マジックは今や世界的に人気のエンターテインメントですが、かつてマジックで母国を救った伝説の奇術師がいたことをご存知でしょうか?
彼の名はジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン(1805〜1871)。
19世紀半ばのフランスで活躍したプロのマジシャンです。
ウーダンはそれ以前のマジックとは一線を画す革新的なパフォーマンスを行い、後世のマジシャンに多大な影響を与えたことで、”近代奇術の父”と呼ばれています。
そんな彼の最も偉大な功績の一つが、世紀のマジック対決で母国フランスを救ったことです。
一体なぜウーダンは国の命運を担うマジック対決をすることになったのか、彼の生涯とともに振り返ってみましょう。
目次
- 運命に導かれて「マジックの世界」へ
- マジシャンの概念を革新したウーダン、「近代奇術の父」に!
- 国の命運を賭けた世紀のマジック対決!
運命に導かれて「マジックの世界」へ
ウーダンは1805年12月6日、フランス中部の都市ブロワで生まれました。
時計職人である父の影響で、幼いころから機械工作に熱中し、11歳の時点で「ネズミ捕り器」や「ミニチュアの回転木馬」を自作していたといいます。
それからオルレアンの寄宿舎学校を卒業すると、父の工房に入って時計職人を目指しますが、その中で偶然に「奇術(マジック)」との出会いを果たします。
ある日、ウーダンは時計修理に関する本を注文するのですが、間違って届いたのは奇術の本だったのです。
彼はこの本に記されていたマジックに魅了され、独学で練習するようになります。
しかしウーダンがそのままマジシャンの道に進むことはなく、父の元を離れて別の時計職人のもとに弟子入りしました。
ところがマジックの運命は彼を放しませんでした。
あるとき、ウーダンは食中毒にかかり実家に帰る途中で道に倒れ込んでしまいます。
そこに偶然通りかかってウーダンを助けたのがエドモン・ド・グリジー伯爵でした。
彼は「トリーニ」の名前で活躍するヨーロッパでも有名な奇術師だったのです。
そしてウーダンは半年ほど、トリーニの助手として奇術の修行を積むことになります。
その後、地元に戻ったウーダンはパリで時計商を営むジャック・ウーダンの娘(※)と出会い、結婚してパリに移り住むことになります。
(※ 実は名前をウーダンと改めたのは妻との結婚がきっかけです)
パリに出たウーダンは「機械人形(オートマタ)」の研究を始め、1844年には万国博覧会に自動書紀ロボットを出展しました。
それからウーダンは数々の発明をし、1839年から1845年にかけて彼の機械製作は絶頂期に達します。
この時期にウーダンは「人間と機械人形が舞台で共演したら面白いのではないか」と考え、本格的にマジシャンの道に進み始めるのです。
マジシャンの概念を革新したウーダン、「近代奇術の父」に!
そしてウーダンは1845年にパリの劇場でプロのマジシャンとしての初演を果たします。
このとき、彼はすでに40歳となっていました。
しかし彼の舞台パフォーマンスはそれ以前のマジックと大いに一線を画すものだったのです。
ウーダン以前のマジックというと、黒魔術的な演出が主流であり、暗い照明にドクロのような装飾品を並べたいかがわしいステージングをしていました。
マジシャンも大きな黒いコートを着た不気味な出立ちで、演じるマジックも降霊術や黒魔術のようなものばかりでした。
ところがウーダンは明るい照明でステージを彩り、衣装も夜会服(燕尾服)やシルクハットという清楚なものを着用しました。
今となっては古いイメージかもしれませんが、「マジシャンといえば燕尾服にシルクハット」という代名詞はウーダンが作り出したものとされています。
さらにパフォーマンス面でも前時代にはないオリジナルのマジックを次々と披露しました。
時計職人としての技術を活かした機械人形との共演や人や物が空中に浮かぶ錯覚を作り出す浮遊マジックなど、現代にも残る数々のマジックを考案しています。
このようにマジックのイメージを刷新した功績こそ、ウーダンが”近代奇術の父”と呼ばれる所以なのです。
ウーダンの最新マジックはすぐにフランス中で話題となり、さらに海を越えてイギリスでの興行も行っています。
約10年の間、ウーダンは数々のマジック公演を成功させ、一流マジシャンとして人々の知るところなりました。
その後、ウーダンは1855年にプロの世界から身を引き、地元ブロワの農場に落ち着いています。
しかしマジックの神様はもう一つ、彼に重大な使命を課しました。
それがフランスの命運を賭けた世紀のマジック対決だったのです。
国の命運を賭けた世紀のマジック対決!
1850年代に入り、フランス領のアルジェリアで、イスラム教の一派である「聖者崇拝思想(マラブーティズム)」が勢力を拡大し、力を強めていました。
彼らのトップたちは自らをマラブー(聖者)と名乗り、人々に大道芸的な奇術を見せることで大衆を扇動し、フランスに対して「反旗を翻そう!」と武装蜂起寸前の状態になっていたのです。
例えばマラブーたちは衣服に火をつけても燃えない奇術を見せていたといいます。
これを受けて、フランス政府は軍事的に制圧するのではなく、マラブーの奇術が見劣りするような腕前を持つマジシャンを送り込んで、マジック対決をさせようと考えました。
そこで白羽の矢が立ったのがウーダンだったのです。
ウーダンは1856年に単身アルジェリアに渡り、マラブーの有力者や一般民衆が集まる中でマジックを披露しました。
このとき披露したマジックの一つが「重さの変わる箱」でした。
彼は観客の一人をステージ上に招き、取手の付いた箱を持ち上げさせます。
次に「この人物の力を弱らせます」と言って魔法をかけると、今度は箱がびくともしなくなるというものです。
これは箱の中に仕込んだ電磁石を使ったトリックであり、遠隔操作によって箱を重くすることができました。
電磁石の知識などない観客たちはウーダンを「超自然的な力の持ち主だ」と信じ込んだといいます。
これに屈辱を受けたマラブーの一人が「ヤツは詐欺師だ!」と非難し、ウーダンに銃を使った決闘を申し込みました。
しかしウーダンは動揺の色を見せることもなく、この申し出を快諾。
そして翌日、人々が見守る中、ウーダンはマラブーの放った弾丸を「歯で咥えて受け止める」という驚愕のパフォーマンスを見せたのです。
当然ながらこれもウーダンのトリック。彼は事前に決闘用の弾をニセの弾丸にすり替えていたのです。
これにはマラブーたちも完全にお手上げで、フランス政府の目論見通り、彼らに敗北感を与えることに成功しました。
アルジェリアの大衆もウーダンの超常的な力を認め、マラブーへの関心が薄れていきます。
こうして影響力が急落したマラブーたちは武装蜂起を断念。世紀のマジック対決はウーダンの完全勝利で幕を閉じました。
ウーダンはその後、外国を旅したり、自叙伝を書くなどして余生を過ごしたのち、1871年6月13日にパリ郊外の別荘で肺炎により亡くなっています。
65年の生涯でした。
ウーダンは生前に「マジシャンとは魔法使いを演じる役者である」という言葉を残しています。
この言葉は「マジックパフォーマンスにはトリックだけでなく、舞台演出や演技力、芸術性が大切である」ことを教える名言として、後世のマジシャンたちに多大な影響を及ぼしたのです。
参考文献
How Robert-Houdin Used Magic to Aid the French Government
https://www.ancient-origins.net/history-famous-people/jean-eugene-robert-houdin-father-modern-magic-who-stopped-revolt-his-abilities-020786
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。