普段は平気な物でも、恐怖を感じている状態だと、それを見ただけで逃げ出すことがあるでしょう。
例えば、闇夜に独り歩いていると柳の木がオバケに見えるときなどがそうです。
これには警戒レベルを一時的に高めることで危険からの回避を促す役割があると考えられます。
一方で、この反応を起こす神経的なメカニズムは明らかになっていませんでした。
しかし今回、東京大学大学院 理学系研究科のチームは、ショウジョウバエを恐怖状態に陥らせると、平常時であれば無視するマークにビビって逃走することを発見。
詳しく調べた結果、脳内の神経細胞の働きである「シータ活動」が、恐怖を感じたときの逃走を促すことが判明しました。
研究の詳細は、2023年7月13日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。
目次
- なぜ恐怖を感じると、逃走反応が起きるのか?
- 「恐怖心によるビビり逃走」を起動させるメカニズムを解明
なぜ恐怖を感じると、逃走反応が起きるのか?
これまでの研究で、あらゆる生物の脳内には「恐怖」を司る領域と「視覚刺激」を処理する領域がそれぞれ別に存在することが分かっています。
ですが、恐怖に陥った脳がどのような神経メカニズムを介して、普段は平気な視覚刺激からの逃走を促すのかが不明でした。
この謎を明らかにすべく、研究チームは「ショウジョウバエ」に協力してもらいました。
一見すると、ヒトとあまりにかけ離れた存在に思えますが、彼らの脳は「運動制御・感覚受容・記憶・学習」など、私たちの脳と同じ機能を持っています。
また恐怖のような不快感情を生み出す脳メカニズムも、ヒトとショウジョウバエで共通しているのです。
そこで本研究では、ショウジョウバエをモデルとして「恐怖心による視覚刺激からの逃走」の仕組みを調べました。
ハエも恐怖に陥ると、普段は平気な物にビビり始める
チームはまず、ショウジョウバエに恐怖刺激を与えると、視覚刺激への反応がどう変わるかを確かめました。
実験では、ハエに衝撃波を当てることで恐怖を誘発し、その後に視覚刺激(ここでは天敵のクモと同サイズの黒い四角形)をモニター上に映して、ハエに提示します。
すると、平常時のハエは視覚刺激にまったく無反応だったのに対し、恐怖状態に陥ったハエは視覚刺激から反対方向へと動く明確な逃走反応を示したのです。
つまり、ショウジョウバエも恐怖心を抱くと、普段はヘッチャラな視覚情報が怖くなって、その場から逃げ去る反応を共有していました。
では、こうしたビビり逃走はどの神経細胞によって実行されるのでしょうか?
チームは次にそれを明らかにしました。
「恐怖心によるビビり逃走」を起動させるメカニズムを解明
チームは、恐怖心によるビビり逃走に関わる物質を特定するため、様々な物質を欠損させたショウジョウバエを作成しました。
その結果、「タキキニン(Tk)」という神経物質を欠損したハエは、恐怖状態に陥らせても、平常時と同じく視覚刺激から逃げないようになったのです。
そして別の実験から、脳内に30個ほどある「Tk神経細胞(Tkを発現する神経細胞としてチームが命名)」が、恐怖心によるビビり逃走を起こすのに必須であることが分かりました。
では、Tk神経細胞は具体的に、恐怖や視覚刺激に応じて、どのような神経活動を示すのでしょうか?
これを検証するため、チームは神経細胞の活動を蛍光させる技術を活用。ここでは神経細胞の活動量が高いほど、蛍光輝度も強くなります。
すると、Tk神経細胞は恐怖に陥ることで活動量を上昇させることが分かりました。
さらに面白いことに、Tk神経細胞は恐怖状態にあるときにのみ、視覚刺激に反応して、「シータ活動」を示していました。
シータ活動とは隣の神経へ情報が伝わる神経の発火という現象が、4〜8Hzの周期で起きる神経活動パターンのことです。
こうした脳の神経活動パターンを脳波と呼び、シータ活動はシータ波(周波数が約4-8ヘルツHz)という名前で呼ばれます。こちらの呼び方の方が馴染み深い人も多いでしょう。
シータ波はよくリラクゼーション、創造性、直感、記憶の再生、瞑想状態に関連して観察されると報告されます。
ヒーリングミュージックの動画などで「θ波」という単語を見かけるのもそのせいです。
それが恐怖反応に関連して見られたというのは興味深い印象があります。
そこでチームは最後に、シータ活動が本当に視覚刺激からの逃走反応を引き起こすのか検証しました。
実験では、ハエに光を照射するだけで神経細胞の活動量を上昇させられる手法を用いています。
これにより、恐怖心を誘発することなく、Tk神経細胞のシータ活動だけを発生させることが可能になります。
そして実験の結果、Tk神経細胞のシータ活動が生じるだけで、平常時のハエでも視覚刺激から逃走し始めることが明らかになりました。
以上の結果から、恐怖心によるビビり逃走は、脳内のTk神経細胞のシータ活動により起動すると結論されています。
よくリラックスと関連付けられるシータ波の活動ですが、シータ活動は海馬という脳の領域と強く関連していることが知られていて、海馬はストレスや恐怖の反応とも関連しています。
そのため古くから、恐怖や不安の状況では、海馬のシータ波活動が増加することが報告されています。
今回の研究はショウジョウバエを使っていますが、報告内容は人間の脳活動とも一致しているようです。
闇夜に浮かぶ柳の木がオバケに見えたなんて、豪胆な人は臆病者だと笑うかもしれませんが、実際はハエのような昆虫から、私たち人間に至るまで、生物が広く保有する危機回避のための脳活動です。
そしてそこにはシータ波が重要な働きをしているようです。
参考文献
恐怖はどのような神経メカニズムを介して生物の視覚応答にバイアスを与えるのか? https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8514/元論文
Threat gates visual aversion via theta activity in Tachykinergic neurons https://www.nature.com/articles/s41467-023-39667-z