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犠牲者は推定4万5千人!人々は何を恐れて「魔女狩り」をしたのか


中世ヨーロッパで約4万5000人が犠牲となった魔女狩りが、どのようにして起こったのかを探ります。魔女狩りは14世紀から始まり、特にドイツで盛んに行われました。その背景には宗教対立や気候変動、社会不安などがあり、人々は恐怖から魔女の存在を信じました。魔女とされた人々は、かつては地域社会の賢者と尊敬されていましたが、キリスト教支配下で異端とみなされました。老女ばかりでなく若い男性や子供も犠牲者に含まれました。しかし、18世紀には啓蒙思想が広まり、魔女狩りの非合理性が暴かれ、社会は次第にこの狂気から脱却していきました。

その昔、ヨーロッパの地には黒き影が漂っていました。

すなわち、魔女狩りです。

魔女狩りによって多くの人が命を落とすこととなりましたが、その詳細についてはあまり知られていません。

どうして魔女狩りが起こったのでしょうか?またどのような人が魔女であると考えられていたのでしょうか?

この記事では魔女狩りがなぜ起こったのか、魔女はどのようなことをしていると考えられていたのか、どういう人が魔女とされたのかについて紹介していきます。

なおこの研究は、奥田紀代子(2005)『史実の「魔女狩り」 : 魔女の幻影に怯えた人々』独逸文學49巻p. 245-268に詳細が書かれています。

目次

  • 推定4万5000人の魔女を殺害した中世ヨーロッパ社会
  • シャーマンに近い存在と考えられてきた魔女
  • 男性も魔女と認定されて殺されることがあった

推定4万5000人の魔女を殺害した中世ヨーロッパ社会

火炙りにされている魔女、中世ヨーロッパで魔女とされた人は火炙りにされた
火炙りにされている魔女、中世ヨーロッパで魔女とされた人は火炙りにされた / credit:Wikimedia Commons

魔女狩りの狂騒は、一様に広がったわけではなく、地域ごとに波がありました。

最初の魔女裁判は14世紀から15世紀初頭にかけて、フランスやスイスで幕を開けたのです。

中でもドイツの熱狂ぶりは特筆に値します。

ある研究者によれば、魔女裁判の犠牲者は4万5000人に及び、その四割がドイツに集中していたとのこと。

さて、なぜドイツは魔女狩りの巣窟となったのでしょうか。

その理由は多々あります。

宗教対立、気候変動、三十年戦争、小国の乱立など、不安定要素が折り重なった結果、人々の心には恐れが染みついたのです。

なお、カトリックとプロテスタントでは魔女の定義が微妙に異なりました。

カトリックは、災厄をもたらす実害ある魔女の存在を認めたものの、プロテスタントはこれを神の試練と捉え、魔女を神への冒涜者としたのです。

しかし、両者とも「魔女は根絶すべし」という点では一致していたのだから、魔女にとってはどちらも地獄であったことに変わりはありません。

だが、時代は理性を求め始めます。

18世紀になると、啓蒙思想が広まり、魔女裁判の正当性が揺らぎ始めたのです。

科学の発展が魔術の幻想を覆い、社会もまた混乱を脱し、魔女を生贄とする必要がなくなりました。

こうして、狂気の時代は幕を閉じ、最後の魔女狩りは18世紀末、スイスとポーランドにて行われたのです。

シャーマンに近い存在と考えられてきた魔女

『魔女に与える鉄槌』題扉、魔女狩りにおけるバイブルであった
『魔女に与える鉄槌』題扉、魔女狩りにおけるバイブルであった / credit:Wikimedia Commons

それでは魔女狩りの対象となった魔女とはどのような存在だったのでしょうか?

魔女ははじめから迫害の対象であったわけではなく、古代においてはヨーロッパの片隅で薬草を操り、星の導きを読んで静かに暮らしていたのです。

彼女たちは人々の病を癒やし、産声を聞き届け、豊穣を願う儀式を行う賢者でありました。

そのようなこともあって静かなる畏敬の念をもって迎えられていたのです。

ところが時代が移り、唯一神を奉じるキリスト教が世界を覆うと、これらの魔女たちは一転して異端とみなされる運命を辿ります

精神が肉体を凌駕し、男が女に優位たるべしという思想のもと、魔女はもはや尊敬の対象ではなく、恐怖の象徴となりました

民衆にとって親しみ深かった魔術の担い手は、悪魔の眷属としての烙印を押され、やがて魔女狩りという狂乱の時代が幕を開けたのです。

15世紀の終わり、異端審問官たちは『魔女への鉄槌』なる書物を著し、悪の根源は女性にありと断じました。

曰く、女とは信仰心が薄く、悪魔に魅入られるものであり、しばしば新生児を捧げ、邪悪なる魔術を働くものだと。

この恐るべき言葉は瞬く間に広まり、魔女裁判はヨーロッパの各地で繰り広げられることとなります。

しかし、魔女狩りの炎を煽ったのは、宗教だけではありませんでした。

人々は自らの不幸を隣人の幸福のせいとし、時に嫉妬と恐怖から、村の誰かを魔女として訴えたのです。

牛乳を奪う魔術、病をもたらす呪い、嵐を呼ぶ力——そんな根拠のない疑いが、人々の間にまことしやかに囁かれ、恐怖が恐怖を生む悪循環が生まれました。

こうして、異端とされた賢者たちは裁かれ、拷問の果てに自白を強要され、火刑台に立たされました

やがて、狂気の嵐が去ったとき、人々はようやく気がつくのです。

彼女たちは本当に魔女だったのか、それともただの知恵を持つ女性たちだったのか——と。

男性も魔女と認定されて殺されることがあった

クリスティアン・トマジウス、ドイツ啓蒙主義の父としても知られる
クリスティアン・トマジウス、ドイツ啓蒙主義の父としても知られる / credit:Wikimedia Commons

かくして、魔女狩りという狂乱の宴は、幾度も波を繰り返しながらヨーロッパを席巻しました。

1630年頃の嵐が去ったかと思えば、1660年頃にまたもや第三波が襲来し、説教者シュピッツェリウスなる男は『暗闇の破られた力』なる書物をもって、魔女と子供たちの関係を熱心に論じたのです。

もはや犠牲者は老女ばかりではなく、少年魔術師と認定された若い男性も次々に処刑される奇怪な時代が訪れました。

この頃、ドイツのカルフでは、子供たちが我こそは魔女なりと名乗りを上げ、互いを魔女と告発するという異様な出来事が巻き起こりました

魔女狩り推進派は、「子供の自白こそ魔女理論の確固たる証拠である!」と息巻き、ますます事態は混迷を極めます。

しかし、理性の光はこの闇を裂きました。啓蒙思想家トマジウスが『魔術の悪習についての概説』を発表し、「魔女など妄想に過ぎぬ」と論破したのです。

そして人々は気づきました。魔女とは、子供たちの口から生まれ、子供たちの口によって葬られる存在ではないかと。

かくしてヨーロッパの魔女狩りは終焉へと向かっていったのでした。

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参考文献

関西大学学術リポジトリ
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/13998

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部

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