現在ロシア国内で広く信仰されているロシア正教会は、帝政ロシア時代から続く歴史があります。
しかしロシアの前身であるソ連は共産主義ということもあり、非常に宗教に敵対的でした。
果たしてロシア正教会はソビエト政権下でどのような経緯をたどり、どうやってこの冬の時代をどう乗り切ったのでしょうか?
本記事ではソ連政権下でロシア正教会がどのような経緯を辿ったのかについて紹介していきます。
なおこの研究は『産大法学』第33巻第1・2号に詳細が書かれています。
目次
- 反ソ連の態度を示し、政治への中立を求められた教会
- スターリン政権下の大弾圧
- ドイツの侵攻によって、ソ連から信仰を許される
反ソ連の態度を示し、政治への中立を求められた教会
ロシア正教会の起源については諸説ありますが、988年にキエフ大公のウラジーミル1世が公式に正教会の洗礼を受けた時が起源であるといわれています。
なおこの時ロシア正教会は本拠地をキーウ(現在のウクライナ)に置いていましたが、後にモスクワ(現在のロシア)へと拠点を移します。
やがて時代は下りロシア帝国の時代になると、ロシア正教会は教会を監督する国家機関によって牛耳られるようになりました。
これによってロシア正教会は厳しい統制を受けており、多くの聖職者たちは国家からの自由を求めていたのです。
そんな中1917年3月、ロシア帝国は崩壊し、新たに臨時政府が樹立します。
ロシア正教会は千載一遇の機会と言わんばかりに動き出し、200年以上行われてこなかった公式の教会会議を行って今後のことについて話し合いました。
この会議は中断を挟みつつ、翌年の9月7日まで続き、総主教(ロシア正教会のトップ)の選任などが行われたのです。
しかし臨時政府は17年の11月に崩壊し、代わりにボリシェヴィキ(後のソ連共産党)が政権を握ります。
ボリシェヴィキ政権は宗教を敵視していたということもあり、政権を握るとすぐにロシア正教会に対する苛烈な弾圧を始めました。
具体的には教会財産の収奪と教会に対する迫害を行い、1918年2月には政教分離を宣言して教会から法人格と所有権を剥奪し、教会施設と教会資産を没収しました。
1922年5月にはロシア正教会のチーホン総主教が逮捕・収監され、反ソビエト的な態度を放棄することを求められました。
このようにボリシェヴィキはロシア正教会に対する弾圧を続けましたが、ロシア正教会に悪いニュースばかりが続いたわけではありません。
というのもボリシェヴィキは教会会議に政治に対して中立の立場を取ることを確認しました。
それにより信徒はロシア帝国のように教会を政治目的で利用してはならないという原則が採用されたのです。
このため、ボリシェヴィキが行った政教分離を推進する政策に関しては歓迎されたのです。
こうして、ロシア正教会は帝政時代の国家支配から解放され、1920年代初頭には無神論のボリシェヴィキ体制下で「宗教的ルネサンス」を達成することとなりました。
スターリン政権下の大弾圧
しかしチーホンが1925年にこの世を去ると、また弾圧が始まります。
ロシア正教会は総主教を新しく選ぶことを許されず、チーホンが死の直前に指名した三名の総主教代理も相次いで逮捕されました。
1929年には、ロシア正教会を含む宗教団体を詳細に規制する法律が制定されました。
この法律により、宗教団体は厳格な登録制度に縛られ、慈善活動や伝道活動を含む一切の社会的活動が禁止されたのです。
また、ロシア正教会は監督機関の管轄下におかれ、ロシア帝国時代以上の統制を受けることとなったのです。
さらに無神論者同盟や戦闘的無神論者同盟といった反宗教団体が組織され、宗教に対する反キャンペーンが公然と行われました。
宗教は党から激しい規制を受け、30年代にはロシア正教会の影響力は衰えたのです。
このような状況下で、ロシア正教会は決して戦いを諦めませんでした。
総主教の選出や法的地位の回復が認められなかったにもかかわらず、教会は存続し、信仰者たちは信仰を守り続けたのです。
ソ連時代のロシア正教会は、無神論国家に対する抵抗の象徴となり、信仰の強さと忍耐力を示しました。
またソ連国内のロシア正教徒の数は正確な数は分からないものの4000万から5000万とも言われており、弾圧を行って完全に潰すにはあまりにも大きすぎる存在でした。
ソ連政府は苛烈な弾圧をすればロシア正教会はすぐに無くなると考えていましたが、聖職者を多く逮捕してもなお信仰が消滅しないという現実に直面したのです。
このため宥和策などが検討されましたが、それでも弾圧の対象であることは変わりませんでした。
ドイツの侵攻によって、ソ連から信仰を許される
このようにロシア正教会は苦難の時期を迎えますが、1941年に独ソ戦がはじまると転機を迎えます。
ドイツは占領地に教会を建設し、ロシア正教徒を味方につけようとしたのです。
またアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、スターリンに対し、支援を維持するために信仰の自由を拡大するよう要求し、拒否すれば支援を停止すると脅したのです。
その為スターリンは、教会を再び破壊することが無謀であると判断し、国家の無神論政策を犠牲にしてでも勝利を追求する必要があると考えました。
1943年にスターリンは教会首脳と会談し、政教和解の方針を示したのです。
スターリンはロシア正教会に対して大幅な譲歩を行いました。
この融和政策によって崖っぷちだったロシア正教会は何とか踏みとどまったのです。
しかしそれでも弾圧は無くなったわけではなく、ロシア正教会の信徒が堂々と教会に礼拝に行けるようになるのは、ゴルバチョフ政権のペレストロイカを待たなければなりませんでした。
こうした歴史は、一度国家に根付いた巨大な宗教は例えソビエト政権のような統制の厳しい政府であっても潰すことが非常に困難であることを物語っています。
日本でもキリシタンが時の政権に弾圧されたことがありましたが、それも完全に根絶させることはできませんでした。
多くの信徒を擁する宗教は、弾圧によって消える例は少なく、それどころかソ連の例を見るように他国から付け入られる隙になってしまうこともあります。
国家と宗教の対立は人類の歴史の中で幾度も繰り返されてきた問題です。ここにスポットを当てて歴史を振り返ってみるのも非常に面白いものかもしれません。
参考文献
ロシアにおける信教の自由 | 『宗教法』論文データベース (religiouslaw.org)
http://religiouslaw.org/journal/archives/3189