世の中には奇妙な美意識が存在しますが、中国の纏足はその最たる例でしょう。
纏足は女性が子どもの頃より足に布を巻かせて足が大きくならないようにするという風習であり、中国を舞台にした作品などではしばしば取り上げられることがあります。
どうして中国では纏足が定着したのでしょうか? また当の女性自身はどう捉えていたのでしょうか?
この記事では中国の奇習である纏足の歴史や方法について紹介しつつ、纏足を行っていた女性自身がどう捉えていたのかについて取り上げていきます。
なおこの研究は、淀千春(2024)「纏足の意義―纏足体験者の口述を中心に」中国語中国文化2024 巻21号p. 169-193に詳細が書かれています。
目次
- 古よりあった小さな足への憧れ
- 理想の足のサイズは9センチ
- 憧れと嫌悪が入り混じった、女性たちの纏足観
- 名実ともに痛みを伴うものであった、纏足からの解放
古よりあった小さな足への憧れ
纏足の起源については諸説あるものの、小さい足は古の頃から中国で好まれていました。
時を遡ること3世紀、詩人たちは妖精や娘たちの軽やかな足取りに魅せられ、5世紀頃には「小さな足」が詩の中でロマンチックに歌われていました。
9世紀、『酉陽雑俎』に収録された葉限の物語は、小足が美の象徴として描かれた一例です。
そして10世紀の宮廷では、踊り手たちの足が布で縛られ、そのしなやかな姿が称賛されました。
やがてこの風習は宮廷の女性たちの間で広まり、13世紀には官僚階級の妻や娘にも定着したことが発掘品から判明しています。
しかし、纏足が社会全体に浸透するのは明代以降です。
この時代の家父長制の中で、纏足は女性の謙虚さと忍耐を象徴し、良家の息子にふさわしい花嫁像を形作る手段となりました。
小さな足は美しさだけでなく、道徳的な資質までも表現するとされたのです。
また足に巻く布の材料となっている木綿の生産が広がると農村部にも浸透し、清代末期まで広範囲で続きました。
廃止への道は19世紀末から始まりました。
変法運動(清末期に行われた、西洋の制度を学んで中国の制度も改革しようとする運動)を機に士大夫(中国の知識階級)たちが纏足を批判し、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)が設立した不纏足会が声を上げたのです。
中華民国時代には孫文や蔣介石が禁止令を出し、西欧的価値観が「時代遅れの伝統」に終止符を打つ助けとなりました。
さらに戦乱や文化大革命を経て纏足は完全に姿を消したのです。
こうして、中国の「小さな足」は歴史の彼方へと歩み去ったのです。
理想の足のサイズは9センチ
それでは纏足はどのように行うのでしょうか? 纏足の方法は、幼子の足首を布で固く縛り、無理やり成長しないようにして変形させるものです。
なんと理想のサイズは三寸、わずか約9センチ。
甲高を折り、指を押し曲げ、時には骨を砕くという壮絶さ。
美の追求とはかくも過酷なものでした。
そんな悲劇の足を飾るのが「纏足靴」です。
これがただの履物ではないのが面白いといえます。
絹や綿を基調に、色鮮やかな刺繍が施され、履く者の品格を表す芸術品となりました。
靴作りは代々受け継がれ、婚約の贈り物に使われることも。
靴のデザインには家族の愛や祈りが込められ、女性たちのコミュニティで特別な意味を持っていたのです。
纏足の痛みの影には、この靴のように華やかで繊細な物語が広がっていたのです。
憧れと嫌悪が入り混じった、女性たちの纏足観
このように纏足は物凄い痛みを伴うものであり、女性に対する負担は重かったのです。
それでは当の女性自身は纏足についてどう捉えていたのでしょうか?
先述したようにかつての中国の村々においては、小さな足が美しさの基準とされていました。
足の小さいことは、ただ美しいというだけではありません。
嫁ぎ先にて姑の目に適い、家庭の和を保つ要ともなりました。
ことわざにすら「纏足のない嫁は家を揺るがす」とあったというのだから、あながち冗談ではなかったのでしょう。
思い出されるのは、現代におけるハイヒールです。
曰く「纏足はハイヒールと同じだ」との声もあります。
確かに、無理に足を縛り、痛みを耐えてまで美を追求する姿勢には通じるものがあるでしょう。
だが、現代のハイヒールは自らの選択で履くものです。
それに対し、纏足は時に親の命じるまま、あるいは周囲の同調圧力の中で強いられたものでした。
さて、纏足が結婚にいかに関係したかを考えてみます。
当時の結婚は本人の意思など尊重される余地がなく、家族が主導するものでした。
仲人はまず相手の足の大きさを見て、その良し悪しを評価したといいます。
纏足をした女性の足の小ささは、謙譲や道徳性の象徴であり、家庭に順応する証とされたのです。
こうして聞いていると悪しき文化のように感じてしまいますが、現代の価値観で纏足を単なる苦行として否定するのも片手落ちです。
小さな足に憧れを抱き、自ら進んで纏足に臨んだ少女もいたといいます。
例えば、ある少女の物語では、父親が反対し、母親も痛みを見かねて断念させようとしたにもかかわらず、本人は「私は頑固だから」と言い張って纏足を続けました。
周囲の女性たちが纏足をしているのを見て「私もあんな足になりたい」と憧れを募らせた結果です。
その一方で、纏足を忌み嫌う女性たちもいました。
ある女性は「夜な夜な足を縛られた布を緩めた」と語っています。
纏足の痛みは激烈であり、たとえ美への憧れがあったとしても、それを越える苦痛が彼女たちを襲ったのでしょう。
このように、纏足には憧れと嫌悪という二面性が絡み合っていました。
纏足に憧れる者にとっては、それは達成感や自己肯定感をもたらすものだったのです。
一方で、纏足に耐えかねた者にとっては、抑圧と苦痛の象徴でした。
だが、いずれの場合にも、彼女たちの小さな足は社会的な価値を具現化する存在であり、家族の中でも、地域社会でも、その役割を果たしていたのです。
結局のところ、纏足は個人の美意識だけでなく、家族や社会の問題でもありました。
親は纏足を通じて娘に家族の名誉を背負わせようとし、女性たちはその枠組みの中で、苦しみながらも己の価値を見出そうとしたのです。
この複雑怪奇な文化を、ただの過去の奇習として片付けてしまうのは惜しいです。
それは、現代の私たちの美や価値観にも、何かしらの問いを投げかけているように思えます。
名実ともに痛みを伴うものであった、纏足からの解放
しかし1920年代に入ると、状況は一変します。
纏足の伝統が中華民国が主導した「放足運動」という波にさらわれ、一転して解放を強いられる時代が訪れたのです。
この放足運動は単なる通達では済まされず、人を派遣して徹底的に纏足をやめさせるという強制的なものでした。
これまで「纏足しなければならない」という社会規範に縛られていた女性たちは、今度は「纏足を解かなければならない」という別の圧力に苦しむことになったのです。
纏足を解くという行為は、女性たちに新たな痛みを強いました。
何十年も縛られて変形した足が完全に元に戻ることはなく、逆に歩行が困難になる場合もあったのです。
さらに、これまで足を隠すことが「正しい」とされていた社会において、人前に足を晒さなければならないという状況は、女性たちにとって大きな精神的苦痛となりました。
「解くこと」は解放ではなく、また別の形の束縛だったのです。
一方で、この運動の中で地域や世代間の違いも浮き彫りになりました。
都市部では放足が比較的速やかに進行したのに対し、農村部では纏足が美徳とされる風習が根強く残り、結婚に必要とされる場合もあったのです。
また、母親たちが娘に纏足をさせる背景には、伝統だけでなく社会的な圧力があり、その結果、家族間に軋轢が生じることもあったといいます。
しかし、放足運動がもたらしたのは苦しみだけではありませんでした。
教育の普及という恩恵も同時に生まれたのです。
これまで学校に通えなかった多くの女性が教育を受けられるようになり、家の外の世界に触れることで、新たな価値観を得る機会を得ました。
この変化により、家族や小さな共同体の価値観に縛られていた人々が、より広い視野を持つことが可能となったのです。
纏足の廃止は、一つの伝統が終焉を迎えた象徴的な出来事です。
しかし、その過程における苦痛や葛藤を見つめ直すとき、私たちはこの変革が単なる解放ではなく、社会の価値観そのものを揺さぶる試みであったことに気付きます。
それは、山間の風がもたらした痛みと希望の物語です。
参考文献
纏足の意義
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nichidaichubun/2024/21/2024_7/_article/-char/ja/
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
ナゾロジー 編集部