米国ニューヨーク州クーパーズタウンで行われた米国野球殿堂入りセレモニーでイチロー氏は自身のレリーフを手にする=2025年7月27日(米国時間)※田口有史氏撮影。ノークレジット。外部提供だが2次使用可能、外部配信可能。

【クーパーズタウン(米ニューヨーク州)27日(日本時間28日)=四竈衛、水次祥子】日本人で初めて米国野球殿堂入りしたイチロー氏(51=元マリナーズなど)が表彰式典に臨み、英語でスピーチを行った。「3度目のルーキー」「野茂さん、ありがとう」をはじめ、地元シアトルの実況アナウンサーのモノマネも披露。笑いと感動が詰まった約19分間のスピーチに、詰めかけた約3万人のファンからは「イチロー・コール」が鳴りやまなかった。

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盛大な式典の「大トリ」としてイチロー氏が登場すると、場内にはごく自然に「イチロー・コール」が沸き起こった。まずは、偉大な先人たちの仲間入りした今回の殿堂入りを、オリックス入団、メジャー移籍に続く「3度目のルーキー」と表現。ステージ後方で見守る先輩たちを見ながら、「でも僕も51歳。お手柔らかに」と言ってのけて、爆笑を誘った。

英語でも、「イチロー節」は全開だった。話題が多岐に及ぶ中、デビュー1年目にイチローが伝説となった「レーザービーム」を披露した際、実況した地元テレビ局のアナウンサーの声色を再現。1月の殿堂入り発表の際、1人だけ投票しなかった記者に対し、名乗り出れば「シアトルの自宅に招待する」と話したが、それも「期限切れです」とおどけながら口調を強め、笑いの渦に巻き込んだ。

かと思えば、真剣なテーマにも踏み込んだ。幼い頃からプロ野球選手を目指し、小学6年生当時に卒業文集に書き記した。ただ、イチロー氏はこれまでの経験から「ゴールと夢は違う」とハッキリと言った。

プロ入り後、自らの行く末に疑問を抱き始めていた当時、イチロー氏に明確な「ゴール」を示してくれたのが、95年に海を渡った野茂英雄氏だった。壇上から正面を見据えたイチロー氏は、このひと言だけは、日本語で感謝の言葉を残した。

「野茂さん、ありがとうございました」。

その後の会見では、あらためて野茂氏の存在について、初めて率直な胸の内を明かした。「自分がすごく悩んでいる時、葛藤があった時、野茂さんの活躍が目に入ってきて、すごく感動した。MLBとの距離は野茂さんのおかげで劇的に変わった」。オリックス時代の93年、イチローがプロ1号を放った相手が当時近鉄の野茂氏だった。「日本人のたたずまいとか所作。野茂さんの淡々とプレーし続ける姿は、すごく感銘を受けました」。先輩をリスペクトする言葉に、場内は静まり、その後、柔らかい拍手に包まれた。

最後は各所属球団の関係者らへ感謝の思いを伝え、最前列で見守る妻弓子さんには独特の表現を使った。「僕は選手としてコンスタントな選手でいようしてきましたが、彼女は最もコンスタントなチームメートでした」。悪天候のため、予定より1時間遅れて始まった式典。「Thank you」とイチローが締めくくった時、深緑の山々に囲まれた会場の上空には、澄んだ青空が広がっていた。

▽ESPNシアトルのシャナン・ドレイヤー記者 すごくおもしろかった。笑いもあれば、真面目な話もたっぷりあって、メリハリが効いていた。イチローらしかったと思う。

▽シアトル・タイムス紙のラリー・ストーン記者 素晴らしかったし、気に入った。今日の5人の中てベストのスピーチだった。おもしろさと感情的なテーマがうまくアレンジされていた。個人的には、彼が奥さんと一緒に試合を見に行ってホットドッグを食べた話がおもしろかった。彼にとって野球では最高の思い出というのがね。野球への情熱、162試合に臨む準備の話なんかもイチローらしかった。

▽サンフランシスコ・クロニクルのジョン・シェイ記者 観衆を何度も笑わせ、彼自身もそれを望んでいたし、最高のスピーチになったのではないか。そして、彼の哲学や思いも伝わってきて、多くのファンが聞き入っていた。球宴のときに彼が英語でジョークを言っていたのは聞いたことがあるけど、こんな長いスピーチを英語でしたのは初めて。素晴らしかった。

▽ニューヨーク・ポスト紙のダン・マーティン記者 ウイットに富んで、とてもいいスピーチだった。CC・サバシアのスピーチも良かったが、今日はイチローがすべて持って行った感じだね。ヤンキース時代から彼は英語を話すのは知っていたけれど、今日はみんなにそれが伝わった。聞き取れない言葉はほとんどなかったよ。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 イチロー氏、笑いと感動が詰まった19分間 殿堂入り英語スピーチ「すべて持って行った」米記者