楽天対日本ハム 通算2000安打を達成し試合後の会見で笑顔を見せる楽天浅村(撮影・垰建太)

<楽天2-1日本ハム>◇24日◇楽天モバイルパーク

涙をこらえきれなかった。楽天浅村栄斗内野手(34)が平成生まれ初、史上56人目の通算2000安打を達成した。日本ハム戦(楽天モバイルパーク)に「3番一塁」で先発。初回に山崎から先制の右前適時打を放ち、4月の通算300本塁打に続く節目に到達した。お立ち台では人目もはばからず涙。西武時代に背中を追った“兄”でも届かなかった偉業を成し遂げた。楽天在籍時の選手では、15年松井稼頭央以来2人目の快挙。大阪桐蔭出身者で初の名球会入りの資格を得た。

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浅村が泣いた。2000安打を決勝打で飾り、堂々と上がった本拠地のお立ち台。インタビューを受けながら自然と涙があふれた。

「本当に泣くなんて想像してなかったんですけど、今までのことがパッと出てきて。2000本で涙流す人なんていないでしょ? 恥ずかしいと思って。いろんな感情が出てきて、ちょっと涙出ちゃいました」

苦しんで苦しんで、やっと出た。初回1死二塁、日本ハム山崎の5球目を右前にはじき返す先制打。浅村らしい逆方向への打球で節目を刻んだ。「忘れることのないヒットになると思いますし、2000本というヒットの中でも一番思い出に残る1本」。2回は左前に2001本目を運んだ。

自己ワースト35打席連続無安打もあった。20日には連続試合出場も歴代4位の「1346」で途切れた。そんな試練を乗り越えた末の偉業。チームメートも総立ち、歴史的瞬間を目に焼き付けたファン、さらには日本ハムナインから称賛の拍手が送られた。

プロへの道は険しかった。大阪桐蔭2年時の冬に提出した進路希望には「プロ」と記した。だが、1学年上の中田翔(中日)のようにスカウトが連日視察に訪れる超注目株ではなく、いわゆる“いい選手”だった。3年春時点ではドラフト5位で指名されるかどうかの立ち位置で、指名漏れした場合は、社会人チームに進むことが内定していた。

のちにドラフト3位で指名した西武からも「ほぼほぼ厳しい」と当初は酷評されていたが、08年夏の甲子園ですべてを覆した。1番打者として大爆発し、優勝に貢献。当時、西武の中心選手として活躍していた中島宏之氏(42)の後継者になれる次世代ショートと評価は180度変わった。

“兄”のように慕う中島の背中を追った。西武時代の1年目オフから4年間、自主トレに同行。浅村は「中島さんとの練習、一緒にプレーした時間が今の自分を作ってくれた」と薫陶を受けた。「右方向にすごいホームランを何本も打っているのを見て、こういう選手になりたい」と憧れた。

中堅から右方向への打球が多いのは、13年6月の左肩の負傷も影響している。「ある程度のけがは(試合)出られる」が浅村の信条。肩に負担の少ない打撃フォームを模索する中、テニスラケットを握り、右手でボールを運ぶイメージでスイングするようになって、ヒットゾーンが広がった。「引っ張れないほど結構重症で、その中でどうやったら痛くないか、どうやったら打てるかを考えて」。けがの功名だった。

数々の苦難を乗り越え2000安打に到達したが、あくまでも通過点。旅はまだまだ続く。【山田愛斗】

◆浅村栄斗(あさむら・ひでと)1990年(平2)11月12日生まれ、大阪府出身。大阪桐蔭3年の08年夏、甲子園で6試合16安打を放って優勝。同年ドラフト3位で西武入団。3年目の11年に1軍に定着し、初の規定打席到達。18年オフにFAで楽天移籍。本塁打王、打点王が各2度。ベストナイン8度、ゴールデングラブ賞2度。オールスター出場8度。16年から昨季まで9年連続全試合出場。19年プレミア12、21年東京五輪で日本代表。182センチ、90キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸5億円。夫人はタレント、フリーアナウンサーの淡輪(たんのわ)ゆき。

◆日本プロ野球名球会 通算2000安打を達成した浅村は、名球会入りの資格を得た。名球会は78年に設立され、野球振興、社会貢献を目的にする団体。入会資格は日米通算で投手なら200勝または250セーブ、打者なら2000安打以上。入会資格に相当する記録保持者が、特例で入会する制度もある。理事長は古田敦也氏。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【楽天】浅村栄斗“兄”の背中追いかけ2000安打 重傷だった13年左肩負傷でフォーム模索が奏功