張本勲さん、4歳で右手に後遺症、5歳で被爆…鍛錬積み万能型の強打者へ 日韓野球界の橋渡しも
昭和のヒットメーカーだった張本勲さんは、反骨心をバネに鍛錬を積んだ努力家でもあった。4歳の頃に事故で負ったやけどの後遺症で右手が不自由に。5歳の時には広島で被爆して姉を亡くした。晩年は被爆体験を後世に伝えるため、積極的に語り続けた。在日コリアン2世でもあり、韓国プロ野球の発展にも尽力。日韓野球界の橋渡し役も担った。訃報(ふほう)を受け、国内外から悼む声が多く届いている。
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右手のハンディを背負っても、左手1本で柵越え弾を量産した。張本さんはやけどで一部の指がくっついて力は入らない中でも素振りを繰り返し、スタンスは広めにとって右足のステップは1足分だけ。余分な動きのない確実に打てるフォームでアーチを放った。
プロ入り後は戦前に阪神の強打者として活躍した松木謙治郎コーチのもと「左中間、右中間に強い打球で二塁打を狙え。角度さえつけば本塁打になる」という教えが、打撃スタイルの土台に。通算420本の二塁打のうち、引っ張った右翼への194本とほぼ同じ184本を左翼にも放った。生前に「当てにいったのはほとんどない。だいたい振り切っている」と語った通り、流し打ちでも長打になる力強さがあった。通算319盗塁と俊足でもあり「何が自慢できると言えば、通算打率3割、500本塁打、300盗塁。これは(米大リーグの名選手)ウィリー・メイズと俺、世界で2人しかおらんからな」。万能型の強打者であったことは誇りの一つだった。
広島市で生まれ育ち、5歳の時に原爆を体験した。自宅は爆心地から約2キロ。自身の命は助かったが、勤労奉仕中だった6歳上の姉を失った。きれいで友達にうらやましがられた自慢の姉は全身焼けただれた姿で運ばれ、息を引き取った。
原爆症で亡くなった友人もおり「自分もひょっとしたら」と現役時代は年1度の健康診断が怖かったという。当時は被爆者への偏見は根強く「うつるわけはないのに被爆者は蔑視されてきた」と苦しい思いを抱え続けた。テレビで若いタレントが原爆投下された都市を知らないと発言したことをきっかけに、60歳頃から被爆体験も語り始めた。22年のロシアのウクライナ侵攻の際には「戦争も核使用も人間のやることではない。悲惨なことはもう二度と起きてくれるな」と訴えた。
在日コリアンであることから子どもの頃からいじめも受けた。厳しい時代を生きる中で、野球は希望。エネルギーの源だった。韓国プロ野球が発足した82年から05年までは韓国野球委員会のコミッショナー特別補佐も務め、07年には韓国政府から国民勲章「無窮花(ムグンファ)章」も授与された。名選手としての姿、野球の発展に尽力した姿、そして「サンデーモーニング」で大沢啓二さんと共に「喝」や「あっぱれ」を飛ばして親しまれた姿。世代を超えた老若男女に愛されたレジェンドだった。