早大時代の奥田氏(左端)はマネジャーとして野球部をまとめた(提供写真)

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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東京6大学野球で、早大野球部の伝説の名マネジャーだった奥田裕一郎が、泉下の人になった。3月31日、大阪府内で老衰のため他界していたことが分かった。84歳だった。

西早稲田にあった「安部寮」は、1925年(大14)に落成されている(のちに東伏見に移転)。畳の講堂には明治時代の創部から全野球部員の名前が書かれた木札が掛けられていた。

寮にはレギュラーだけが1人一室で入ることができた。マネジャーの奥田は責任者だったので、選手の生活指導から、寮の管理まですべてをまかなう役割をもたされた。

8歳年下で、同じ早大マネジャーだった小橋英明は、卒業後も奥田にかわいがられた1人だ。

「現役のときからケンカが強くて、怖がられていたようですね。野球部から出すあいさつ状や等の公式文書のひな型は、奥田さんが作ったものだと思います。面倒見の良い方で、よく進学、就職などの世話をしていました」

早大の同期生で、後に監督を務めた石山建一は自ら「コンビだった」という間柄だ。青春を過ごした2人は、社会人プリンスホテル硬式野球部を創部した際も協力し合った。

第2次長嶋巨人の編成部長補佐も務めた石山は「早稲田の考えは自主管理です。だから寮を守るマネジャーが腰抜けでは困るんです」と盟友を表した。

奥田が早大に在籍した当時は6季連続4位以下で低迷した。“鬼の連蔵”といわれた監督・石井連蔵のスパルタ的な厳しい指導がOB会などから突き上げられて辞任に追い込まれる。当時の石山は副主将だった。

「自薦他薦があって、なかなか監督が決まらなかったんです。毎日のように新聞がかき立てるし、これに選手も巻き込まれた。これはまずいと思って、奥田君と話してキャンプをやろうとなった。主力をピックアップして12月24日から千葉の館山で監督不在の合宿をしたんです。それだけマネジャーは権限を持ちましたからね。火をたきながらバッティング練習をしましたよ」

翌年の1964年(昭39)3月、石井藤吉郎が第10代監督に就任した。7シーズンぶりに東京6大学野球の春季リーグ優勝で復活を遂げるのだった。

奥田はその後、恩師の石井監督にかかわったOBによる「藤球会」(64年~73年)を結成。またアマチュアスポーツで全国優勝した監督を激励する「ABC会」、長船騏郎(早大出、日本学生野球協会 理事・事務局長)の「傘寿を祝う会」などを仕切った。

社会人クラレ岡山では監督に就いて、門田博光、外山義明(ともに南海)、得津高宏(ロッテ)、片岡新之介(西鉄)、平野光泰(近鉄)、安木祥二(中日)らをプロに輩出する。

特にプロ通算567本塁打(歴代3位)を記録した門田にとっては親代わりも同然だった。小柄な男が超一流にのし上がったストーリーには、手厚い教えをほどこした奥田の後ろ盾が存在した。

門田の後輩で、クラレ岡山に在籍した元関大野球部監督の藤田透も教え子だった。関大では二塁手として4連覇を達成。大学の2年下に山口高志(阪急)がいた。社会人ではショートに回って、都市対抗に3度出場している。

「奥田さんは元気のない選手は使わなかったですね。それに早くから“ドジャース戦法”を採り入れて、当時の社会人野球ではあまりやっていなかったバスターバッティングをよく練習しました」

藤田は61歳で関大監督を務めた後、大産大でも指揮をとった。伴侶になる夫人の笑子と結ばれた際、結婚式で仲人を務めたのは奥田夫妻だった。

「おそらく何十件と仲人をしたんじゃないですかね。それだけ信頼が厚かった人です。いつも就職、家庭的な相談にも乗ってましたからね。ぼくも監督のときに、選手に寄り添ってやるように言われたものです」

プロ・アマ球界にかかわりながら多方面で影響力を持ち続けた。野球とともに生きた人生だった。(敬称略)

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 早大野球部伝説のマネジャーだった奥田裕一郎はプロ・アマ多方面で影響力、仲人もたくさん/寺尾で候