江戸時代に不祥事を起こしたり悪事を働いた武士には、しばしば切腹が言い渡されました。
しかし切腹は武士にしか許されないある種の名誉を重んじた死に方であり、それ故一種の儀礼として行われていたのです。
果たして切腹はどのような手順で行われていたのでしょうか?
本記事では切腹の手順について紹介しつつ、江戸時代を通してどう変わっていったのかについて紹介していきます。
なおこの研究は『帝京大学文學部紀要』日本文化学に詳細が書かれています。
目次
- どんな人物が切腹の対象となったのか?
- 最後の食事は漬物とお酒、最終的には首を斬られる
- 時代が進むにつれてセレモニー化した切腹
どんな人物が切腹の対象となったのか?
武士が腹を切って自決することは平安時代にもありましたが、名誉ある自殺方法として見られ始めたのは戦国時代からです。
やがて江戸時代になると、不祥事を起こした武士に対する死罪の方法として切腹が行われるようになりました。
なお武士が死罪になる場合は必ずしも切腹になるわけではなく、あまりにも不名誉な罪状で死罪になる場合は庶民と同じように斬首刑になります。
例えば島原の乱の元凶となった島原藩主の松倉勝家(まつくらかついえ)は、切腹を許されず一介の罪人として斬首刑に処されました。
最後の食事は漬物とお酒、最終的には首を斬られる
それでは切腹はどのような場所で行われたのでしょうか?
切腹をする場所は切腹人の身分によって異なっており、上級武士の場合は身元預かり人の家の中、それよりやや身分が劣る人は身元預かり人の庭先、それよりも身分が低い人の場合は牢屋の中で行われました。
座敷で切腹する場合は白木綿や袷風呂敷が敷かれ、身分の高い者は畳三畳の上に一畳の布団を敷くことが慣習となっていました。
また庭先で行う際には敷物を敷いて足取りを整え、履物が見苦しくないよう工夫されていました。
切腹の際、切腹人に対して最後の食事が与えられます。
切腹人が座る方向に応じて、給仕人が盃を持って現れ、酒と肴を持ってくるのです。
肴は香り物や昆布が三切れで、「みきれ」は「身を切る」に通じます。
切腹人はまず土器に酒を注がれ、これを地上にかけます。
次に盃に酒が注がれ、これを飲み干すのです。
この二献で盃事は終了します。
また状況によっては湯漬け(米飯に熱い湯をかけたもの、お茶漬けの原型)が出されることもありましたが、酒をこれ以上与えることは厳禁でした。
切腹に用いられる短刀は、通常九寸五分(約29cm)が正式の長さとされましたが、八、九寸でも許容されました。
切腹人が着座した後、短刀を右手に持ち替え、三度腹を揉んでから左手で腹に突きたて、右に引きまわすことが作法とされたのです。
刀を突き立てる深さは三分から五分(9ミリメートルから15ミリメートル)を超えないようにすることが重視されました。
正式の切り方は十文字に切ることで、鳩尾から臍の下まで切り下げ、さらに必要ならのどを掻き切る方法が採られたのです。
切腹の儀式において重要な役割を果たすのが、介錯人です。
介錯人の最大の使命は、切腹人が恥をかかないように努め、切腹の成功を確実にすることです。
古来、「誤りのないように補助する」という意味での介錯は、武士の誇りを守るために欠かせないものでした。
介錯人は切腹人が気後れして逆上するなどの問題が生じないよう、注意深く振る舞わなければなりません。
介錯人は切腹の際に苦しまないように首を切るのが仕事であり、どのタイミングで首を切るのかは切腹人の希望と介錯人の裁量によって決められていました。
介錯の際には、首を完全に落とさずに一皮残すことが望まれており、これは死罪との混同を避けるためとされています。
この配慮は、死後の見苦しい光景を避けつつ、切腹人に対する尊重を示すものです。
そのようなこともあって介錯人には高い技術が求められており、もし家中に腕の立つものがいない場合は他の家から派遣してもらうことさえありました。
時代が進むにつれてセレモニー化した切腹
このように切腹は名誉ある死として捉えられましたが、時代が進み戦に出たことのない武士が増えると、自ら腹を切る覚悟のある武士は減っていきました。
代わりに、置かれた短刀に手を伸ばし、介錯として首を断つ方法が一般的になったのです。
また短刀の前に恐怖心を感じて錯乱する武士もいたことから、短刀の代わりに木刀や扇子に置くこともありました。
そして、木刀や扇子を取る瞬間に、介錯として首が断たれたのです。
またそれさえも実行できずに怯える者には、「一服」と称し毒を渡して絶命する方法も存在し、そちらを選択する武士も少なからずいました。
戦国時代の武士たちは、戦場で死ぬことこそが誉と考えており、敵に捕らえられた際には切腹で自身の豪胆さを周囲に示しながら死ぬことが次いで誉高いと考えていたようです。
そのため戦国時代には、介錯人も用いず切腹したり、捌いた腹から臓物を引き出して見せる者もいたと伝えられていますが、そうした豪胆な人間は平和な時代が続くとともに減っていったのでしょう。
ただ、幕末になるとまた血の気の多い武士たちが増え、竜馬がゆくなどの小説でも有名な土佐藩士の武市半平太は、切腹を言い渡された際、その作法にこだわり非常に難しい切腹の作法である三文字割腹を行ったとされています。
これは腹を三度横に切り裂くという切腹法で、通常は耐えられずやり遂げる前に介錯を受けるため非常に難しい作法だったようです。しかし、武市はこれを成し遂げて自分の胆力を示して亡くなったと伝えられています。
現代の私たちには理解し難いことですが、畳の上で平穏な最後を遂げることは恥と考えていた武士たちにとっては、豪胆に自ら腹を切って人生の最後を飾る切腹の作法は、美しさと通ずる重要なものだったのです。
参考文献
コルネーエヴァ スヴェトラーナ (Svetlana Korneeva) –切腹刑の作法ー『自刃録』の記述を中心にー –論文 –researchmap
https://researchmap.jp/Sveta/published_papers/33403104
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。