量子の世界では音も奇妙になるようです。
米国のシカゴ大学(UChi)で行われた研究により、音の最小単位であるフォノン(音子)を量子的な重ね合わせにすることに成功しました。
重ね合わせ状態になった1個のフォノンは2つの場所に同時に存在するようになり、観測されるまでどのマイク(収音器)に辿り着くかわかりません。
音が「聞こえる状態」と「聞こえてない状態」が重なり合う不思議な世界では何が起こるのでしょうか?
今回はまず光子を例にとって量子現象を説明しつつ、フォノンにも同じ量子的振る舞いが起こる様子を紹介していきたいと思います。
研究内容の詳細は2023年6月8日に『Science』にて掲載されました。
目次
- 「存在する状態」と「存在しない状態」に分割する
- 世界中の研究室には「シュレーディンガーの猫」生成装置がある
- フォノンは「質の悪い壁」で量子状態になる
「存在する状態」と「存在しない状態」に分割する
私たちが好きな音楽を聴くとき、音楽は途切れの無い波のように感じます。
ですが実際には、全ての音は「フォノン(音子)」とよばれる小さな単位でできています。
光も一見すると途切れなく部屋の中を照らしているようにみえても「フォトン(光子)」という最小単位が集まって構成されていますが、音もフォノン(音子)の集まりでできているのです。
そのため量子力学的には、フォノン(音子)はフォトン(光子)の音版と言うことができるでしょう。
フォトン(光子)やフォノン(音子)に出会うには光や音を限界まで弱くします。
光や音を弱くしていくと、最終的に光や音には1個のフォトン(光子)やフォノン(音子)だけが含まれるようになります。
ただそれ以上小さくすることはできません。
最小単位である光子やフォノンは、それ以上分割できないという性質を持つからです。
しかし少なくとも光子については、量子力学のトリックを使うことで、ある意味での分割、すなわちある場所に「存在する状態」と「存在しない状態」が重ね合わさった究極の分割状態にすることが可能になります。
(※これは素粒子を分解して2つにするという意味ではありません。あくまで研究者の比喩表現です)
世界中の研究室には「シュレーディンガーの猫」生成装置がある
現代のシュレーディンガーの猫は光でできている
世界中の量子力学の研究室を除くと、どこも必ずと言っていいほど「スプリッター」と呼ばれる装置が存在しています。
スプリッターは「半透明のガラス」のようなもので、命中した光子をランダムに反射させたり透過させる性質があります。
ガラスを見たとき、向こうの景色と反射した自分の姿が同時に見えることがあります。
これは光の一部は透過して、一部は反射するために起こる現象です。量子力学的にはこのとき、透過する光と反射する光に条件による違いは無く、完全な確率によって決まっています。
そのため光子1個をスプリッターに命中させると、光子が「反射した現実」と「透過した現実」の両方が装置内部に重ね合わさった状態で出現します。
言い換えれば1つの光子が2つの場所(反射地点と透過地点)に同時に存在する状態になるのです。
そして光子がどちらの状態にあるかは「観測」という介入が行われるまで決定されません。
(※観測が行われるまで「どちらか」という情報は宇宙に存在せず、観測によってはじめて宇宙に情報が発生します)
ここまでで「シュレーディンガーの猫みたいな話だ」と思ったならば、大正解です。
スプリッターというのは猫の命を危険に晒さずに「シュレーディンガーの猫」の状態を作り出す、量子状態生成器なのです。
スプリッターという単語からはあまり凄みがわからないかもしれませんが、スイッチを入れれば量子状態を即座に生成してくれる装置だと考えれば、世界中の研究室にある理由もわかるでしょう。
ではこの量子状態生成器であるスプリッターを使って、音の量子化もできるのでしょうか?
フォトン(光子)とフォノン(音子)は大きく違う
これまでの研究では光子の他にも類似の手法を用いて、電子や原子、さらにより巨大な分子を量子的状態に変化させることに成功しています。
(※量子的状態にさせる方法としては他に2重スリット実験などに代表される干渉法も利用されています)
理論的には量子的状態にできるサイズに上限はないと考えられており、現在はウイルスや細胞など生物学的サイズの物体でのチャレンジが行われています。
では音の最小単位であるフォノン(音子)ではどうなのか?
答えを正直に言うならば「誰も想像すらしていなかった」となります。
光子や電子は、波と粒子という2つの性質を同時に持つ奇妙な物質ですが、音は空気や弦など媒体を振動して伝わっていく波そのものです。
フォノン(音子)は正式な素粒子ではなく、あくまで素粒子の性質を研究するために、音の振動を最小の粒子に見立てたものなので、光子や電子、原子や分子とは概念的に異なった存在なのです。
実際、これまでの研究ではスプリッターを使って光子や電子、原子や分子などの重ね合わせ状態を研究した多くの論文が出されていましたが、フォノンの重ね合わせ状態についてはほとんど調べられていませんでした。
目に見えない粒子ならともかく、音の「聞こえる状態」と「聞こえない状態」が重なり合わさっているのは想像しにくかったのかもしれません。
しかし量子力学の進歩により、ついにフォノンの重ね合わせ状態に挑む試みが始まりました。
今回、シカゴ大学の研究者たちは、フォノン専用のスプリッターを開発し、音も量子的な重ね合わせ状態にできるかを実証することにしたのです。
しかし光子ならば半透明のガラスを使えばいいのはわかりますが、音のスプリッターとはいったいどんなものなのでしょうか?
フォノンは「質の悪い壁」で量子状態になる
フォノンを量子的な重ね合わせ状態にしてみた
フォノンを重ね合わせ状態にする装置とはどんなものなのか?
研究者たちが手作りで開発した装置「音響スプリッター」は上の図のような設計になっています。
この装置の左右にはフォノンの送信(スピーカー)と受信(マイク)を担う量子ビットが備え付けられており、中央部にはスプリッターの「半透明なガラス」と同じ役割をするアルミニウム壁が存在します。
このアルミ製スプリッターは「質の悪い壁」のような特徴を持っており、音をランダムに反射させたり透過させたりします。
建築で使われたら中途半端な防音性能を持つ困った壁ですが、これは実験装置内部で1個のフォノンが「反射した現実」と「透過した現実」が重なり合う状態になり、フォノンが重ね合わせ状態になります。
研究者たちがアルミ製スプリッターの状態を操作して観測された反射と透過の割合を調べたところ、結果は古典物理学で説明できず、量子力学の法則に従うことが示されました。
この結果は、音も量子的な状態にさせて「聞こえる状態」と「聞こえない状態」を重ね合わせにできることを示します。
フォノンにもっと奇妙な量子現象を起こしてみた
次に研究者たちは、より不可解な量子現象として知られる「ホン・オウ・マンデル効果」がフォノンにも起こるかを調べることにしました。
この「ホン・オウ・マンデル効果」はかなりややこしいので、面倒ならこの部分の説明は読み飛ばしても構いません。
通常、時間差をつけて2つの光子Aと光子Bをスプリッターに命中させたなら、それぞれの光子は反射と透過をランダムに行い、両側の光子検出器は同じ数の光子を記録するでしょう。
具体的に言えば、上の図の示すような4通りのパターンが出現します。①「光子A反射・光子B透過」②「光子A透過・光子B透過」③「光子A反射・光子B反射」④「光子A透過・光子B反射」
「ホン・オウ・マンデル効果」は反対方向からやってきた2つの光子が全く同じタイミングでスプリッターに入る時に起こります。
同じタイミングで2つの光子がスプリッターに命中すると、光子たちは区別ができなくなって、勝手に同じ性質を持つものに変化してしまいます。
そして同じ性質を持つならばスプリッターから出た後の挙動も同じになり、検出器にはつねに2つの光子が同時に記録されるようになります。
(※上の図で言えば①か④の結果しか出なくなります)
この結果について「意味不明すぎる」「常識としてあり得ない」「納得いかない」という感想を持つ人が多いでしょう。
同じタイミングで同じ場所にいる光子たちの区別がつかなくなるのはまだいいとして、その後の挙動まで一致してしまうのは「ニュートン物理学」ではありえません。
古典物理学のいかなる法則を用いても、この「ホン・オウ・マンデル効果」は説明できないのです。
故に逆説的ながら「ホン・オウ・マンデル効果」が確認できた粒子には、古典物理学では説明できない量子的状態になっていると言えるのです。
今回の研究では、同じことがフォノンでも起こるかが確かめられました。
結果、フォノンでも「ホン・オウ・マンデル効果」が起きていることが確認され、量子的現象が起きていることが示されました。
フォノンには数千億個から数兆個の分子が含まれている
今回の研究により、音の粒子フォノンにも光子と同じように重ね合わせ状態(もつれ状態)になれることが示されました。
現在、光子の量子的な性質を利用したコンピューターの開発が続いていますが、フォノンの量子的特性を追加することでコンピューターの論理回路を「光と音」で作動させられるようになるでしょう。
またフォノンの量子的振る舞いは、量子物理学がどこまでサイズアップできるか?という興味深い疑問にも役立つでしょう。
フォノンは数千億から数兆個に及ぶ分子の振動パターンによって構成されています。
今回の実験で使われたフォノンは人間の可聴域の100万倍にもなる超高音でしたが、フォノンの波長を長くしていくことで、理論上1つのフォノンサイズを数メートルにも拡大することができるはずです。
そうなるとフォノンの振動にかかわる分子数は莫大な量になり、巨視的物体に現れる量子効果を調べるいいモデルにもなるでしょう。
もしかしたら将来、フォノンの量子的特性を利用した「音の量子コンピュータ」も重要な技術になるかもしれません。
参考文献
Pritzker Molecular Engineering researchers “split” phonons – or sound – in step toward new type of quantum computer https://pme.uchicago.edu/news/pritzker-molecular-engineering-researchers-split-phonons-or-sound-step-toward-new-type-quantum元論文
Splitting phonons: Building a platform for linear mechanical quantum computing https://www.science.org/doi/10.1126/science.adg8715