多くの人々は、麻酔薬が神経を麻痺させ、痛みを減らすために用いられると理解しています。
しかし、最近の研究によって、これらの薬剤が植物にも類似の一時停止の影響を及ぼすことが明らかになりました。
神経系を持たない植物でも、麻酔薬によって活動が停止するという事実は、私たちの麻酔薬に対する理解を根本から揺るがすものです。
また最新の研究では、麻酔薬が植物や動物を超えて細菌や菌類なども含む全生命に麻痺効果を与えられることが示されています。
麻酔の本質とは、いったい何なのでしょうか?
この記事では、麻酔薬が植物に与える影響と、それが私たちの科学に対する認識にどのように影響を与えるかについて、現在判明している研究結果をまとめて報告したいと思います。
目次
- 植物にも人間用の麻酔が効く
- 麻酔の真のターゲットは何か?
植物にも人間用の麻酔が効く
手術のときの全身麻酔や歯医者のときの局部麻酔など、麻酔は現在の医療にとって必要不可欠な存在となっています。
そのため多くの人々は「痛みを止めるもの」と理解しているでしょう。
また生物や医学に詳しい人ならば「麻酔は神経に作用することで意識を失わせたり痛みを止めたりする」と答えるかもしれません。
これらの答えは間違ってはいません。
ですがどちらの場合も、麻酔を動物に対して使用することを暗黙の前提にしています。
しかし、最新の研究はこの常識を覆しています。
たとえば開閉する葉によって昆虫を捕らえられるハエトリグサや、接触刺激によって葉を閉じるオジギソウの全身に麻酔ガスを浴びせると、ある種の全身麻酔状態に陥り、全ての葉の開閉能力を一時的に喪失することが判明しました。
エンドウ豆の蔓も探るように回転しつつ巻き付く相手をさがす動きをみせますが、全身に麻酔ガスを浴びると、この動きが全て一時的に停止してしまいます。
また局所麻酔として歯医者などで使用されるリドカインを植物の根に塗った実験では、5時間に渡り植物の動きを麻痺させることに成功しました。
これらの結果は、人間の全身麻酔や局所麻酔に使用されるのと同じ化学物質で、植物に麻酔をかけられることを示しています。
また驚くべきことに、動物や植物だけでなく細菌や真菌類、さらには葉緑体やミトコンドリアといった大昔に細胞内部に取り込まれた寄生生物由来の存在にまで、人間用の麻酔薬で影響を与えられることが判明。
地球上の全ての生命には麻酔が効く可能性が、徐々に濃厚になってきました。
この事実は非常に重要です。
虫を一瞬で殺す「殺虫剤」や寄生虫などの病原体にとって猛毒となる「イベルメクチン」が人間にとっては比較的安全なように、種が大きく異なれば「毒」となる物質も大きく違ってきます。
進化的に隔たりが大きい種間では、細胞の仕組みの違いも大きくなるためです。
しかし「毒」と違って「麻酔」は、動物と植物のように種が大きく異なっていても、似たような成分で効果が発揮されます。
つまり毒よりも麻酔のほうが、生物にとってより根源的・普遍的なシステムをターゲットに作用していると言えます。
ですが驚くべきことに、人間やその他の生物において「麻酔薬がなぜ効果を発揮するか?」といった細胞レベルでの仕組みは不明のままでした。
エーテルを麻酔として使用できることが、物理学者としても有名なマイケル・ファラデーによって記述された1818年から200年以上が経過していますが、人類は詳しい仕組みを把握しないまま使っていたことになります。
しかし植物に麻酔が効く仕組みを解明できれば、この古くからの謎を解明し、麻酔薬たちが細胞のどの部分にどんな影響を与えているかを解き明かせる可能性が出てきました。
麻酔の真のターゲットは何か?
麻酔の真のターゲットは何か?
それを考える前に、同じ成分が複数の異なる種で効く場合について考えたいと思います。
たとえばマタタビが猫だけでなくトラやライオンなど複数のネコ科動物を酔わせることは古くから知られています。
猫がマタタビに反応するのはマタタビに含まれる成分が脳の中枢神経を刺激し、一時的に多幸状態になるからです。
そのためライオンがマタタビに反応する仕組みを知りたい場合は、同じ反応を示す猫がマタタビに反応する仕組みを調べることで「かなりの程度」が明らかになります。
根底には「種が違っても同じ仕組みをもっている」という強い可能性があるからです。
ゆえに植物にも麻酔が効くという事実は、動物が麻酔に効く仕組みを調べるにあたって極めて有用になります。
動物と植物の細胞はさまざまな部分で異なりますが、麻酔は両者の共通部分に作用していると考えられるからです。
そのため動物と植物の細胞の少ない共通点を調べていけば、麻酔の真のターゲットを特定することが可能になります。
(※種が離れていれば離れているほど共通点が少なくなるため、効率が上がります)
そうして導き出された麻酔の仕組みとして、現在のところ主に2つの説が存在しています。
1つ目の説は細胞を覆う細胞膜に埋め込まれたタンパク質(受容体)に、麻酔成分が結合することである種のスイッチが入り、麻酔効果が起こるとするものです。
2つ目の説は麻酔薬が細胞の膜の性質を変化させることによって、機能するというものです。
私たちの細胞は表面の細胞膜だけでなく、内部のミトコンドリアや葉緑体を形作る膜や核を覆う核膜など、多種多様な膜の複合体によって構成されています。
これらの膜は「こちら側」と「あちら側」を区切ることで異なる化学反応を起こす場を提供する機能を持っています。
ミトコンドリアを包む膜は酸素からエネルギーを作る化学反応を細胞のその他の場所から区別し、葉緑体の膜は光からエネルギーを得るために必要な仕組みを包み込んで効率化させます。
また細胞内部ではある場所から別の場所に物資を輸送したい場合には細胞膜でできた小胞に包んで移動させることも知られています。
全体を包む表面の細胞膜も、生命活動が行われる場所を環境から切り離す役目を持っています。
このように「こちら側」と「あちら側」と化学反応を区切る膜の存在は、あらゆる生命現象の基礎となっています。
また膜の存在は細胞が電気信号を送るためにも重要な役割を果たしています。
たとえば動物の神経活動はニューロンの外側と内側で形成される電位差を利用して、電気信号を次々にリレーさせることで成り立っています。
ニューロンの膜表面には特定のイオンだけを通す穴が開いており、この穴をイオンが通ることで「電気」が発生するからです。
このように細胞で発生する電気は活動電位と言われています。
電気ウナギなどでは、この仕組みが巨大化することで、電撃で攻撃することを可能としています。
植物にはニューロンをはじめとする神経細胞は存在しませんが、ハエトリグサには感覚毛の根元に活動電位を生成する「トリガー細胞」と呼ばれる特別な細胞が存在していることが知られています。
そして近年の研究では、麻酔には動物のニューロンと植物のトリガー細胞の両方の活動電位を起こさせなくする効果があることがわかってきました。
動物のニューロンと植物のトリガー細胞は全く別の細胞ですが、膜を使って電気を作るという点が一致しています。
(※植物の活動電位は神経のように細胞同士の間の信号伝達に寄与します。そのため一部の研究者たちはトリガー細胞をニューロンの代替品として利用しており、植物も意識や記憶のようなものを形成している可能性があると述べています。植物に意識があるとする説は主流派ではないものの、根強い人気を誇っています)
では麻酔の真のターゲットは細胞の膜なのでしょうか?
2017年に行われた研究では、どうやらそうらしいことが示されています。
この研究では電気の代りに細胞内部で物質輸送を担う小さな細胞膜の球「小胞」に対する麻酔の影響を調べており、麻酔によって小胞の輸送やリサイクルに混乱が起きて、細胞の仕組みの一部に麻痺が起きていることが示されました。
細胞は非常に小さいですが、生命活動を維持するためには決まったタイミングで決まった場所に決まった化合物が存在する必要があり、小胞による物質輸送はそれを可能にするインフラシステムを提供しています。
研究者たちは、麻酔薬の成分が細胞膜に接すると、膜の柔軟さ増加させるなど物理的な性質が変化したことが原因だと考えられています。
小胞による物質輸送が行われなくなれば、細胞の仕組みは麻痺してしまいます。
またより興味深く強力な証拠には「高圧環境では麻酔が効きにくくなる」というものが知られています。
圧力が強い環境では膜が安定化してあるいみで硬くなるため、麻酔成分による柔軟化が起きにくくなっているからだと考えられます。
他にも、驚くべきことに、麻酔薬は膜に埋め込まれているタンパク質のスピン方向にも影響を与えたり、タンパク質の分子から電子を一時的に奪うなど、微小な量子の世界に変化を与えていることが明らかになってきました。
(※同様の麻酔による量子レベルの変化は動物の脳細胞でも起きていると考えられており、一部の研究者たちは意識には量子効果の絡んでいる部分もあると主張しています)
以上のように、植物と動物という進化的に大きく異なる種で同じ麻酔成分が効くと言う事実、高圧で麻酔が効きにくくなるという事実、活動電位と小胞輸送が膜によって制御されているという事実。
加えて麻酔薬には異なる構造を持つ化合物で作られているのもかかわらず、全てが似たような麻酔という結果になる事実。
これらの事実は、麻酔があらゆる生命活動を支える細胞の膜を真のターゲットにして効果を発揮していることを示しています。
麻酔の謎は200年を経て、ようやくターゲットになる「場所(膜)」が特定できたのです。
研究者たちは、麻酔が細胞の膜に作用する様子をさらに詳細に解明していくと述べています。
参考文献
Anaesthetics stop diverse plant organ movements, affect endocytic vesicle recycling and ROS homeostasis, and block action potentials in Venus flytraps
https://academic.oup.com/aob/article/122/5/747/4722571
元論文
Something Really Fascinating Happens When You Give Plants Anaesthetic
https://www.sciencealert.com/plants-respond-anaesthetics-weird-movement-action-brain
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。