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鏡の世界にいる『鏡像細菌』は絶対に誕生させてはならない【共同声明の発表】


科学者たちは、既存の生物とは鏡像の関係にある「鏡像細菌」の研究が強く非難されるべきであると警告しています。鏡像細菌は、通常の生物の消化酵素や免疫システムに対して非常に強い耐性を持つため、自然界での制御が困難です。こうした生物が広まれば、生態系を乱し、既存の生物群に壊滅的な影響を与える可能性があります。ノーベル賞受賞者を含む研究者たちは、この領域の研究や資金提供を各国政府が即刻禁止するよう求めています。技術的には医薬品開発などでの応用が期待されているものの、生物そのものの生成が地球に未曾有の危機をもたらすリスクがあるため、慎重な対応が必要です。

私たちが知る生物界とは異なる「もう一つの生命」が生まれつつあります。

それは通常の生物分子の左右をそっくり反転させた鏡像分子から作られた「鏡像細菌」と呼ばれる存在です。

現在の地球に存在する捕食者の消化酵素や免疫システムは彼らに歯が立ちません。

もし彼らが自然界へと放たれたなら、現在の生態系を根底から揺るがしかねない大惨事となるでしょう。

2024年12月12日付けで、科学誌「Science」に掲載された声明では、ノーベル賞受賞者を含む38名からなるチームが「鏡像細菌(ミラーバクテリア)」の創造を目指す研究や、それを支援する資金提供を各国政府は即刻禁止すべきだと強く訴えています。

この論文の著者で、エール大学の免疫学者ルスラン・メジトフ氏は「こうしたリスクは、いくら強調してもし過ぎることはありません」とし「もし鏡像バクテリアが動物や植物に感染して広がった場合、地球上の広大な環境が一気に汚染され、命にかかわる影響をもたらしかねない」と述べています。

同じく著者の一人で、2019年にノーベル化学賞を受賞したシカゴ大学のジャック・ショスタック氏も「その結果は、これまで私たちが直面してきた問題をはるかに凌ぐ壊滅的な事態を招く恐れがあります」と述べています。

研究者たちは、これら危険を未然に防ぐためにも、法的規制によってこのような研究自体を禁止すべきだと主張しています。

なぜ研究者たちはこれほど鏡像細菌の誕生を恐れているのでしょうか?

目次

  • 今はまだ鏡の世界にだけ存在する「鏡像細菌」
  • 互いに喰い合えない「第二の生命の樹」

今はまだ鏡の世界にだけ存在する「鏡像細菌」

鏡像とはどういう意味か?

生命に必須な分子は、左右の「手」のような鏡像関係を持つ2種類が存在します。

鏡像関係にある分子は、一見すると同じように見えますが、左右の手のように決して重なることがありません。

特に生物の世界では偏りが決定的であり、自然界に存在するDNAは「右巻き型」で、アミノ酸やタンパク質は「左利き型」のみが使われていることが知られています。

この組み合わせは地球上すべての生物に共通する特徴であり、そうではない生命は存在しないと言われています。

良く言われる説としては、「全生命の祖先となる地球最初の生命が誕生したとき、その生命がたまたまDNAが右巻き型でアミノ酸やタンパク質が左利き型だった」というものがあります。

鏡像関係にある分子は性質もほぼ同じことが知られており、最初の生命が逆を選ぶ可能性も十分にあったかもしれないからです。

左側のDNAモデルを見ると右回りの回転をしていることがわかります
左側のDNAモデルを見ると右回りの回転をしていることがわかります / Credit:Canva . 川勝康弘
既存の生命のアミノ酸やタンパク質は左利き型です
既存の生命のアミノ酸やタンパク質は左利き型です / Credit:Canva . 川勝康弘

しかし近年、合成生物学者たちは、この「左右」をひっくり返すことに成功しており、右利きアミノ酸を組み合わせて鏡像タンパク質を作り出しています。

合成生物学は、生命システムを「設計し直す」学問領域です。

自然界で進化した生物の仕組みを分子単位で理解し、その遺伝子や代謝経路を自由に組み替えることで、自然には存在しない機能や特性を持つ生物を創り出そうとします。

これによって、従来のバイオテクノロジーでは困難だった新薬・新素材の開発などが可能になると期待されています。

また合成生物学の究極の目標の1つに、人工的に無から生命を構築する「生命創造」も含まれています。

そのため体内の全ての生体分子が鏡像関係にある新生命の創造も合成生物学では注目される分野となっていました。

その結果、いくつか興味深い事実も判明しています。

例えば、鏡像細菌を形作る鏡像タンパク質は、既存の生物の酵素では容易に分解されず、体内に長くとどまる性質があることが示されています。

生物の酵素は特定の構造を認識することで効率がいい反応を引き起こしますが、既存の酵素は全て左利きタンパク質を認識するように作られている為ため、鏡像となる右利きタンパク質を上手く認識できないからです。

この特性は新しい医薬品開発に有利であり、HIVやアルツハイマー病といった疾患の治療を、より長時間作用する薬剤で行える可能性を秘めています。

また2022年には、中国の研究者が「鏡像遺伝子」を読み取り、「鏡像RNA」を産生する鏡像酵素の開発にも成功しました。

この酵素があれば、適切にDNAを設計することで、さまざまな種類の鏡像細菌を作成できるようになります。

専門家は、こうした技術が10~30年後には完全な「鏡像生命」創造へと発展し得ると予想しています。

シドニー大学の化学者リチャード・ペイン氏は、「鏡像生命体の誕生は、この分野の究極の目標です」と期待を語ります。

しかし、この可能性は同時に重大なリスクもはらんでいます。

鏡像細菌を絶対に誕生させてはいけない理由

通常の細菌とは正反対の化学的性質を持つ鏡像細菌は、自然界での天敵や捕食者に対して驚くべき耐性を発揮します。

鏡像細菌は天敵となるアメーバなどが有機物を消化・分解する際に使う分子が効かないため、捕食に対して極めて強い耐性があるからです。

もし鏡像細菌(鏡像セル)が川や土壌に紛れ込めば、誰も捕食や消化ができないため、その増殖を食い止める生物はいません。

(※鏡像細菌を食べた天敵たちも鏡像細菌からエネルギーを得ることはできません)

結果として環境には既存の生物が使えない右利きアミノ酸や右利きタンパク質が増加し、在来種を餓死に追いやったり、生態系そのものを支配する危険性があります。

進化生物学者ディーパ・アガシ氏は、このような環境破壊と生態系混乱が「かつてないほど壊滅的な影響をもたらし得る」と警告しています。

生態学的観点から見ると、鏡像バクテリアは全生命にとっての侵入種(外来種)のように振る舞うことで生態系を混乱させる可能性があります。

さらに問題なのは、鏡像細菌が突然変異と進化を経て、厄介な脅威へと変貌する可能性があることです。

私たちの免疫システムは「右利きDNA」や「左利きタンパク質」を前提としているため、その逆手である鏡像生物を簡単に見分けられません。

そのため現在の地球に存在する捕食者や免疫システムは、理論上、彼らに対処できない可能性があります。

植物さえも、鏡像細菌を感知することができず、打つ手がない状態になるでしょう。

鏡像分子を持つ生物を消化するのは困難です
鏡像分子を持つ生物を消化するのは困難です / Credit:Canva . 川勝康弘

研究室に備えられた安全機構は、リスク低減に役立つ一方で、ゼロにすることはできません。

実験室での事故やヒューマンエラー、そして意図的な悪用によって、鏡像生物が拡散される可能性は消せないのです。

技術が兵器として利用されれば、対抗手段の乏しさから、人類は前例のない危機に直面するかもしれません。

(※もし鏡像の左手型タンパク質分子で構成された人間が生成されてしまった場合、その人物は通常の右手型タンパク質で構成された人間との間に子供を残せない可能性もあります)

専門家は鏡像バクテリアを攻撃する「鏡像ファージ」ウイルスなどの対策を検討していますが、それでも不十分な可能性が高いといいます。

新たな「鏡像抗生物質」の開発も議論されていますが、鏡像パンデミックが起きた後では手遅れになるかもしれません。

そのため、研究の規制や監視が、今求められているのです。

互いに喰い合えない「第二の生命の樹」

現時点で、鏡像細菌はまだ鏡の世界に留まっています。

しかし、もし彼らが現実世界に解き放たれれば、既存の生物圏内では見られなかった新たな生化学的経路が活性化し、やがては既知の生命樹とはまったく独立した「第二の生命の樹」が根付く可能性があります。

この新たな生命体系は、通常の微生物群が担ってきた分解・循環プロセスとは異なる代謝経路によって物質を変換し、従来の生態系が利用できない有機分子や無機資源を、別の形へと組み上げていくかもしれません。

結果として、地球全体の生化学的バランスが一変し、従来の生物圏に属する生物がアクセスできなかった形の資源プールや栄養経路が新たに定着する可能性があります。

異なる生命の樹に属する生命は互いを食べることができない
異なる生命の樹に属する生命は互いを食べることができない / Credit:Canva . 川勝康弘

こうした「第二の生命の樹」は、既存の食物連鎖とは交わらないため、エネルギーや元素循環の流れも独自のパターンを獲得するでしょう。

たとえば、海洋深層や地下水脈、極地氷床下といった極限的な環境下で、従来種とは全く異なる酵素反応や環境適応戦略を発達させることで、新生命圏が孤立した「生態的ポケット」として拡散・進化し続ける可能性もあります。

また第二の生命の樹で誕生した病原菌が、既存の生命の免疫システムでは対処できないパンデミックを引き起こす可能性もあります。

異なる生命の樹に属する生命にとって相手側は完全な競争相手であり、理論的には、バイオマスを減らせば減らすほど、自分が属する樹を広げることができます。

つまり鏡像細菌の出現は、生態系をより過酷な場に再編成してしまう危険性も秘めているのです。

ただし、鏡像生命ではなく鏡像生体分子の研究のほうは、大きな恩恵となる可能性を秘めています。

医薬品や材料科学、基礎研究への応用は、生きた鏡像生物を生み出さなくても実現可能です。

そうした分子レベルの応用に焦点を当てることで、技術革新をもたらしつつリスクを最小限に抑えることも可能になるでしょう。

科学者たちは、ミラーバイオロジーの潜在力を最大限に引き出しつつ、その最悪のシナリオを回避すべきだと結論しています。

かつて人類は、核兵器の危険性について危惧していたアインシュタインをはじめとする研究者たちの声明を無視し、戦争で核を使ってしまいました。

結果、予想もつかない核兵器の毒性を体験することになります。

同じ過ちを繰り返さないためにも、著名な研究者たちの声明には耳を傾けるべきでしょう。

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元論文

Confronting risks of mirror life
https://doi.org/10.1126/science.ads9158

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

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