阪神タイガース実況CDマガジン創刊記念記者発表会でスペシャルトークを行う日刊スポーツ評論家の吉田義男氏=24年4月

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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吉田さん、京都に眠る--。今年2月3日に亡くなった阪神85年日本一監督、吉田義男さんの納骨の儀が、生まれ故郷の由緒あるお寺でしめやかに営まれた。

その日朝、兵庫県内の自宅を出て家族と故人が納められた骨壺が向かった先は、甲子園球場だった。“牛若丸”と称され、計3度の阪神監督を務め、球団初の日本一も成し遂げた。

「甲子園は内野が育つんですわ」と力説したのは、本人がここから超一流にのし上がった自負があったからだろう。「わたしは阪神に人生をささげた」と言い切った甲子園は、まさに人生そのものだった。

名選手、名監督として数々のドラマを演じた思い出が尽きない甲子園との最後の別れの瞬間がきた。「パパ、お別れよ…」。まだ静寂に包まれた球場外周をゆっくりと一周した。

真夏の京都が暑いのは知られるが、その日もセミの鳴き声がつんざいた。墓石の正面に刻まれた「吉田義男之墓」--。そして骨壺から取り出された故人の遺骨は、厳かに埋葬されたのだった。

生前は都内にお墓を建てることも考えられたが、吉田さんはつぶやいた。「東京はかなわん…」。そして自身が入る墓所に選んだのが、生まれ育った京都だったのだ。

吉田さんは京都市内で薪炭業を営む実家の、2男3女の次男として誕生。自宅近くの竹内鉄工所の主人が集めた子供たちの輪に入ったのが、野球を始めたきっかけだ。

太平洋戦争の戦禍を逃れるための学童疎開も経験した。「京都は戦前から野球が強かったんです」。本格的に野球に取り組むのは戦後の47年に旧制京都市立第二商業に入学してからだ。

戦時中に中断された甲子園大会が再開されて「高校野球」になった記念すべき「第1回センバツ」の決勝戦、京都一商-京都二商の伝説の一戦を補欠としてスタンドから見たのをなつかしんだ。

戦後の学制改革で京都二商が廃校、5年生(旧制3年10月)で府立山城商(旧京都第三中)に転入。だがその年、結核を患った父・正三郎さんが他界し、続けざま母・ユキノさんも亡くなった。

両親を失った吉田家は経営的苦境に立たされ、生活が困難になった。ユキノさんから「義男は好きなことをやりなさい」といわれて野球を志した息子は中退して働くことを考えた。

家族は一枚の肉を5人で切り分けて食べつなぐ厳しさだった。野球どころではない弟に「お前は野球を続けろ」と言ったのは、兄の正雄さんだ。

「兄貴はとても商売に向く性格でなかったし、建設関係の仕事に就きたかったはずなんです。でもみんなの父親代わりになってくれたんですわ」

山城高では、後栄治(うしろ・えいじ)監督のもと初の甲子園大会に出場する。「山城に吉田あり」と称された男は、立命大を経て阪神入り。史上最強ショート、セ・リーグ制覇、日本一に導いた功労者だった。

京都市が10年に制定した「京都スポーツの殿堂」の第1回に元広島・衣笠祥雄さん、陸上の朝原宣治さんとともに選ばれた。京都野球協会の「野球殿堂」でも野村克也さんと2人が功績をたたえられた。

「京都は奥が深いんでっせ」と話したが、当然のことながら京都では顔利きだった。さまざまな人脈を持ったから「〇〇が祇園で遊んでいた」といった情報などはすぐに耳に入った。

そういえば長嶋茂雄さんのデビュー当時を思い出しながら「こりゃ勝てんなと思いましたわ」と思い出話も聞かされた。吉田さんの対巨人の監督采配数は球団最多。選手、監督として伝統の一戦を彩ってきた。

ただ心残りは、43歳の若さで他界した正雄さんに優勝した姿を見せることができなかったことだ。「わたしが野球でメシを食ってこれたのは兄貴のおかげです」と一生の恩を悔いていた。

吉田さんの長女智子さんも、次女範子さんも、正月は決まって正雄さんのもとに連れて行かれた。野球選手の父親は不在が多く、幼少時は叔父にあたる正雄さんに海水浴など遊びに連れていってもらった。

ちょうど1年前、生前の吉田さんは、正雄さんが眠るご先祖のお墓と向かい合う地に、自らが入る墓所を決めた。それは感謝の意を示すかのようだった。野球人生の道しるべになった兄弟愛。今頃、きっと二人は再会を果たしていることだろう。(敬称略)【寺尾博和】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 吉田義男さんの兄への思い…父親代わり、43歳で他界した兄と向き合う京都の墓で“再会”/寺尾で候