クマムシは絶対零度で凍結されても、人間にとって致死量の500倍もの放射線に晒されても、空気がない宇宙空間に10日間放置されても生き残ることができます。
地球生命は自分が住む生活環境に適応するように進化してきましたが、クマムシの驚異的な耐性能力は地球環境と比べるとオーバースペックと言えるでしょう。
いったいなぜクマムシたちは、地球では考えられない環境に適応するように進化したのでしょうか?
今回は、クマムシの驚くべき能力がいかにして発見され、そして耐性の秘密を解明しようとした250年に及ぶ人類の研究史について、まとめて紹介したいと思います。
目次
- 現代のクマムシ研究は核戦争の恐怖の中ではじまった
- 水がない環境で生き残る
- クマムシ遺伝子のヒト細胞への導入がはじまっている
現代のクマムシ研究は核戦争の恐怖の中ではじまった
はじまりは、今から60年ほど前にフランスで行われた研究でした。
冷戦中の人類は常に全面核戦争の脅威にさらされており、放射線が生命に与える影響を調べるため、さまざまな生物に対して放射線を照射する耐久試験が行われていました。
1963年、調査の手はコケの中に生息していたクマムシたちにも及び、人間の致死量の500倍に相当する放射線を浴びせられることになしました。
すると驚くべきことに、クマムシは放射線に耐え、生き残っていることが判明します。
その後、さまざまな放射線(紫外線・ガンマ線に加えて鉄原子ビーム)を用いたテストが行われましたが、クマムシはあらゆる放射線環境下でも生き残れることがわかりました。
また凍結耐性を調べる試験では、クマムシは絶対零度(マイナス273度)での凍結にも耐えられることが示されました。
さらに宇宙を舞台にした研究では、宇宙船の外にクマムシを運び出して真空中に10日間晒すという試験が行われましたが、回収されたクマムシは問題なく生存していることが明らかになりました。
当時の研究者たちは、これら驚くべき耐久性能が「自然な進化によって獲得されたものとは思えない」と述べています。
全ての地球生命は自分が住む環境に適応するために進化を繰り返してきました。
しかしクマムシのような高い放射線耐性や絶対零度での凍結耐性、空気のない宇宙での生存能力は、地球で暮らすかぎりにおいては必要ありません。
いったいクマムシはどんな経緯で、これらのオーバースペックを獲得したのでしょうか?
水がない環境で生き残る
なぜクマムシは地球で暮らすにはオーバースペックな耐性を持っているのか?
謎を解く鍵は意外にも、古い文献に記されていました。
1775年頃、あるイタリアの科学者はクマムシを1滴の水の中に入れ、水が蒸発していくなかでクマムシにどんな変化が起こるかを観察していました。
(※クマムシは1773年、顕微鏡好きなドイツの牧師によって発見されました)
すると乾燥が進むとクマムシはダンゴムシのように丸まり、動かなくなりました。
乾燥したクマムシは97%の水分を失い、すり潰してみると、乾いた葉のように粉々になってしまいました。
しかし再び水が加えられると、乾燥していたクマムシは直ぐに元通りになって、30分後には水中で元気に歩き回っている様子が確認されます。
(※すり潰したものは死んだままでした)
また後の研究において乾燥中のクマムシが詳しく調べられた結果、乾燥して丸まっているクマムシは呼吸がとまり、酸素の消費も行われていないことが判明。
クマムシは生命活動を停止した完璧な仮死状態になることで、乾燥を耐えていたのです。
クマムシが乾燥耐性を進化させた理由は明らかでした。
クマムシは主にコケや地衣類の表面など湿った環境のなかで、単細胞植物を食べながら生活しています。
しかしコケや地衣類が表面に保持している水分量は極めて不安定であり、しばしば乾燥によって表面の水分が完全に失われることがあります。
そのため逃げることができないクマムシは、長期間にわたる乾燥を生き延びる術を進化させたのです。
同様の乾燥耐性は、僅かな水分をよりどころに生きているワムシや線虫など他の生物にも確認されています。
彼らは地球上のあらゆる湿った場所に住み着いており、氷河表面(の僅かな水)のような場所ですら生活することができます。
そして彼らに対する研究が進むにつれて興味深い事実が判明しました。
ワムシや線虫などの乾燥耐性がある生き物にはクマムシ同様に、強い放射線や凍結に耐える能力があったのです。
この奇妙な一致は、乾燥に対する耐性が放射線耐性や凍結耐性と連動している可能性を示します。
どうやら生物の細胞にとって「乾燥」とは、単に水分がなくなること以上の何かがあるようです。
細胞が乾燥するとき、いったいどんな変化が起こるのでしょうか?
クマムシ遺伝子のヒト細胞への導入がはじまっている
細胞が乾燥すると何が起こるのか?
20世紀の後半になると、乾燥した細胞に起こるダメージの詳細が明らかになってきました。
乾燥した細胞では単に表面にシワやひび割れを起こすだけでなく、細胞内のタンパク質が変質を起こして、機能が停止してしまいます。
また乾燥が進むと細胞内に残った残った水は水素(H)と水酸化物(OH)に分解され、ラジカルと呼ばれる有毒な化学物質を発生させ、DNAを破壊することが明らかになりました。
クマムシが生き残るには、何らかの方法でDNAへのダメージを防がなければなりません。
2016年、日本の研究者たちはクマムシは、地球上の他の動物にはみられない「Dsup(ダメージサプレッサー)」と呼ばれるタンパク質を生成しており、この「Dsup」にはDNAに結合して有毒物質から保護する機能がある可能性が示しました。
さらにクマムシの遺伝子から「Dsup」の遺伝子を切り出して人間の細胞に加えたところ、人間の細胞も放射線や有毒物質に対して高い耐性を持つように変化したことが示されました。
2020年にはタバコにDsup遺伝子が導入されタバコのDNAを損傷から保護し、成長速度も増加させることに成功しています。
1773年からはじまったクマムシの研究は着々と進歩し、250年かけてヒト細胞に対して応用できる域に到達しました。
もしこのまま研究が順調に進んでクマムシの驚異的な耐性を人間やその他の生物にも完璧に付与できるようになれば、地球生命は宇宙環境にも適応できる、新たな段階に到達するかもしれませんね。
※この記事は2022年7月に掲載したものを再掲載しています。
参考文献
Tardigrades could teach us how to handle the rigors of space travel
https://www.sciencenews.org/article/tardigrades-space-travel-survival-humans
元論文
Extremotolerant tardigrade genome and improved radiotolerance of human cultured cells by tardigrade-unique protein
https://www.nature.com/articles/ncomms12808
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部