【阪神】吉田義男さんの「魅力を広げる力」日本サッカー界にも貢献、フランスとつないだ意外な縁
<吉田義男さんメモリーズ19>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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日仏両国で野球に取り組んだ吉田さんは、日本のサッカー界にも貢献していた。2002年W杯日韓大会で代表監督だったフィリップ・トルシエさんと食事をしたときのことだ。
前もって「フランス料理より中華が食べたい」というから、本格派チャイニーズを予約して入ったつもりが、そこはグランメゾンなフレンチだった。とんだ間違いに盛り上がった。
吉田さんはサッカーのフランス代表の鹿児島・指宿にある「指宿いわさきホテル」で行った直前合宿が厳戒態勢だったにもかかわらず、ジダン、アンリらスーパースターと会うことができた。
日本代表がW杯に初出場したのは、98年のフランス大会で、監督は岡田武史さんだった。Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会副会長だった川淵三郎さん(JFA相談役)は絶大なる力を持った。
日本はドイツにパイプがあったが、サッカー大国フランスとは全くといっていいほどコネクションがなかった。それが90年代後半に意外な縁によって、日仏サッカーがつながっていくのだった。
89年から7シーズン、フランス野球の代表監督を務めた吉田さんは、その後も毎年現地に渡って野球を教えた。吉田さんは「ある方から川淵さんを紹介されたんです」といった。
この2人をつないだのは、大実業家で、総理のイスを狙う大臣たちのパトロンだった。政官スポーツ、芸能界に幅広く人脈をもつ、日本の歴史に名を残すタニマチだった。
ある日、この人物と会ったのはシェラトン都ホテル大阪2階にあるカフェだった。「カレー食べてええか?」と言われたので、緊張しながら「〇〇〇さんにカレーをおごることができるなんて光栄です」と答えると笑われた。
まさに修羅場をくぐった眼光鋭い目つきで「人間いうのは権力だけでは付き合えんもんや。でも勢い盛んやった当時の吉田とは、だれもが付き合いたかったはずですわ、そんな男や」と教えられた。
吉田さんは、川淵さんとフランスのサッカー連盟との間で仲介役になるのだった。それが後にフランス人監督のトルシエ招聘(しょうへい)、日韓W杯の開催など、さまざまなことに結びついていった。
川淵さんは「吉田さんには日本のサッカー界も本当にお世話になった。フランスで野球の指導を続けた吉田さんのように夢を持っていれば、世界を突き動かし、魅力を広げていく力がある」と謝意を示しながら振り返った。
吉田さんが渡仏した当時のフランス野球は、他国と対外試合を組めば、10対0、20対0の大敗が当たり前のレベルだった。練習には遅刻するし、味方のエラーをカバーする意味も理解してもらえなかった。
「個人主義の国やからね。自分がバントで犠牲になるチームプレーなんてわかるわけはなかった。団体行動なんてやったことないんです。ベースカバーには“ふわっ!”っと投げるんやと言うても強く投げてしまうんですわ。でも真剣に教えていくうちに変わってきました」
試合をしていると、ベンチ前で「おれを使ってくれ」と言わんばかりに、選手たちが素振りをしてアピールするようになった。吉田さんは涙がでるほどうれしかったという。
フランス人たちには「失敗を気にせず思い切ってプレーしてくれ。負けてもいい。でもいつか5年後、10年後にパリに花を咲かせようやないか」と熱く訴え続けた。そして、いつも付け加えるのだった。
「なぁ、みんな、君たちの国の英雄ナポレオンも言いましたよね。自分の人生、我が輩に不可能という文字はないと…」【寺尾博和】