「村山派やったからな」岡田彰布の運命を変えた吉田義男との出会い/寺尾で候
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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組織において師弟の結びつきが、その人たちの運命を左右するのは、よく聞く話だ。この2人も、当人同士にしかわからない“特別な関係”にあった。
吉田義男と岡田彰布。創立90年の球団史で、阪神監督として日本一の頂点に立った、限られた2人には、また違った空気が漂ったものだ。
吉田が2月3日に亡くなると、岡田はすぐさま兵庫県内の自宅を弔問に駆けつけた。「感謝しかないよな」。その光景は静かに眠る恩師と“無言の会話”をしているかのようだった。
1985年(昭60)に吉田が2度目の監督に就くと、右大腿(だいたい)部断裂に見舞われ、故障がちで内外野を行き来した岡田を外野から二塁にカムバックさせる。
吉田は「監督になるまで岡田という男をほとんど知らなかったんですわ」と語ったし、岡田も「おれんとこは“村山派”やったからな」と無縁も同然だったようだ。
本職の内野を外れた岡田の心境を思いやり、その可能性をはかりながらの二塁固定は、組織のリーダーが腹を据えないと踏み切ることができない危険な賭けでもあった。
ただ吉田は「もう岡田の逃げ道はなかったんと違いますか」と話したが、吉田自身が監督として、その責任をかぶる決意を固めた言葉だったようにも聞こえた。
日航機墜落事故に見舞われてチームが沈むと、選手会長の岡田が中心に選手だけの決起集会が開かれた。後で吉田はチームが一丸になった転換点だったとなつかしんだ。
共通した基本は「守り勝つ」-。阪神で育った同じ内野手、通じ合った野球観で信頼関係は築かれた。オーソドックスで“当たり前を、当たり前に”がグラウンドの信条だった。
オリックスから岡田を阪神に指導者で戻すのを阪神本社に掛け合ったのも吉田だった。長すぎた充電期間にも「(阪神監督として)岡田ではアカンのですか?」と訴え続ける。
一方、再び阪神監督に就いた23年の岡田が日本一になったのは、同じようなコンバート作戦の的中が大きかった。最後まで優勝を封印して「アレ」で貫いたのも吉田イズムだ。
日本シリーズで対オリックスに勝ち抜くと、吉田は自宅の居間から真っ先に岡田の携帯に「岡田、おめでとう」と電話を入れた。岡田はまだテレビの向こうで優勝インタビューを受けている最中なのにだ。
吉田から岡田に伝統が引き継がれた瞬間のシーンだった。岡田も優勝会見で「最初に吉田さんから留守電が入っていました。大変喜んでいました」と隠さなかった。
後でそのやりとりを聞かれた岡田は「(吉田さんからの)重い一言だった」と振り返っている。阪神で監督を務める過酷さに耐えながら乗り越えたものにしか分からない感覚だろう。
泉下の人になった吉田のお別れの会が3月25日に営まれると、弔辞に立った岡田は「監督、大事な時に声、出ないんです。体調を壊して」と語りかけた。
どうしてもやり遂げなければならなかったお別れの言葉は「本当、たくさん語りたかったんですけど、ちょっと聞きづらいかもしれないですけど、監督、聞いてください」と感動的なスピーチで訴えた。
またその後の岡田は体調不良で入院したが、追悼試合になった4月27日の巨人戦で万全でないのに、テレビ中継局だった朝日放送の特別ゲストとしてマイクの前に座った。
断ることもできたはずが、酸素吸引器を携えて甲子園入り。決して本人は言わないが、そのときも甲子園で追悼する使命感に駆られたのだろう。
実力だけがモノをいう誰にも入り込めなかった2人の世界。そこには間違いなく“あ・うんの呼吸”があった。伝統は引き継がれた。(敬称略)