、実際には小者や相撲取りなどにも支給されていました。

現代風にたとえるなら「会社の社員証をもらったら、いきなり役員になったと思い込む」ようなもので、江戸期に書かれた写本に「扶持があった」と書かれているだけで、直ちに武士身分と断定してしまうのは早計だという指摘です。

こうした“歴史の上書き”がさらに増幅されたのが、21世紀に入ってからのポップカルチャーとの融合だと言えます。

英語圏のノンフィクション、ゲーム、アニメなどは、きらびやかな〈尊経閣本〉の情報をベースに「黒人サムライ」という際立ったキーワードを世界中へ発信しました。

一方で、日本の歴史学界は地味な一次資料の検証を地道に続けていたため、両者のあいだにはあたかも「学問」と「娯楽」が別の宇宙を生きているかのような温度差が生まれたのです。

今回の研究は、そうした断層を改めて可視化し、「楽しむのは自由だが、史実とはきちんと線を引こう」と提案する意味を持っています。

では、ここから先に残る課題は何でしょうか。

まずは最古系に分類される〈池田本〉などの全文を翻刻し、誰でもアクセスできる形でオープンデータ化することが第一のステップになるでしょう。

次に、AIやオンライン百科事典などへ流れ込む二次情報をフィルタリングし、誤引用が延々と繰り返されるループを断ち切る仕組みづくりが急務です。

そして最後に、海外の読者に向けてあらためて公式翻訳を用意し、戦国期と江戸期の言語差を注釈つきで示す作業も、非常に大きな前進となるはずです。

結局のところ、弥助は確かに信長の前に現れた“黒坊主”であったことは事実と考えられますが、きらびやかな武士道の鎧をまとわせたのは、江戸時代の人々と現代メディアのイマジネーションにほかなりません。

史料という原画に立ち返ってみると、弥助は“力自慢の来訪者”としての素朴な姿が浮かび上がります。

そのイメージをどう受け止め、どこまで物語として広げていくのか――これは今後、私たち読者やクリエイターに委ねられた新たな課題と言えるでしょう。

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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