ドイツのマックスプランク研究所で行われた研究により、人間の胚の成長を一時停止する仕組みが存在することが示されました。
またこの仕組みを刺激することで、逆に胚発生を加速させられることが示されました。
研究者たちは胚発生の一時停止や加速を制御することで、不妊治療など体外受精技術が大幅に進歩する可能性があると述べています。
また今回の研究のユニークな点として、受精卵から成長した自然な胚を使わずに、ヒト幹細胞ベースの人工合成胚「ブラストイド」が使用された点があげられます。
今回は「ブラストイドとは何か?」を解説すると共に、命の一時停止の仕組みが存在する理由に迫りたいと思います
研究内容の詳細は2024年9月26日に『Cell』にて公開されました。
目次
- 命を模倣する「ブラストイド」
- 命の一時停止機能を復活させる
命を模倣する「ブラストイド」
近年の急速な技術進歩により、幹細胞からさまざまな種類の臓器のレプリカを作れるようになってきました。
幹細胞とはさまざまな種類の細胞に変化できる多能性を持った細胞であり、適切な刺激を与えることで神経、筋肉、皮膚などに変化させることが可能です。
たとえば以前に行われた研究では、幹細胞をもとに人工培養脳(脳オルガノイド)を作成し、さらに化合物で刺激を行うことで脳に目をはやすことに成功しています。
また近年の研究では、幹細胞から精子や卵子を作る試みが続けられており、マウスを使った研究ではオスマウスの皮膚細胞を幹細胞を経て卵子に変化させ、さらに精子と受精させて受精卵を作り、健康な子マウスを出産することにも成功しています。
また幹細胞の持つ万能性を極限まで引き出すことで、幹細胞を胚に似た存在にダイレクトに変化させることも可能になってきました。
上の図は「ブラストイド」と言われる人工合成胚を作る2種類の方法を示しています。
上の方法では幹細胞の状態を経由する形で、下の方法では大人の細胞をリプログラムすることでブラストイドが生成されます。
ブラストイドは自然な胚と違い倫理的な問題をある程度回避できるという利点があり、胚が成長していく仕組みを解き明かすための重要な材料と考えられています。
マックスプランク研究所で行われた研究では、このブラストイドを使用して、人間の胚に命の停止ボタンが存在するかを調べる試みが行われました。
命の一時停止機能を復活させる
これまでの研究により100種を超える動物に、胚の成長を一時停止させる胚休眠の仕組みがあることが知られており、長い種では数か月に及ぶとされています。
母体の状態や周囲の環境が適切な状態になるまで出産を遅らせることができれば、厳しい自然界を生き抜き、子孫を残せる可能性が高まるからです。
哺乳類ではマウスやクマ、アザラシやカンガルーなどが胚休眠の能力を持つとされています。
一方で、人間やヒツジなどの動物は胚休眠能力がないと考えられています。
しかし人間の胚休眠能力が本当に失われているのか、眠ったままであるかは不明でした。
というのも、胚休眠能力がないはずのヒツジの胚を、休眠を誘発したマウスの子宮に入れてみたところ、ヒツジの胚もつられて胚休眠状態に移行したことが確認されたからです。
また過去に行われた複数の研究により胚休眠は「mTORシグナル伝達経路」と呼ばれる仕組みがブロックされたときに起こることが報告されていました。
この仕組みは、ある意味で、音楽のドラムのような役割を担っており、ここの伝達経路からの信号が正しく送り続けられないと、胚発生が停止してしまいます。
哺乳類において胚休眠が起こるのは、胚が胚盤胞と呼ばれる受精卵が球形を脱し始める時期であることも知られています。
胚休眠が起きた胚盤胞は子宮の壁へ付着する能力が低下し、子宮内部で浮いた状態に保たれます。
幸運なことに、人工的に合成されたブラストイドもまた、胚盤胞と呼ばれる時期と同じ形状をしていました。
そこでマックスプランク研究所の研究者たちは、ヒト幹細胞ベースのブラストイドを用意し「mTORシグナル伝達経路」をブロックしてみることにしました。
もし人間の胚休眠能力がヒツジと同じく眠ったままであるならば、この方法で胚発生を一時停止できる可能性があったからです。
すると、ブラストイドの成長が最大で8日間、一時停止状態になることが判明。
(※また細胞レベルの分析では、「mTORシグナル伝達経路」のブロックは最大で18日間に及び発生停止を続けさせる効果があることがわかりました。)
ブロックを解除したところ、一時停止も解除され、再び胚発生プロセスが開始されることも確認できました。
加えて逆に「mTORシグナル伝達経路」を活性化させてみたところ、ブラストイドの発生が加速する現象もみられました。
この結果から研究者たちは、人間の胚休眠能力はヒツジと同じく眠った状態で保存されていると結論しました。
人間もかつてはマウスのように胚休眠能力を持っていたと考えられますが、進化の過程で次第に行わなくなっていったと考えられます。
ただ胚休眠を起こす仕組みだけは、残っていました。
例えるならば、「胚休眠を起こす一時停止ボタンを押す能力は失っても、一時停止ボタンそのものは残っていた」と言えるでしょう。
研究者たちは胚休眠システムを理解することは生殖医療に影響を及ぼすと述べています。
たとえばより発育速度が速いほうが体外受精の成功率を高めることが知られており、「mTORシグナル伝達経路」の活性を高めることでこれが達成できるかもしれません。
もしかしたら未来の不妊治療の現場では、mTORシグナル伝達経路活性化がオプションとして実装されているかもしれませんね。
参考文献
Hitting Pause on Life: Researchers Discover How to Delay Human Embryo Growth
https://scitechdaily.com/hitting-pause-on-life-researchers-discover-how-to-delay-human-embryo-growth/
元論文
mTOR activity paces human blastocyst stage developmental progression
https://doi.org/10.1016/j.cell.2024.08.048
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部