「頭の外の消しゴム」いえ、ハンマーの話です。
アメリカのジョージタウン大学(Georgetown University)で行われた研究により、頭部打撃による記憶喪失をマウス実験で回復させることに成功しました。
実験ではマウスたちの頭部に対して高頻度頭部衝撃(HFHI)実験を行い記憶喪失が実際に発生することを確認しました。
高頻度頭部打撃は1回1回の打撃は決して強くなく致命的なものではありませんが、打撃が繰り返し続くことで脳に大きな影響を与えます。
その後、記憶が蓄積されている細胞群(記憶エングラム)に対して強制的な活性化を行い、記憶回復が起こるかどうかを調べました。
その結果、特定の脳細胞を活性化させたマウスたちで記憶の回復が起きていることが明らかになりました。
また記憶が蓄積されている細胞群の様子を頭部打撃を受けていないマウスと比較したところ、記憶喪失の原因はニューロンの死ではなく、ニューロンが記憶形成のために接続すべき相手を見失っている「接続障害」が原因であることが明らかになりました。
この結果は頭部打撃による記憶喪失が起きても記憶そのものは脳内に保持されているものの、上手く引き出せなくなっていることが原因であることを示しています。
しかし「接続障害」とは具体的にどのような状態なのでしょうか?
電気回路で起こるショートやネットの通信障害と本質的に違うものなのでしょうか?
研究内容の詳細は『The Journal of Neuroscience』にて「頭部への繰り返しの衝撃による記憶喪失は、記憶エングラムのシナプス可塑性の低下によって引き起こされる(Amnesia after Repeated Head Impact Is Caused by Impaired Synaptic Plasticity in the Memory Engram)」とのタイトルで公開されています。
目次
- 頭部打撃による記憶喪失を実験的に再現
- 失われた記憶は脳回路の活性化によって復活する
頭部打撃による記憶喪失を実験的に再現
頭部損傷による記憶喪失は、映画やドラマなどでしばしばみられます。
交通事故などで記憶を失ってしまった恋人に、どう接したらいいか葛藤する場面は、切なさを感じさせずにはいられません。
しかし近年の研究により、頭部損傷による記憶喪失は事故のような大イベントによらずとも、身近なスポーツでも発生することが明らかになってきました。
たとえばヘディングを多用するサッカー選手やアメリカンフットボールの選手が試合中に経験する頭部への軽い衝撃も、慢性認知症や記憶障害を引き起こすことがわかってきました。
しかしこのような「脳震盪未満」の衝撃がどのようにして記憶障害を引き起こすのか、そして失われた記憶を回復させることができるのかは、十分にわかっていません。
映画やドラマなどでは、脳を活性化させるような「劇的な場面」で記憶を取り戻すようなシーンが描かれていますが、果たしてそのような手段で記憶回復が起こり得るものなのでしょうか?
そこでジョージタウン大学の研究者たちは、マウスに対して繰り返し頭部に打撃を与える記憶喪失実験を行い、その後マウスの脳を強制的に活性化させることにしました。
今回もまず実験全体を4コマで示しつつ、その後に詳細なメカニズムの紹介を行いたいと思います。
頭部打撃による記憶喪失は回復するのか?
記憶喪失はニューロンの死による取り返しがつかないものなのか?
回復するとしたらそれはどんな手段を使えばいいのか?
謎を解明すべく研究者たちはまず、マウスたちに恐怖記憶の刷り込みを行いました。
マウスたちはまず3分ごとに2秒間の強烈な電気刺激を与える部屋(恐怖条件付けチャンバー)に入れられ、恐怖を記憶させられました。
同じ部屋に再びマウスを入れると、マウスたちは恐怖によって凍り付くフリーズと呼ばれる現象を引き起こします。
人間が恐怖によって動けなくなるように、マウスも恐怖を連想させる部屋をみせられると記憶を呼び起こされ、動けなくなってしまうのです。
次に研究者たちはマウスを2グループにわけ、一方のグループの頭部に対して高頻度頭部衝撃(HFHI)を与えました。
高頻度頭部衝撃(HFHI)は1回1回の打撃は強くありませんが、何度も打撃を繰り返すことで、脳に重大な影響を及ぼします。
(※実験では6日間に渡り合計30回の頭部打撃が行われました)
すると通常のマウスたちは恐怖記憶を呼び起こす部屋(恐怖ハウス)をみせられるとフリーズ反応をみせるものの、頭部打撃を受けたマウスたちは反応が全くなかったり著しく弱いことが示されました。
この結果は頭部打撃を受けたマウスには記憶喪失が起きていることを示しています。
次に研究者たちは、マウスの記憶喪失を回復させられるかを実験しました。
失われた記憶は脳回路の活性化によって復活する
今回の実験に使われたマウスたちはどれも事前に脳の遺伝子を操作されており、光をあてられるとその部位の脳活動が活発化するようになっていました。
研究者たちはマウスの頭蓋骨にドリルで穴をあけ、マウスの記憶が蓄えられている「記憶エングラム」に対して光(レーザー)を照射しました。
記憶エングラムとは特定の記憶に対応して脳内で起こる一連の物理的変化を指す概念です。
わかりやすく言えば、特定の記憶を収めた細胞セットのようなものと言えるでしょう。
今回の実験の場合、恐怖記憶を植え付けられる前と後のマウスの脳を比較すると、ニューロンの接続状態が物理的に変化して、特定の細胞群(細胞セット)において電気生理学的な変化が起こることが確認されています。
言葉を変えれば「恐怖ハウス」と名付けられた細胞セット(記憶エングラム)がニューロンの再配線によって脳内に出現した状態と言えます。
近年の脳科学の急速な進歩により、特定の記憶を持つ前と後での脳回路の微妙な変化を検知できるようになってきました。
記憶エングラムの形成や変化を検知する技術は記憶のありかを突き止めるための重要な技術とされています。
もし頭部打撃が記憶エングラムを形成する細胞群を死滅させてしまっているならば、その部位を活性化させても記憶は戻って来ません。
しかし研究者たちがマウスの脳を分析したところ、頭部打撃の前後でニューロンの総数に変化が起きてないことが確かめられます。
実際、今回の実験でも、記憶エングラムを作る細胞群を活性化させられた記憶喪失マウスたちは、恐怖記憶を復活させ、恐怖ハウスに対して通常のマウスを同じフリーズ反応を起こすことが確認されました。
このことは、高頻度頭部衝撃に起因する記憶喪失は、該当する記憶回路のピンポイントの活性化によって回復することを示しています。
さらに研究者たちが頭部打撃を受けたマウスたちの脳を分析したところ、記憶エングラムを形成するニューロンに異常が起きており、記憶エングラムニューロンと非記憶エングラムニューロンの区別が上手くできなくなっていることが示されました。
記憶を形成するニューロンは適切な相手と回路を形成することで、特定の記憶(記憶エングラム)を形成します。
もしニューロンが記憶と関係ないニューロンと接続してしまうと、記憶を形成する回路に障害が発生し、記憶の形を維持できなくなってしまいます。
再び細胞セットで例えるならば、細胞セットに収められていた導線がどこに繋がるべきかを見失い、全く関係ない記憶の細胞セットに接続してしまっている状況と言えます。
このような接続の無秩序化は、ネットワークの形を乱し、情報への正常なアクセスを阻害します。
つまり記憶を形成する母体となるニューロンのセットが全て健在であっても、ネットワークが滅茶苦茶になれば、記憶は取り出せなくなってしまうわけです。
今回の研究では、このような状態にあるマウスに対して、記憶エングラムを形成する細胞群の活性化が試みられ、結果的に記憶が蘇りました。
このことは、接続が乱れてしまっても、記憶を担う細胞群が高度に活性化させられる状況になれば、脳は配線を組みなおして、記憶エングラムを復元できることを示しています。
映画やドラマでは恋人に関連した強いショックによって、恋人の記憶が蘇るシーンがみられますが、このようなシーンは脳科学的にみても、あながち間違えとは言えないのかもしれません。
研究者たちは今回の研究成果が、頭部への衝撃によって記憶障害に悩まされている人々の治療薬開発にとって有益だろうと述べています。
参考文献
Amnesia Caused by Head Injury Reversed in Early Mouse Study
https://gumc.georgetown.edu/news-release/amnesia-caused-by-head-injury-reversed-in-early-mouse-study/
元論文
Amnesia after Repeated Head Impact Is Caused by Impaired Synaptic Plasticity in the Memory Engram
https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.1560-23.2024
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部