夜明け前の静寂の中、ふと立ち止まり、あなたは自らに問いかけたことはありませんか?
「私は、他人と違う」と――幼い頃、何気ない日常の中で初めてその衝撃的な感覚に気づいた瞬間を。
たとえば、幼稚園の休み時間、砂場で仲間と一緒に遊んでいるとき、ふと自分だけが違う視点や好みを持っていることに気づいた瞬間があったはずです。
同年代の友だちと遊んでいるうちに、「自分は走るのがちょっと遅い」「あの子は絵を描くのが上手い」といった違いに気づいた瞬間があったかもしれません。
あれこそが、「私はあなたと違う」という意識の萌芽であり、実はこうした区別は、自分が何者であるかを確かめるための“鏡”のような役割を果たしているのです。
社会学や発達心理学の研究では、他者との相違を見出すことで自分自身を客観的に捉える過程が、人間の成長には欠かせないとされています。
「自分」の存在をはっきり認識するためには、「自分ではない何か」が必要なのです。
ですがこの何気ないように思える認知プロセスこそが、数え切れないほどの歴史的闘争や血塗られた対立、さらには現代におけるあらゆる争いの出発点であり、生存戦略として冷徹に進化の中で刻まれた必然の仕組みなのです。
このコラムでは、あなたと私との「違い」が、いかに深く、そして破滅的に我々の闘争を引き起こす根源であるのかを、学術的視点を交えながら解明していきます。
目次
- 私とあなたは違うーーーだから争う
- 歴史が示す「恐ろしい答え合わせ」
- それでも私たちは共存を選べるのか
私とあなたは違うーーーだから争う
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生命の始まりから、私たちは生存のために不可欠な能力―自己と他者を区別する認知―を獲得してきました。
太古の原始の世界、暗闇の中で、わずかな動きや音に反応しなければ、生き残ることすら困難でした。
そこでは、自分が「自分」であること、そして「自分以外」の存在を迅速に見分ける能力が、生命にとって最も重要な武器でした。
獲物を狩る捕食者も、襲いかかる敵も、この瞬間の判断にすべてを委ねていました。
その結果、自己認識が自然の中で急速に進化していったのです(Tooby &Cosmides (1992)、Buss (1995)、Pinker (1997))。
その後の進化の過程で、自己と他者を区別する能力は、さまざまな形で現れ、発達してきました。
例えばアフリカのサバンナを歩くライオンの場合、ライオンは自らの縄張りを厳重に守るため、他の群れの存在を敏感に察知し、時には容赦なく対抗します。
このような行動は、ただ単に「敵」と「味方」を識別するだけでなく、その区別が生存に直結する命運を左右するものであったことを物語っています。
実際、自分と他者を区別する能力がなければ、この世の全ての闘争は成立しません。
私とあなたは違う、私たちとあなたたちは違う、という認知は全ての争いの必要条件なのです。
また、昆虫の世界に目を向ければ、ハチやアリたちは、化学物質―フェロモン―を媒介とした極めて精緻なコミュニケーションシステムを発展させています。
彼らは、自分たちの巣やコロニーを守るため、微細な匂いの違いによって内集団と外部の侵入者を即座に見分け、闘争を開始します。
これらの生物は、自己と他者の区別がいかに闘争に不可欠であるかを、日々の行動に反映させています。
このような進化のプロセスは、今日の私たち人間にも色濃く受け継がれています。
古代の狩猟採集生活で、仲間か否かを迅速に判断することが生死を分ける状況であったように、現代においても私たちは無意識のうちに、他者を「内側(身内)」と「外側(その他)」に分ける認知の枠組みを持ち続けています(Tajfel, H. &Turner, J. C. (1979))。
私たちの心の奥深くに刻まれたこの原初の記憶は、私たちの脳をも変えました。
たとえば、私たちの脳にはアミグダラという小さな部位があることが知られています(LeDoux (1996) や Phelps &LeDoux (2005))。
ここは恐怖や不安を処理する中心的な場所で、外部からの刺激が少しでも「危険」や「違和感」を伴うと、すぐさま防衛態勢を整えようと信号を送ります。
また別のMRIを使用した研究では、自己と他者の違いが脳内で特定の反応を引き起こし、その反応が集団間の対立や敵意の形成に関与していることが示されました(Van Bavel, J. J., Packer, D. J., &Cunningham, W. A. (2008).)。
つまり「私とあなたは違う」と認識した瞬間、人類の脳内では自動的に敵意が形成されることがわかったのです。
ある意味で、人間は人間というだけで、既に闘争の第一条件が満たされてしまっているとも言えるでしょう。
さらにこの仕組みは、社会生活や文化の中でも大きな役割を果たしています。
社会心理学者タジフェルやターナーの研究(Tajfel &Turner (1979) 、 Turner (1987))によれば、人は自分を「所属する集団(内集団)」の一員として認識し、その枠組みの中で連帯感や共感を育む一方、内集団に属さない「外集団」には無意識の警戒心や敵意を持ちやすくなります。
たとえば、通勤電車や学校のクラス、職場での自然な集団形成は、このプロセスの典型例です。
しかし、現代社会においては、その自動的なフィルターが時として誤解や偏見、対立の火種となります。
また地域コミュニティに新たに加わった人々に対し、「よそ者」として無意識に距離を感じる現象は、まさにこの認知プロセスが働いている結果です。
あるいは職場で新しい人が入ってきたとき、つい「うちのやり方とは合わないかも」と排他的な目で見てしまうことはないでしょうか?
こうした“心の線引き”が、闘争や対立の大きな引き金になり得るのです。
また積極的な闘争という形を取らない場合でも、「私とあなたの違い」は重大なネガティブな反応を引き起こします。
2015年に発表された研究(Cikara, E. (2015))では、この研究は、集団間で「自分たちとは違う」者に対して感じる不快感や敵意が、他者の不幸に対する喜び(シャーデンフロイデ)として現れ、さらにそれが集団暴力を促進する要因となり得ることを実証しています。
近年の日本でも、都会から遠く離れた村にやってきた医者を、嫌がらせの末に追い出してしまった例などが知られています。
大病院から遠い地域において「村の診療所」がどれほど有益かは言うまでもありません。
しかし、私たちの脳は理性的な判断よりも、自分たちと違う存在を追い出すことを選んでしまったのです。
そして人類の歴史もまた「私とあなたは違う」ことをもとにした闘争の歴史で埋め尽くされています。
歴史が示す「恐ろしい答え合わせ」
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歴史の教科書をめくると、国、民族、宗教の違いを口実にした大規模な紛争や戦争の惨劇が、血塗られた記録として刻まれているのが分かります。
その背後には、常に「彼らは自分たちとは異質である」「彼らは我々の生存と利益を脅かす存在だ」という認識が潜んでいました。
例えば、ヨーロッパ中世の十字軍遠征は、表面上は宗教的対立に起因するかのように見えますが、その奥底には「異教徒は脅威となる外集団だ」という冷徹な意識が支配していました(Riley-Smith, 2005)。
イスラム世界とキリスト教世界の間に引かれた境界線は、互いの「正義」主張を煽り、戦争という惨劇を拡大させる燃料となったのです。
もちろん、権力欲、領土の野望、経済的利権などの複雑な要因も絡み合っていましたが、その根底にあったのは「異質な存在を徹底的に排除せよ」という、心の動きでした。
大航海時代から植民地時代にかけ、先住民への無慈悲な虐殺もまた、彼らが「自分たちとは違う」存在として認識された結果です。
実際、過去には先住民は「動物」に近い野蛮で未開な存在として描かれていました。
近代においても、この残酷な構図は色あせることなく続いています。
20世紀に台頭したナショナリズムは、「自国の民族が最も優位である」という思想のもと、数多の血なまぐさい衝突を引き起こしました(Anderson, 1983;Browning, 1992)。
ナチス・ドイツが掲げた人種差別的イデオロギーは、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、障がい者などを「異なる」存在として断罪し、大量虐殺という暗黒の歴史を生み出しました。
第二次大戦後もこうした傾向は途絶えず、相手との違いを強く意識することが民族浄化の動機とされています。
その根源には、依然として「我々と異なるものは排除(抹殺)されるべきである」という認知が深く根付いていたのです。
人類学の視点からも、ある地域で現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人といった他の人類種が接触すると、わずか1000年未満という地質学的にみて一瞬とされる期間で、相手の痕跡が跡形もなく消滅してしまった事例が知られています。
その結果、現在の地球には道具も言語も使えないチンパンジーは生き残っていても、両方が使えたはずの人類の近縁種は存在しません。
これほどまでに頻発する現象は、偶然の産物ではなく、人類そのものに刻み込まれた性質であると断言せざるを得ません。
では、現代はどうでしょう?
インターネットやSNSが普及し、国境を越えて情報が飛び交う時代になったにもかかわらず、むしろ私たちの「区別する意識」はさらに先鋭化している面もあります。
違う国や文化の人々を簡単に“検索”できるようになった一方で、エコーチェンバー現象のように、自分と似た価値観の人たちだけとつながりが強まる傾向も強くなっています。
「分断」「ヘイトスピーチ」「極端な排他主義」などの言葉を、ニュースで耳にする機会が増えたのも、この数十年の話です。
そして何より“恐ろしい”のは、この仕組みが私たち一人ひとりの無意識の奥底に存在するため、自分のなかにも常にその火種が隠れている、という事実でしょう。
誰もこの火種から逃れることはできません。
違う意見、違う文化背景、違う属性を持つ相手を目にした瞬間に発生した無意識的な反応が、歴史上多くの悲惨な争いを呼び起こしてきた……それが、ある意味で“避けられない真実”なのです。
それでも私たちは共存を選べるのか
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違いの認知が闘争を引き起こすならば、人類は無限に戦い続けなければならないのでしょうか?
半分は、その通りと言えるでしょう。
人類の自分と他者を区別する能力をのものが、既に闘争の下地を作り上げているからです。
しかし、闘争と同じように、人類は他者との協力を続ける本能も備わっています。
自己と他者を意識する認知は、闘争だけでなく他者と協力し合うための「必要条件」にもなっているからです。
実際、もし違いの認識が闘争しか生まないのならば、人類はとっくの昔に、1種類の人種、1種類の民族、1種類の国家しか生き残らないようになっていたでしょう。
他者との協力を必要とする同盟、連合、連邦、国連、二重帝国といった概念も存在しなかったはずです。
しかし、そうはなりませんでした。
現在の地球上には180カ国以上の国が存在し、無数の言語を話す人々で溢れています。
違う部分を認知して殺し合うよりも、同じ部分をみつけて協力するほうが最終出力が高かったからです(Tomasello (2009) 、Bowles &Gintis (2003))。
そして、違う相手からは違う利益が得られることを知れたのも大きなポイントとなったに違いありません。
(※利己的に考えるならば、他者を根絶やしにするよりも、他者を利用したほうがいいことに気付いた……とも言えます)
違いを認識し闘争を引き起こす本能と、違いから利益を得る知恵。
それらは、まるでコインの裏表のように、私たちの中に同居しています。
必然として備わっているこの本能を変えることはできなくとも、その反応や活かし方を変えることは可能です。
この先も、私たちの社会はさまざまな価値観や国籍、文化が入り交じり、かつてないほどの多様性を迎えるでしょう。
闘争か共存か、最終的にどちらを選ぶのかは、その時々の経済・政治・社会情勢の影響も受けつつ、やはり私たちの意志にかかっているのです。
元論文
The neural substrates of in-group bias: A functional magnetic resonance imaging investigation.
https://doi.org/10.1111/j.1467-9280.2008.02214.x
Intergroup schadenfreude: Motivating participation in collective violence.
https://doi.org/10.1016/j.cobeha.2014.12.007
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部