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用を足す人が丸見え!江戸時代のトイレの扉だけで当時の状況が色々推理できる


江戸時代のトイレは「半戸」と呼ばれる半分の高さしかない戸が主流で、防犯や採光、臭気の緩和、経済的な理由がその設計に影響していました。屋外の共同便所が多く、不埒者の出入りを防ぐため外から中の様子が分かるような設計になっていました。また、半戸のトイレは木材の節約にもなり、戸を全て作るよりも経済的でした。これにより、トイレの回転率が上がり、急ぐ気持ちを促し、臭気の軽減にも繋がりました。江戸の下水は、今のように汚水ではなく、町中に張り巡らせた堀や川が排水を担っていましたが、それほど汚れてはいませんでした。これは、江戸の人々が水を非常に節約し、工夫して使っていたからで、日常生活での知恵が活かされていました。

江戸時代のトイレは汲み取り式で、その糞尿が農家の肥料として使われていたことは、比較的よく知られています。

しかし江戸時代の人々がどのようなトイレを使っていたのかについては、あまり知られていません。

果たして江戸時代の人はどのようなトイレを使っていたのでしょうか?

この記事では江戸時代のトイレがどのような構造になっていたかについて紹介していきます。

なおこの研究は、山路重則(2019)『江戸時代のトイレ文化』年報「観光研究論集」17号p.70-73に詳細が書かれています

目次

  • 戸が半分しかなかった江戸のトイレ
  • そこまで汚くなかった下水

戸が半分しかなかった江戸のトイレ

江戸後期の長家の共同便所、戸は半分しかなかった
江戸後期の長家の共同便所、戸は半分しかなかった / credit:wikipedia

江戸時代の風俗を詳細に記録した『近世風俗志』によると、江戸のトイレでは半分ほどの高さしかない「半戸」が主流でした。

その理由としてまず考えられるのは、防犯のためです。

というのも当時のトイレは屋外にあり、しかも男女共用でした。

誰でも自由に出入りできるため、不埒者が潜んでいる危険もあったでしょう。

そこで戸を半分にすることで、外から中に人がいるかどうかが一目でわかり、警戒心を高める工夫がされていたというわけです。

実際、現代でもアメリカの公衆トイレには足元が見えるようになっているものが多く、同様の目的を果たしています。

次に考えられるのは、採光のためです。

夜のトイレ利用には提灯や蝋燭が使われたものの、火災の危険を避けるため、月の光を取り入れて薄明かりを確保したかったのではないかとのこと。

火災は江戸の町にとって一大事であり、明かりを得つつ火を避ける知恵が働いたのかもしれません。

また、回転率を高めるためにも半戸は役立ちました。

長屋では住人数に比べてトイレの数が少なく、朝などには使用が集中したのです。

半戸にして中が見えれば「早く出よう」と思わせる効果が期待され、結果として他の住人のための「回転率」が上がりました。

さらに、臭気の緩和も考慮されていた可能性もあります。トイレは肥壺の臭気が立ち込める場所であり、戸が半分なら通気がよくなり、臭いがやや和らぐのです

最後に、経済的な理由も無視できません。

戸を全て作るよりも、半分にすれば木材が節約できます

当時、庶民は生活にかかるコストを少しでも抑えねばならなかったのです。

他にも考えられるのは、当時の政治的な要素です。

江戸は幕府の直轄都市であり、トイレの壁が落書きの場になるのは避けたかったでしょう。

恋愛の相合傘ならまだしも、政治批判や不満の言葉が書かれるようなことがあれば、幕府にとって都合が悪いです。

したがって、トイレの戸を半戸にして中を開放的にすることで、落書きや隠れた伝達手段を制限したのではないかと言われています。

また戸が半分だけだったのは江戸だけではなく、尾張(現在の愛知県西部)のトイレでも半戸が使われていました

尾張藩士の日記には、侍がトイレで用を足すために中にいる老婆に催促し半戸の上からトイレの中を覗いてみたところ、老婆が髪を振り乱して用を足しており、それによって侍が老婆を妖怪と勘違いして斬りかかったという笑えない騒動が記録されています

一方京や大坂といった上方では全戸のトイレが使われており、決して日本全国で半戸のトイレが使われていたわけではありません

こうしてみると、トイレの戸一つにも、時代や文化、都市の事情が反映されています。

江戸の住民たちは、便所でさえもさまざまな目的や理由のもとに工夫を凝らしていました。

そこには、防犯や臭気対策といった実用的な知恵とともに、政治的な統制をも含む、都市生活者の知恵と工夫が息づいていたのです。

そこまで汚くなかった下水

「江戸名所図会」に描かれた霞ヶ関の大名屋敷。石垣に沿って下水が流れており、石垣に設置された排水口(黒い箱)も確認できる。
「江戸名所図会」に描かれた霞ヶ関の大名屋敷。石垣に沿って下水が流れており、石垣に設置された排水口(黒い箱)も確認できる。 / Credit:江戸名所図会,日本古典籍データセット(国文研所蔵)CODH配信

余談ですが、当時のトイレは汲み取り式が主流でした。

糞尿は業者が買い取って農村部に運び、それが農作物の肥料として使われていたことはよく知られています。

だからといって下水道に類するものがなかったわけではなく、江戸の街に張り巡らされていた堀や川が下水道の役割を果たしていました

しかし今のように、そこに流れる水が汚いわけではなかったのです。

実際、江戸の町中のどぶは、幅が6~9尺(1.8~2.7メートル)もあったものの、深さは膝ほどで、さほど汚れたものでもありませんでした

というのも江戸の町人の使う水の量は現代とは比べ物にならないほど少なかったのです。

なぜなら、水を得るには井戸まで出向いて汲み上げる苦労があった上、風呂にしても銭湯頼みであり、自宅で湯を沸かすなどとんでもない贅沢だったからです。

その上江戸の町人の水の扱いには「一滴も無駄にせぬ」という知恵が宿っています

米のとぎ汁は床掃除に、残りは植木へ。長屋の台所から出た水も、樋や竹筒を通してどぶ川に流れ込み、さらにそのどぶ川が大通りの下水につながっているのです。

現代のように洗剤で泡立てることもなく、汚れも少ないから、江戸の下水は「汚水排除」よりも「雨水排除」が主目的でした

しかも、江戸の町人は水を「ただ捨てる」ことさえよしとしなかったのです。

たとえば防火用の天水桶。町からは「3日に一度水を変えよ」というお触れが出ていたものの、入れ替えた水は路面に撒き、乾いた地面を湿らせることで、埃が舞うのを防いでいたといいます。

このように江戸の人々は、ありふれた水でさえ最後の一滴まで活かす知恵を持っていたのです。

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参考文献

大阪観光大学学術リポジトリ
https://tourism.repo.nii.ac.jp/records/2000027

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

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